綿ふき病 第三者医療機関での検査入院

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綿ふき病

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/17 15:03 UTC 版)

第三者医療機関での検査入院

否定派側の声が大きくなる一方で、田尻は第三者の医療機関での検証の必要性を考えはじめ、岡山大学附属病院に患者の受け入れを交渉したが断られてしまう[106]。その後も受け入れを承諾する医療機関は中々見つからず、患者であるN農婦とその家族も自宅から離れた遠方への転院には難色を示した[122]

困窮する田尻に助け舟を出したのは「前述した4例目の類似例」に携わった農学者の二国二郎[95]である。大阪大学産業科学研究所(ISIR)の所長で同大教授であった二国は、明石病院での事例を見聞した後の1964年(昭和39年)5月1日、岡山の田尻の病院を訪ね、この時点で入院7年目となるN農婦と相対した[82]。入院期間中に排出された多量の綿を確認し、N農婦の未切開の膿瘍から採取した膿にまみれた綿束を譲り受け持ち帰り、これを大阪の研究所で洗浄して加水分解やアセトリシス[123]等、あらゆる物理的、科学的検証を行ったが[7]、他の専門家によって明らかにされている従来の検証結果と同様のものであった[82]

綿ふき病の原因追及に熱意を持った二国は、医学や繊維学など特定の分野にこだわらない、分野の垣根を超えた総合的な研究機関の必要性を訴え、研究の賛同者を募り同年11月4日、総勢16名が田尻病院に集まった[7]。参加者は賛同した個人や各病院の代表者だけでなく、大阪大学生化学者赤堀四郎、同大の釜洞醇太郎、同大の藤野恒三郎といった高名な医学者らも参加し、1泊2日にわたりN農婦を検診して様々な討論を行ったが結論を得ることはできなかった[82]

大阪大学微生物病研究所附属病院

大阪大学微生物病研究所。
N農婦検査入院の当時は大阪中心部の堂島に所在した。

解決の糸口がつかめないまま時間が経過していった。田尻は他の医療機関での検査入院をN農婦と家族に根気強く説得しつづけ、ようやく1966年(昭和41年)になって本人と家族の承諾が得られそうになった。承諾が得られそうだと田尻より連絡を受けたISIRの二国は大阪大学微生物病研究所(通称、微研)所長の天野恒久[124][125]の許可をもらい、微生物病研究所の附属病院院長の芝茂[126][125]へ事情を説明し、N農婦を入院させて診察し、原因を究明し治療を行って治癒するのが理想だが、せめて体内で本当に綿が生産されているのかだけでも突き止めて欲しいと懇願した。二国の真剣な願い出に賛同した芝は微研附属病院外科医局員を全員集め、そこで改めて二国から経緯の説明と検査入院の要望を行い、外科医局員らにより承諾された[82]

1966年(昭和41年)4月12日、N農婦は岡山の田尻医院から車で6時間をかけて、大阪市大淀区(現北区堂島にある大阪大学微生物病研究所附属病院(今日のNTTテレパーク堂島付近)へ運ばれた[注 22][82]。微生物病附属病院では特別に用意された合成繊維で作られた衣料にすべて着替えさせ、病室内装備も綿の混入が起こる疑いが起こらないよう、あらゆる可能性を排除遮断した状態にしたうえで検診と創口の観察が行われた[128][82][87]

監視は微研附属病院の医局員が交代により昼夜不眠の24時間体制で続けられ、最初の5日間は発熱と衰弱があって創口からは多量の綿が排出し続けた。6日目から排出量が少なくなったものの、創口の奥をまさぐると少量の綿が確認された。排出量が減少するのと同時に発熱も治まり元気になっていったという。検査入院を知った大阪大学医学部附属病院内科耳鼻科婦人科泌尿器科神経内科の各主任教授がN農婦の診察に訪れ、かねてより田尻が報告した通り、尿中や胃液の中からも少量の綿が確認された[82]

このように検診と監視が数日間続き、入院11日目となる同年4月22日に大きな出来事が起こる。検査の一環として行った全身のレントゲン撮影で、腰部大腿部に太い木綿針 [129]のようなものが、折れたものを含め8本入っていることが確認されたのである[82][128]。当然ではあるがN農婦本人は針の挿入を否定し、事故などで針が入った覚えもないと言った[82]

検査入院の仲介役を担った二国は木綿針確認の知らせに驚くとともに、すぐに岡山の田尻に大阪へ来てもらうよう連絡し、田尻、二国、附属病院医局の一同が集まり今後の相談を行った。木綿針が体内で見つかったことは何らかのトリックである疑いを強く示唆するものの、これまでの田尻医院での9年間、そしてここ微研附属病院での24時間体制の10日間の観察を通じて、N農婦が自ら綿の挿入を行った現場、その瞬間は誰一人見ていないのである[82]

しかし、同大附属病院の精神医学科教授の金子仁郎[130]によって、N農婦の綿ふき現象はヒステリー身体化障害)による自傷症と診断されてしまった[82][87]。大阪大学の附属病院としては、自分たちの大学病院の専門家、それも教授からヒステリーの診断を下された以上「窓枠のない病室におくわけにはいかない[82]」ということになってしまい、4月25日にN農婦は岡山の田尻医院へ返されてしまった[39]

結局、微研附属病院の検査では病気の原因は不明のままで、病院長である芝茂によって作成された詳細な臨床報告書や観察結果のデータ類はすべて、同じ阪大関係の教授とはいえ医師ではない農学者の二国に渡され、発表も二国に一任されてしまった。つまり微研附属病院側はこの件から完全に手を引いてしまったということになる[82]

この木綿針をめぐる一連の慌ただしい動きを、小林忠義[109]は後年、その時の関係者の心境は「これでほっとした」ということであろうか、と推察し[87]、増田陸郎に至っては「厳重な24時間監視体制で医局員が疲労困憊して、本務に差し支えるまでになったための便宜的判定と考えたほうがよさそうである」と批判し[128]、詐病であるなら詐病でもよいので、主治医である田尻やN農婦本人が「カブトを脱ぐ」ようなハッキリした証拠をつきつけ「以後は綿の生産を中止せよ、はい参りました。」と何故解決できないのだ、と怒りを露わにした[131]

金子教授によりヒステリーの診断を下され、不穏になりつつあった学会内における綿ふき病の扱いは、更なる影響を与えられた。検査入院前は「これで事態が進展するはず」と期待した田尻や二国らは完全に梯子を外されてしまい、結果的に「詐病」の烙印を押された形になってしまった[39]

岡山大学医学部附属病院

岡山大学病院。2021年3月25日撮影。

主治医の田尻はヒステリーとされた診断に到底納得がいかず、以前断られた岡山大学医学部附属病院へ改めて相談を持ち掛け、N農婦の検診と観察を願い出た。田尻と阪大微研病院との間を取り持った二国は、微研病院長の芝から、その扱いについて一任された「臨床報告書」を持って同年7月に岡山の田尻の元を訪れた[82]。ところが内密に行われたはずのこの訪問を嗅ぎつけた読売新聞が、二国の同意を得ないまま同年8月5日付の同紙紙面で、二国と田尻が対立しているかのように書かれた記事を掲載してしまい、この結果、二国は綿ふき病の諸問題から手を引かざるを得なくなってしまう[132]。二国は不本意のうちに調査の継続を中断し、3年後の1969年(昭和44年)3月に大阪大学を定年退職することになった[133]

一方の田尻は嫌がるN農婦を説得しつつ、岡山大学への協力要請を根気強く続け、N農婦が大阪から戻された約3か月後の7月29日、岡山市にある岡山大学医学部附属病院(現岡山大学病院)の外科へ入院させた。この頃になると綿の排出は入院当初と比べかなり減ってきており、自然治癒が近づいていると感じた田尻は、これが黒白つける最後の機会になるだろうと考えたという[128]

岡山大附属病院での入院期間は約7か月間と、思いのほか長期間におよぶことになった。入院後しばらくの間は毎日5束から10束ほどの綿を排出し、尿中にも少量の綿が認められた。最も盛んに綿が排出する左下腿の創口を8月25日にギプス包帯で巻き、これを毎日巻き替えると3日後から綿の排出が1束から2束程度に減少、そして無排出の日が多くなっていき、この創口は快癒した[133]。10月26日にギプス包帯を止めてからは15日間隔でしか綿の排出が確認されなくなったものの、相変わらず尿中からは微量の綿が確認された[39][133]

やがて綿の排出が止まり、年が明けた1967年(昭和42年)2月19日[128]、N農婦は快癒したと判断され退院することになり美作の自宅へ帰宅した[133]。田尻の元へ訪れてから約10年後のことであり、これ以降、N農婦の医療機関への入院記録はない[55]

こうしてついに、綿ふき病とされる奇病は調査研究の手掛かりを失い[46]、無尿期間と綿排出頻度との関連性調査の進展は言うに及ばず、物理的な調査の継続、真の意味での原因を確かめることは出来なくなった[133]。綿ふき病の存在を信じた田尻と増田も「詐病」という言葉は刺激的であるので、科学的とは言えない玉虫色の曖昧な表現ではあるが「体内生産は疑わしい」という記述が好ましい、との結論に達した[17]

慶應義塾大学名誉教授の小林忠義は、本来であれば権威ある第三者の機関が充分な頭脳と施設を以って批判してくれることが望ましいが、いざ、自分がその立場になり生じることとなる、いわゆるestablishedママの側として、万一の権威の失墜をおそれ、多くの学者はこの種の話題に深入りしたがらないのだと、綿ふき病問題の根深さを指摘している[87]


注釈

  1. ^ 資料によっては田尻診療所と表記されたものもある。
  2. ^ 現在地である美作市明見から東方向へ約3キロほどの場所。
  3. ^ 農婦の本名は「野○文○」ママ。本名が記載された2つの文献記載中の名字と名前、いずれも2文字目が伏字である[15][16]。本記事では実名のイニシャル表記とした。
  4. ^ 渉猟した資料等からは子供の性別、人数は不明である。
  5. ^ 「しこり」のこと。
  6. ^ この開業医の具体名は渉猟した資料中には無く詳細は不明である。
  7. ^ 相部屋から個室への移動時期は不明。
  8. ^ 田尻医院でのデータのみ。1966年(昭和41年)の阪大微研附属病院と岡山大学附属病院入院時のデータは含まない。
  9. ^ 出典に提示した『田尻/1966年』と『増田/1988年』とでは膿瘍切開回数に齟齬がある。本記事ではより新しい『増田/1988年』(主治医である田尻本人から直接増田へ提供されたデータでもある。)に記載されたデータを使用する。なお、排尿回数については『田尻/1966年』以外のデータが存在しないため、『田尻/1966年』記載のデータを使用した。
  10. ^ 田尻医院でのデータのみ。1966年(昭和41年)の阪大微研附属病院と岡山大学附属病院入院時のデータは含まない。
  11. ^ 本図では割愛したが、N農婦の最後の膿瘍切開は、約1年後の1966年5月14日に田尻医師によって行われた左下腿部の切開である[42]
  12. ^ 出典での赤木の記述では腎部(じんぶ)。
  13. ^ 糞便中には綿毛は見られない[48]
  14. ^ 長年にわたって本症例を調査してきた増田陸郎[50]1988年(昭和63年)9月に発表した『日本医事新報』第3359号において、本症例について学術論文らしい体裁を整えているのは、『日本医事新報』第1869号に田尻保が記載した「多量の綿を産出する奇異な慢性肉芽性炎例について」のみであったと指摘している[51]
  15. ^ 倉敷市に所在する現、岡山大学資源植物科学研究所[77]
  16. ^ 出典の記述ではプラズマ(protoplasm)と表現されているが、誤解が生じるのでここでは原形質と表記する。
  17. ^ 日本病理学会誌への当該記載の所属先は「岡山大学医学部砂田外科教室(砂田輝武教授)」である旨が記載されている[83]
  18. ^ 出典『小林/1977年』によれば松岡の所属は横浜医科大学とあるが、新制大学移行に伴う再編により本発表と前後する1961年(昭和36年)に横浜市立大学に合流(現同大学医学部医学科)となったため、本記事では横浜市立大学と表記する。
  19. ^ 綿ふき病を否定する側が著した文献資料の中で、N農婦と直接相対し創口の観察等を行った上で書かれた文献資料は、この健田恭一による『綿ふき病見聞記 いわゆる"綿ふき病"への疑問』および同人による『日本医事新報』の同年4月17日号(№2138)、同年8月28日号(№2157)のみである。これ以外の否定的文献資料の著者はN農婦を直接診察していない。
  20. ^ 健田による綿ふき病を否定する所説は、同年の『日本医事新報』の同年4月17日号(№2138)、同年8月28日号(№2157)にも記載されているが『自然Nature』での記載内容と重なるため本記事では割愛した。
  21. ^ 各コメントの末尾に示した出典の記載内容から、一部改変のうえ引用した。
  22. ^ 大阪大学微生物病研究所附属病院は大阪大学微生物病研究所とともに、N農婦が検査入院した翌年の1967年(昭和42年)に吹田市の大阪大学吹田キャンパスへ移転。その後1993年平成5年)に大阪大学医学部附属病院と統合・合併している[127]
  23. ^ 『医中誌』とは特定非営利活動法人 医学中央雑誌刊行会が運営する、日本国内の医学関連分野の文献を収集した有料のオンラインデータベース。基本的に医療関係者が症例検索などで使用する。医学中央雑誌刊行会 2021年4月1日閲覧。
  24. ^ 國松の原著ではモルジェロンズ病表記ゆれによる)。
  25. ^ 二国も当初は「医学界の複雑さにおそれをなしてこの問題に関係する気持ちは全くなかったのであるママ」と述べている[145]
  26. ^ 日本のかつての地方行政区分であった令制国のひとつ美作国のこと。今日の岡山県北東部。
  27. ^ N農婦と田尻医師の没年は渉猟した範囲では確認できないが、N農婦は1914年大正3年)2月生まれなので存命ならば100歳を超えている。田尻医師は2009年平成21年)8月発行の岡山医学会誌の病院紹介「田尻病院」の中で故人[12]と表記されている。

出典

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  143. ^ 國松淳和 2020, p. 194.
  144. ^ "襤褸を出す". デジタル大辞泉プラス. コトバンクより2021年4月1日閲覧
  145. ^ 二国二郎『デンプン病と綿ふき病』p.207





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