趙雲 趙雲の概要

趙雲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/11 13:41 UTC 版)

趙雲
蜀漢
鎮軍将軍・中護軍・永昌亭侯
出生 生年不詳
冀州常山国真定県
死去 建興7年(229年
拼音 Zhào Yún
子龍
諡号 順平侯
別名 虎威将軍
主君 公孫瓚劉備劉禅
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生涯

公孫瓚の配下にいた頃、青州袁紹と戦っていた田楷の援軍として公孫瓚が劉備を派遣した際、趙雲も随行して劉備の主騎(騎兵隊長)となった。

建安13年(208年)、荊州の当陽県長坂で曹操自ら指揮を執る5,000の兵に追いつかれた劉備は、妻子を捨てて逃走した。この時、趙雲が劉禅を身に抱え、更に甘夫人を保護したので、2人は危機を免れることができたが、劉備の娘2人は曹純に捕らえられた(長坂の戦い)。この戦いの後、牙門将軍に昇進した。

劉備の入蜀時には荊州に留まった。建安18年(213年)、諸葛亮張飛劉封らと共に長江を遡って入蜀し、益州の各郡県を平定した。趙雲は江州から別の川に沿って西進し、途上で江陽を攻略した。益州が平定された後、翊軍将軍に任ぜられた[注釈 1]

劉備の東征では、魏への備えと後方支援のため江州に駐屯し、敗走する劉備の救援を行った。建興元年(223年)、劉禅が即位すると中護軍・征南将軍へ昇進し、永昌亭侯に封じられた。後、鎮東将軍に昇進した。

建興5年(227年)、諸葛亮と共に北伐に備えて漢中に駐留した。建興6年(228年)、諸葛亮が斜谷街道を通ると宣伝すると、曹叡曹真を郿に派遣し、諸軍の指揮を命じて駐屯させた。趙雲は鄧芝と共にその相手をする事となり、諸葛亮は祁山を攻めた。曹真は箕谷に大軍を派遣したが、兵の数は趙雲と鄧芝の方が多かった[注釈 2]という(『漢晋春秋』)。しかし曹真の兵は強く、趙雲と鄧芝の兵は弱かったので、箕谷で敗北した。その際趙雲は自ら殿軍を務め、軍兵を取りまとめてよく守り、輜重もほとんど捨てずに退却できたため、大敗には至らなかったが、鎮軍将軍に降格された[注釈 3]。一方、『華陽国志』では位階ではなく禄を貶したとの記録がある。『水経注』によると、この撤退戦の際、赤崖より北の百余里に渡る架け橋を焼き落すことで、魏軍の追撃を断ち切っており、その後しばらくは鄧芝と共に赤崖の守りにつき、屯田を行っている。

建興7年(229年旧暦11月、没した。子の趙統が後を継いだ。

景耀4年(261年)、趙雲は順平侯の諡を追贈された。法正・諸葛亮・蔣琬費禕陳祗夏侯覇は死後すぐに、関羽・張飛・馬超龐統黄忠は景耀3年に追贈されており、趙雲は12人目である。時の論はこれを栄誉とした。

趙雲別伝

正定県趙雲故里にある趙雲像

正史『三国志』(蜀書)趙雲伝に裴松之が引用した『趙雲別伝』には、趙雲について以下の記述がある。

生誕

常山真定出身。身長八尺(約185cm)、姿や顔つきが際立って立派だったという。

公孫瓚配下時代

故郷の常山郡から推挙され、官民の義勇兵を率いて幽州の公孫瓚の配下となった。

当時、袁紹は冀州牧を称していた為、公孫瓚は冀州の人々が袁紹に従うことを憂いていた。公孫瓚は趙雲の来付を喜び、趙雲をからかって「聞くところでは、君の州の人は、みな袁紹に付くことを願っているという。君はどうして、ひとり心をめぐらせ、迷ったのちに正道に戻ることが出来たのか」と言った。趙雲は「いま天下は乱れ、いまだ誰が正しいのかを知ることができず、民には逆さ吊りにされるような災厄があります。わたしの州の議論は、仁政のある所に従います。袁紹殿を軽視し、個人的に将軍(公孫瓚)を尊重したのではありません」と言った。こうして公孫瓚とともに征討した。

この時、公孫瓚の元に身を寄せていた劉備と出会い、これが二人を結びつける機縁となる。次第に劉備と趙雲は仲を深めていった。

その後、趙雲が兄の喪のために公孫瓚の下を辞して故郷へ帰ることになった。劉備は、自らの下にもう二度と戻って来ることはないだろうと悟り、[注釈 4]趙雲の手を固く握って別れを惜しんだ。趙雲は別れの挨拶をして、「絶対にあなたの御恩徳に背きません」と答えた。

劉備との再会

建安5年(200年)頃、曹操に追われた劉備が袁紹を頼って来ると、趙雲はで久しぶりに目通りし、劉備は趙雲の来付けを喜び、同じ牀(ベッド)を共にして眠った。劉備は趙雲を派遣して募兵させて、密かに募った数百人の兵を連れて、みな劉備の部曲(私兵)と称したが、袁紹はこの動きに全く気付かなかった。こうして趙雲は劉備に随って荊州へ逃れた。

劉備配下時代

旧友を生け捕る

建安8年(203年)、博望坡の戦いで、敵将の夏侯蘭を生け捕る武功を挙げたが、彼が小さいころからの同郷の旧友であることから、劉備に助命嘆願すると共に、法律に明るい人物として軍正に推挙した。その結果、夏侯蘭は軍正として登用されたが、趙雲は以降、降将の夏侯蘭が無用の疑いをかけられぬよう、自分から彼に接近しないように気遣った。

長坂坡の戦い

趙雲(長坂の戦い)

建安13年(208年長坂の戦いにおいて、劉備が敗れると、趙雲が北に逃げ去ったと言うものがいた。劉備は手戟を投げつけて、「子龍はわたしを棄て逃げることはない」と怒った。ほどなく趙雲が到着した。

荊州平定

建安13年(208年)荊州平定に参加し、偏将軍・桂陽太守になったとされる(赤壁の戦い#南郡攻防戦)。また、この桂陽攻略時に降伏した太守の趙範が、自らの兄嫁の樊氏(未亡人)を趙雲に嫁がせようとした。趙雲は「わたしとあなたは同姓ですから、あなたの兄なら、わたしの兄のようなものです」と、同姓を理由に断わった。樊氏は傾国の美女であったので、なおも趙雲に、娶るようすすめる者がいたが、趙雲は「趙範は追い詰められて降ったに過ぎず、内実は判った者では有りません。それに、天下に女は少なくありません」と述べて、これを固辞した。その後、趙雲の警戒通り趙範は逃亡したが、趙雲は何の未練も持たなかった。

阿斗奪還

劉備は趙雲を留営司馬に任じた。そのころ、劉備の正妻となっていた孫権の妹である孫夫人(孫尚香)は、孫権の妹であることを鼻にかけ、呉の官兵を率い、侍女には武装させて、軍法を無視するわがままぶりを発揮し、劉備は手を焼いていた。劉備は趙雲が厳格で公私をわきまえ、全体を引き締めるには最適の人物であると判断し、趙雲を目付役(監視役)としてこの役に任命した。

孫権は劉備が入蜀したことを知ると、孫夫人を呉に帰らせたが、その際に孫夫人は劉禅を連れて行こうとした。諸葛亮は趙雲に命じ、張飛と共に長江を遮り、劉禅を奪回した。このエピソードは『漢晋春秋』にも載っている。

益州平定

益州支配後、劉備が益州に備蓄してあった財産や農地を分配しようとした。趙雲は「益州の民衆は度重なる兵火に見舞われ、田地も屋敷も荒れ放題でございます。今はこれを民衆に返し、安心して仕事に戻れるようにし、それから賦役を行なえば、自然と心服するでしょう」と反対した。劉備はその意見に賛成し、従った。

定軍山の戦い

建安24年(219年)、漢中攻め(定軍山の戦い)で、曹操軍の兵糧を奪うため、黄忠は趙雲の兵を借り出陣したが、約束の時間を過ぎても戻ってこなかった。心配した趙雲は少数の兵を率いて偵察へ向かったところ、曹操の大軍と出くわしたが、見事な撤退戦で無事に囲(拠点)へと戻った。この際、敵陣に取り残された張著を救出した。

しかし曹操軍は再び盛り返し、趙雲らの囲まで追撃してきた。囲には沔陽長の張翼がおり、張翼は門を閉じ拒守しようとしたが、趙雲は陣営に入ると大いに門を開き、旗を伏せて太鼓を止めさせた。曹操軍は趙雲に伏兵があると疑い引きあげた。そして、趙雲は雷のように太鼓を天を震わせるほどたたき、で後から曹操軍を射た。曹操軍は驚き、混乱の中、互いに蹂躙し漢水の中に落ち、大勢が死んだ。(空城計

劉備は翌日の朝、趙雲の囲に自ら向かい、昨日の戦いの場所を視て、「子龍の一身はすべてこれ肝である(子龍一身都是膽也、子龍は度胸の塊の意)」と称賛した。楽を演奏し、宴会は夕方にまで至った。軍中は趙雲を号して虎威将軍とよんだ。このエピソードは『資治通鑑』にも載っている。

対呉戦争

章武元年(221年)、を討とうとする劉備に、趙雲は「国賊は曹魏であり、孫権ではありません。魏を撃つことが先であり、魏が滅べば呉はおのずと降伏するでしょう。いったん戦端を開けば、それは終結させがたいものではありませんか」と諫めたが聴き容れられず、対呉戦争(夷陵の戦い)では、趙雲は江州督として留まった。劉備が敗戦すると永安まで兵を進めこれを救援した。

第一次北伐

建興6年(228年)、曹真に敗北した趙雲が自ら殿軍を務め、兵を巧みに取りまとめて軍需物資を殆ど捨てずに退却に成功した。諸葛亮は、副将の鄧芝に「街亭の戦いでは、わが軍が撤退するとき、将兵はばらばらになったが、箕谷の戦いでは撤退するときでも、わが軍はまとまることができた。これはどういうわけか?」と尋ねた。鄧芝は「それは趙雲将軍のおかげであります。将軍自らが殿となり、軍需品や器物をほとんど捨てずにすみ、わが部隊はまとまりを失わずすんだのです」と答えた。

諸葛亮は恩賞として、趙雲が持ち帰った軍需品の絹を将兵に分配しようとした。しかし趙雲は、「敗軍の将に恩賞があってはなりません。どうかそのまま残して赤岸(赤崖)の倉庫におさめ、10月になるのを待ち、冬の備えとされますようお頼みします」と進言した。この趙雲の進言に、諸葛亮は大いに喜んだ。

死後

劉禅は詔勅で、「趙雲はかつて先帝に従い、その功績はすでに顕かである。朕は幼いときに困難に直面しながらも、彼の忠誠と従順を頼りに危険から身を救うことができた。諡号とは、大きな功績を記す英雄を指す。世間では趙雲に諡号を贈るのは当然のことだと取り沙汰している」と述べた。

景耀4年(261年)3月、大将軍の姜維たちは会議を行い、以下を上奏した。

「考えますに、趙雲はむかし先帝に従い、その労苦・功績はすでに顕かであります。天下を巡り働き、法律を遵守し、功績は記録すべきものがございます。陛下をお救いした当陽の役(長坂坡の戦い)では、義は金石を貫き、忠は至上を守るに十分なものでした。君主がそれを賞することを思い、礼により下に厚くすれば、臣下はその死を忘れます。死者であり知覚があれば、それは不朽とするに足ります。生者であり恩に感じいれば、それは身を投げ出すに足るものです」

「謹んで諡法を調べますに、柔順で賢明で、慈愛を持ち恵愛にあふれることを『』といい、仕事を行う際に秩序のあることを『』といい、災禍や反乱を打ち勝ち平らげることを『』といいます。趙雲に諡して順平侯というべきです」


注釈

  1. ^ 『華陽国志』によると、翊軍将軍への昇進は劉備の漢中王即位後であり「關羽為前將軍,張飛為右將軍,馬超為左將軍,皆假節鉞。又以黄忠為後將軍,趙雲翊軍將軍。」と四将と並んで昇進したと記録されている。
  2. ^ 諸葛亮伝および『華陽国志』によれば、趙雲らの軍は擬軍(少数の兵を多数に見せかけること)であったという。
  3. ^ 胡三省は、『晋書』職官志を根拠にすると鎮軍将軍は四征将軍・四鎮将軍の上位であるため、鎮東将軍から鎮軍将軍へとなるとむしろ昇格になることを指摘し、「思うに、蜀漢の制度では鎮東将軍は方面の鎮圧を専らにするものだから、鎮軍将軍は雑号将軍だった。それゆえ降格となるのだろう」と述べている[2]。しかし蜀の鎮軍将軍は四征将軍や四鎮将軍同様に上位職の鎮軍大将軍の位が置いてあり、雑号将軍であるとは考えづらい。盧弼は「『宋書』百官志では、鎮軍将軍は四鎮将軍と比較すると、四鎮将軍に次ぐ。『晋書』のいう鎮軍将軍は鎮軍大将軍のことであるから、四征将軍・四鎮将軍よりも上位なのだ」と述べている[3]
  4. ^ 192年に常山郡は袁紹の統治領となった。
  5. ^ この時、他に増祀された従祀名臣は、倉頡仲虺中国語版畢公高周呂侯仲山甫中国語版尹吉甫劉章魏相丙吉耿弇馬援狄仁傑宋璟姚崇李泌中国語版陸贄中国語版裴度呂蒙正李沆中国語版寇準、王曾、范仲淹富弼韓琦文彦博、司馬光、李綱趙鼎文天祥、呼嚕、博果密、托克托常遇春李文忠楊士奇、楊榮、于謙李賢劉大夏[23]
  6. ^ 李光地によれば、趙雲が幼い後主(劉禅)を拾ったことが、夏侯嬰が幼い恵帝を拾ったことに対応している[24]

出典

  1. ^ 趙雲』 - コトバンク
  2. ^   (中国語) 『資治通鑑』巻71太和二年胡注, ウィキソースより閲覧, "據《晉書‧職官志》:鎭軍將軍在四征、四鎭將軍之上。今趙雲自鎭東將軍貶鎭軍將軍,蓋蜀漢之制,以鎭東爲專鎭方面,而以鎭軍爲散號,故爲貶也。" 
  3. ^ 『三国志集解』巻36趙雲伝, "《宋書· 百官志》鎭軍將軍比四鎭,在四鎭之次。《晉志》 之鎭軍將軍為鎭軍大將軍,故在四征、四鎭之上也。"
  4. ^ 楊子龍「浅談魏晋南北朝時期雑伝之別伝」『四川教育学院学報』第3号、2009年、57-58頁。 p. 58.
  5. ^ 朱静「魏晋別伝繁興原因探析」『塩城師範学院学報(文社会科学版)』第2号、2006年、62-66頁。 p. 65.
  6. ^ 田延峰「漢魏六朝時期人物別伝綜論」『宝鶏匯理学院学報(哲学社会科学版)』第2号、1995年、76-80, 20。 pp. 77-78, 80.
  7. ^ 趙華「略論別伝与史伝之異同」『黒河学刊』第6号、2003年、85-86頁。 p. 58.
  8. ^ 朱 2006, pp. 62–64.
  9. ^ 王煥然「試論漢末的名土別伝」『沈陽師範大学学報(社会科学版)』第2号、2004年、70-74頁。 p. 74.
  10. ^ 裴媛媛「魏晋別伝体例考論」『編輯之友』第11号、2012年、106-108頁。 p. 107.
  11. ^ 『三国志』巻14孫資伝注引『孫資別伝』
  12. ^ 田 1995, p. 80; 楊 2009, p. 58.
  13. ^ 漢書』巻65東方朔伝顔師古注, "謂如《東方朔別傳》及俗用五行時日之書,皆非實事也。"
  14. ^ 矢野 1967, pp. 30–31.
  15. ^ 田 1995, pp. 77, 80.
  16. ^ 渡邉 2020, pp. 242–243.
  17. ^ 渡邉 2020, p. 243.
  18. ^ 矢野主税「別伝の研究」『社會科學論叢』第16号、1967年、17-45頁。 p. 31.
  19. ^ 矢野 1967, p. 45.
  20. ^ 『三国志集解』巻36趙雲伝, "本傳先主為平原相時,[]雲已隨從主騎,《別傳》謂 '就袁紹,雲見於鄴' 則在建安五年後,此違反不可信也。";"諸葛賞罰之肅,雲猶貶號,其下安得濫賜?又足以明其不然。別傳類皆子孫溢美之言,故承祚不取。"
  21. ^ 『三国志集解』巻36趙雲伝, "雲之駁分賜,議甚忠正,然經國之務,有諸葛公在,必得其當,未應反待武臣駮議,殆家傳掠美耳。其諫伐吳,則又諸葛公所不能得之,其主追思孝直,恐散號列將非所及也。《別傳》大抵依仿諸葛子瑜書及孫權稱尊號諸葛公不明絕其僭之義為之。"
  22. ^ 『三国志集解』巻36趙雲伝, "雲之美德皆見《別傳》 ,而本傳略不及之,何哉?"
  23. ^   (中国語) 『清史稿』巻84礼志三, ウィキソースより閲覧, "[康熙]六十一年,[聖祖]諭:「帝王崇祀,代止一二君,或廟饗其臣子而不及其君父,是偏也。凡為天下主,除亡國暨無道被弒,悉當廟祀。有明國事,壞自萬曆、泰昌、天啟三朝,神宗、光宗、憙宗不應崇祀,咎不在愍帝也。」於是廷臣議正殿增祀[...]凡百四十三位。其從祀功臣,增黃帝臣倉頡,商仲虺,周畢公高、呂侯、仲山甫、尹吉甫,漢劉章、魏相、丙吉、耿弇、馬援、趙雲,唐狄仁傑、宋璟、姚崇、李泌、陸贄、裴度,宋呂蒙正、李沆、寇準、王曾、范仲淹、富弼、韓琦、文彥博、司馬光、李綱、趙鼎、文天祥,金呼嚕,元博果密、托克托,明常遇春、李文忠、楊士奇、楊榮、于謙、李賢、劉大夏,凡四十人。是歲,世宗御極,依議行,增置神主,為文鑱之石。" 
  24. ^ 『三国志集解』巻36評, "灌[]摧項羽於垓下,滕[]脫孝惠於彭城,比之定軍、當陽之事。"
  25. ^  季漢輔臣贊 〈贊趙子龍、陳叔至〉 (中国語), 季漢輔臣贊, ウィキソースより閲覧。  - 征南厚重,征西忠克。統時選士,猛將之烈。
  26. ^   (中国語) 『榕村語録』巻22, ウィキソースより閲覧, "趙雲、張嶷不獨有將略,其見事明決,持重老成,實古重臣之選。" 
  27. ^ 一身是胆”. 四字熟語辞典. 2024年6月7日閲覧。
  28. ^ 満身是胆”. 四字熟語辞典. 2024年6月7日閲覧。
  29. ^ 嘉靖元年(1522年)序刊『三国志通俗演義』二十四巻「盖因嚇喝主母、以致喪命、亦是不忠也。」
  30. ^ 上野隆三「『三国演義』における趙雲像」(PDF)『中國文學報』第38号、1987年、86-114頁。 p. 98.
  31. ^ 上野 1987, pp. 102–104.





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