元素の中国語名称
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歴史
清代の1855年、イギリス人医師、宣教師のベンジャミン・ホブソン(漢名、合信)は、上海の墨海書館から『博物新編』[15]という科学書を出した[16]。この本では、元素を「元質」と訳し、水素、窒素、酸素などの気体の性質と製法を紹介している[16]。元素名の翻訳は一貫しておらず、水素は「輕氣」または「水母氣」、酸素は「養氣」または「生氣」と訳している[16]。窒素は「淡氣」である[16]。「水母氣」は英語「hydrogen」の語源に基づく意訳と思われ、それ以外は対応する英単語の語源とは関係のない意訳と思われる。
『博物新編』の後、1870年代までには、『金石識別』[17]、『格物入門』[18]、『化學初階』[19]、『化學鑑原』[20]などの書物が化学元素の名称の中国語訳を試みた[16][21]。その訳語は、後出の対照表に示すように、著者によりまちまちである。
アメリカ人医師、宣教師のダニエル·ジェローム·マガウアン(Daniel Jerome Macgowan。漢名、瑪高温)と華蘅芳は、James Dwight Danaの『Manual of Mineralogy』という鉱物学書を翻訳し、『金石識別』と題した[17]。全12巻のうち巻十一の最後に「重率全表」という原子量の一覧表があり、意訳した元素名と音訳した元素名が登場する。音訳は、複数文字の漢字で、英単語の全音節を模しているように見える。例えば、「素地恩」(ナトリウム)は英語「sodium」の訳、「夕里西恩」(珪素)は、英語「silicium」(「silicon」の同義語)の訳と思われる。
アメリカ人宣教師のWilliam Alexander Parsons Martin(漢名、丁韙良、英語版記事)は、『格物入門』を著した[18]。全7巻のうち巻六が化学を扱っており、その中には「原行總目」という元素の一覧表がある。この一覧表所載の元素の一部について、中国語訳が付けられており、その訳語は、後出の表のとおりであり、大体意訳である。本書が砒素の訳に使っている「信石」とは、江西省の信州で産する石を意味し[22]、これは三酸化二ヒ素を含有する。マンガンの訳に使っている「蒙石」は、音訳かもしれない。
John Glasgow Kerr(漢名、嘉約翰)と何瞭然は、George Fownesの『Manual of Chemistry』とDavid Ames Wellsの『Well's Principles and Applications of Chemistry』の両書を種本として、『化學初階』を著した[19]。後出の表のとおり、元素名は意訳したものと音訳したものとがあり、意訳も音訳も、漢字1文字としたものが多い。「釩」は「礬」と同音の「凡」に金偏を付けて、アルミニウムの意味を表した意訳であろう。「鍟」は、英語「zinc」の発音を「星」の発音で模し、亜鉛の意味を表した音訳であろう。
John Fryer(漢名、傅蘭雅、中国語版記事)と徐寿は、『Well's Principles and Applications of Chemistry』を訳して『化学鑑原』を出した[20]。本書巻一の「第二十九節 華字命名」では、本書で採用した命名の理由が説明されている。すなわち、元素の名称を簡潔に意訳するのは難しく、西洋の発音の全部を音訳したのでは冗長だという[23]。そこで、西洋の発音の最初の音を1文字の漢字で音訳し、それが不都合な場合は次の音を1文字の漢字で音訳し、この漢字に偏(石偏、金偏)を加えて元素の種類を表す[24]。また、元素の名称が漢字1文字でないと化合物の命名に不便であるから、従来「白鉛」や「倭鉛」と呼んでいた亜鉛は、西洋の発音(英語の「zinc」)を採り「鋅」で表し[25]、「白金」は「鉑」に改める[26]。
『化學鑑原』が元素の名称が漢字1文字でないと化合物の命名に不便であるというのは、本書では、組成式や分子式の元素記号を漢字に置き換え、アラビア数字を漢数字に置き換えることで化合物を命名しているためと思われる。例えば、本書では、三酸化硫黄(SO3)は「硫養三」で[27]、二酸化炭素は「炭養二」で表している(「養」は「養氣」すなわち酸素。実際は縦書き)。
4冊に見られる訳語のうち、原子番号35までの主な元素の訳語を対照したのが次の表である[16]。「淡氣」が『格物入門』では水素を指し『化學初階』と『化學鑑原』では窒素を指し、「釩」が『化學初階』ではアルミニウムを指し『化學鑑原』ではバナジウムを指すという混乱ぶりが見て取れる。また、『金石識別』は複数文字で音訳、『格物入門』は意訳、『化學初階』は1文字で意訳(そのために造字をためらわない)、『化學鑑原』は1文字で音訳という傾向が読み取れる。さらに、現在中国で使われている訳は、『化學鑑原』の訳に近いことが分かる。
Z | 記号 | 日本語名称 | 金石識別 | 格物入門 | 化學初階 | 化學鑑原 | 現代の中国語名称 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | H | 水素 | 輕氣 | 淡氣 | 輕氣 | 輕氣 | 氫 |
3 | Li | リチウム | 劣非地恩 | 鋰 | 鋰 | 鋰 | |
5 | B | 硼素 | 布而倫 | 硼精 | 硼 | 𥑢 | 硼 |
6 | C | 炭素 | 炭 | 炭精 | 炭精 | 炭 | 碳 |
7 | N | 窒素 | 硝氣 | 硝氣 | 淡氣 | 淡氣 | 氮 |
8 | O | 酸素 | 養氣 | 養氣 | 養氣 | 養氣 | 氧 |
9 | F | 弗素 | 夫羅而林 | 弗氣 | 弗氣 | 氟 | |
11 | Na | ナトリウム | 素地恩 | 鹻精 | 鏀 | 鈉 | 鈉 |
12 | Mg | マグネシウム | 美合尼西恩 | 鎂 | 鎂 | 鎂 | |
13 | Al | アルミニウム | 哀盧彌尼恩 | 礬精 | 釩 | 鋁 | 鋁 |
14 | Si | 珪素 | 夕里西恩 | 玻精 | 玻 | 矽 | 硅、矽 |
15 | P | 燐 | 燐 | 光藥 | 燐 | 燐 | 磷 |
16 | S | 硫黄 | 硫磺 | 硫磺 | 硫磺 | 硫 | 硫 |
17 | Cl | 塩素 | 綠氣 | 綠氣 | 綠氣 | 綠氣 | 氯 |
19 | K | カリウム | 卜對斯恩 | 灰精 | 𨦗 | 鉀 | 鉀 |
20 | Ca | カルシウム | 丐而西恩 | 石精 | 鉐 | 鈣 | 鈣 |
23 | V | バナジウム | 凡奈地恩 | 鐇 | 釩 | 釩 | |
24 | Cr | クロム | 客羅彌恩 | 鏴 | 鉻 | 鉻 | |
25 | Mn | マンガン | 孟葛尼斯 | 蒙石 | 錳 | 錳 | 錳 |
26 | Fe | 鉄 | 鐵 | 鐵 | 鐵 | 鐵 | 鐵 |
27 | Co | コバルト | 苦抱爾 | 鎬 | 鈷 | 鈷 | |
28 | Ni | ニッケル | 臬客爾 | 鎘 | 鎳 | 鎳 | |
29 | Cu | 銅 | 銅 | 銅 | 銅 | 銅 | 銅 |
30 | Zn | 亜鉛 | 白鉛 | 白鉛 | 鍟 | 鋅 | 鋅 |
33 | As | 砒素 | 砒 | 信石 | 信の下に金 | 鉮 | 砷 |
34 | Se | セレン | 西里尼恩 | 硒 | 硒 | 硒 | 硒 |
35 | Br | 臭素 | 孛羅名 | 溴 | 溴 | 溴 |
气部(きがまえ)の元素名は、石偏、金偏の元素名より遅れて登場した。気体元素を气部の漢字で表すことを発明したのは、杜亜泉であるという[28]。杜は1894年発見の元素アルゴンのために「氬」という漢字を考案した[28]。その後、中華民国教育部が公布した『化學命名原則』では、従来「輕」「淡」「養」「緑」で表していた水素、窒素、酸素、塩素のために「氫」「氮」「氧」「氯」という漢字が採用された[28]。「气」の左下に「輕」「養」「緑」をそのまま書いた画数の多い字も、一時期使われたことがあるようである[29]。
- ^ a b 諸橋轍次 (1989年5月20日). 大漢和辞典 修訂版11巻. 大修館書店. pp. 617. ISBN 4-469-03087-2
- ^ 國家教育研究院. “辭典檢視 「硫 : ㄌㄧㄡˊ」” (中国語). 國家教育研究院. 2022年4月6日閲覧。
- ^ 國家教育研究院. “辭典檢視 「鎦 : ㄌㄧㄡˊ」” (中国語). 國家教育研究院. 2022年4月6日閲覧。
- ^ 発見年は英語版の元素発見年表によった。
- ^ 注釈1の文献、p.152, 【表4】を参照。
- ^ 國家教育研究院. “辭典檢視 「矽 : ㄒㄧˋ」” (中国語). 國家教育研究院. 2022年4月6日閲覧。
- ^ 國家教育研究院. “辭典檢視 「鎦 : ㄌㄧㄡˊ」” (中国語). 國家教育研究院. 2022年4月6日閲覧。
- ^ 國家教育研究院. “辭典檢視 「砈 : ㄜˋ」” (中国語). 國家教育研究院. 2022年4月6日閲覧。
- ^ 化學名詞-化學元素一覽表, 國家教育研究院雙語詞彙、學術名詞暨辭書資訊網, 閲覧日:2017.04.22
- ^ 王宝瑄〈中国化学物质命名中的汉字探讨〉《中国科技术语》(2010年)
- ^ 全国科学技术名词审定委员会〈第111号元素中文定名的说明及元素中文定名的原则〉《科技术语研究》(2006年)
- ^ CJK統合漢字拡張Fの登録申請書
- ^ 「Babelstone Han PUA」というフォントのページより。外字としてこれらの字を含んでいるが、出典がウィキメディア・コモンズとなっている。
- ^ a b c d “全国科技名词委联合国家语言文字工作委员会召开113号、115号、117号、118号元素中文定名会”. 2017年2月16日閲覧。
- ^ 合信『博物新編』
- ^ a b c d e f 劉廣定〈中文化學名詞的演變(上)〉《科學月刊》(1985年10月)
- ^ a b 代那(撰)、瑪高温(口訳)、華蘅芳(筆述)『金石識別』
- ^ a b 丁韙良『格物入門』
- ^ a b 嘉約翰(口訳)、何瞭然(筆述)『化學初階』
- ^ a b 韋而司(撰)傅蘭雅(口訳)、徐寿(筆述)『化学鑑原』(長崎大学附属図書館近代化黎明期翻訳本全文画像データベース)
- ^ 張澔〈在傳統與創新之間十九世紀的中文化學元素名詞〉《化學》(2001年)
- ^ 『大漢和辞典』縮写版1巻806ページ
- ^ 「譯其意義,殊難簡括;全譯其音,苦於繁冗」
- ^ 「今取羅馬文之首音,譯一華字。首音不合,則用次音,並加偏旁,以別其類,而讀仍本音」
- ^ 「惟白鉛一物,亦名『倭鉛』,乃古無今有,名從雙字,不宜用於雜質,故譯西音作『鋅』」
- ^ 「白金,亦昔人所譯,今改作鉑」
- ^ 「硫強水之無水者,爲硫養三」
- ^ a b c 劉廣定〈中文化學名詞的演變(下)〉《科學月刊》(1985年11月)
- ^ a b 青年科技史论坛5 阅读材料2:益智书会与杜亚泉的中文无机物命名方案 - ウェイバックマシン(2017年2月5日アーカイブ分)
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