「大ヤサ」否定説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/12 00:35 UTC 版)
「大ヤサ」という成文法典は存在しなかったとする学説で、モーガンやチョクトらが唱えている。モーガンは各種史料の「ヤサ」の用法を比較検討して「ヤサ」という単語が必ずしも「法令」として用いられているわけではなくむしろ「命令・軍令」として用いられている例が多いことを指摘し、「成文化し首尾一貫して実施された法典としての大ヤサ」は存在しなかったと述べている。 また、チョクトは更に「ヤサ」「大ヤサ」「大ヤサ書」といった用語を厳密に比較検討し、「大ヤサ書」という用語が同時代のモンゴル語史料には全く見られず、主としてペルシア語史料のみに見られることから、「大ヤサ書」とはイラン人の「ヤサ」に対する概念理解のもとに作られた書名であると結論づけた。その上で、イラン人たちが「大ヤサ書」であると考えた書物は「ヤサの性格を持つ=罰則を伴う」ヨスンが記された、「ココ・デプテル (köke debter) =青冊」ではないかと推測している。
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