三國連太郎 人物・エピソード

三國連太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/23 14:35 UTC 版)

人物・エピソード

撮影所では「連ちゃん」の愛称で親しまれた。1951年の阪東妻三郎主演の『稲妻草子』(稲垣浩監督)に三國を抜擢したのは、松竹が何とかして三國をスターとして売り出そうと考えてのことだった。当時、三國のサラリーは2万円ほどで、大食漢の三國は懐が寂しく、いつも木暮実千代に「何か食べさせてよ」と甘えていた。稲垣浩は三國を「そんなかわいい青年だった」と述懐している。その試写の席で三國の演技がまずかったと阪東から笑われたのを機に、三國は空いた時間は京都へ通い、時代劇のスターや監督の家を訪ね、教えを乞うていった[25]

この『稲妻草子』のあと、稲垣は東宝で『戦国無頼』を撮ることが決まっていたが、突然三國が「速見十郎太の役は僕がやります」と立候補してきた。三國は映画界に入ってまだ日も浅く、映画界の仕組みをよく知らなかったため、純粋に「いい映画に出たい、好きな役を演じたい、信頼できる監督と仕事をしたい」と、自由奔放に振る舞って松竹を抜け出したのだが、このために大騒動を巻き起こした。とうとう三國は松竹を飛び出して稲垣の下に来てしまい、松竹としてはせっかく育てた新人が逃げ出したので追いまわした。東宝は三國が捕まらないようあちこちにかくし歩いて対抗した。

三國のこの事件の後、映画各社間で、「新人が勝手に行動した場合、2年間は映画への出演を禁止する、大手会社は使うことができない」などの罰則が協約されることとなった。三國はその頃から問題児であり、東宝で十数本の映画に出演した後、やはり何らかの不満があって飛び出し、ついに東宝パージとなった。

三國は「会社は僕を商品だと思っているようですけれど、僕は息をしている人間なのですから、好きなものは好きで、いやなものは嫌だと言いたい」と稲垣によく言ったという。稲垣は三國について、「見方によってはとても子供ッぽいところがあるが、その子供ッぽさのなかには、ほかの俳優が持っていないような筋金が通っているようでもある、つまりサラリーマンではない役者、それは三國連太郎なのである」とし、「クセのある俳優といえば三國連太郎にとどめを刺すだろう」と語っている[26][信頼性要検証]

いわゆる役者馬鹿であり、怪優・奇人とも称される。家城巳代治監督『異母兄弟』(1957年)において、老人役の役作りのため上下の歯を10本抜いたことで、顔を腫らしたエピソードはよく知られている(しかも、他の出演シーンの都合をつけるために、治りを早くするために麻酔抜きでやった)。これについては、「夫婦役の田中絹代とどう見ても夫婦に見えないことに悩んだ末のことだ」と三國本人が述懐している(腫れた三國の顔を見て「おやまぁ」と田中が一言、その日は撮影しなかったという)[21]。また三國が坊主頭になった際には弟子に役を与えるために、自らがバリカンを持ち、その弟子の頭を丸刈りにした。それに居合わせた全ての弟子と密着取材(写真展「三国連太郎との120日」1957年)を行なっていた写真家の山本善之助までが坊主頭となった[27]今村昌平監督『神々の深き欲望』(1968年)では、南大東島での長期ロケで破傷風にかかり、脚一本を危うく失うところだったが、懲りずに治療を終えギャラももらわずに自費でまたロケに参加していた、と嵐寛寿郎は発言している[28]。特に、粗暴な人物役を抱えた時期の三國はプライベートでも役にハマりこんでしまい、他人が近づきがたい状態になっていることがたびたびであった。

東映の日下部五朗プロデューサーは、「三國は約束を守らない人で、1日待っても来ないということはざら。岡田茂東映社長は三國と同世代ながら、何度も裏切られ、騙されていたから「三國を絶対に使うな」とブラックリストの筆頭に挙げていたといわれる[29]

結婚を4度経験。俳優の佐藤浩市は3番目の妻との間にできた息子である。その他にも太地喜和子とのロマンスが取り沙汰され、奔放な女性関係で知られた。太地と出会った時は19歳と41歳という22歳の年の差にもかかわらず大恋愛に発展。太地の実家にあいさつに行き「10年経ったらせがれが自立できるようになるので、結婚させてほしい」と申し出、そのまま実家で同棲を開始するも3か月目に「疲れた」という置き手紙を残して太地の元を去った。別れの10年後、太地との誌上対談にて、太地の「三國さんはどうしてあのとき、喜和子から逃げ出したんですか」という問いに対し、「10年目にして率直に言うけど…あなたの体にひれ伏すことがイヤだった。僕は臆病者ですから、のめり込む危険を絶対に避けたかったんです」と答えている[30]。また、その後、1981年6月の『週刊読売』のインタビューでは「今までで、惹かれた女優さんは一人だけです。太地喜和子さんだけです。ぼくは、男に影響を与える女の人が好きです」と答えている。

映画界入りに際して「旧制静岡高等学校理科を経て大阪帝国大学工学部応用化学科卒[31][信頼性要検証](もしくは東京帝国大学卒)」と詐称。のちに芸能ジャーナリズムにそのことを暴かれたことがある [信頼性要検証] [32][33][34]。『日本放送年鑑'68』p.733では最終学歴を「大阪工大」としている。デビュー当時のキャッチフレーズは「大阪大工学部卒業で、知性美を持つ有望な新人スター」であったが、これは「私の提出した引揚証明書に阪大工学部卒と戦没者の学歴が書いてあった」ためである、と三國は説明していた[35]

電気職人だった養父が被差別部落の出身であることを公表しており、差別問題に関する著作、講演活動等も行っている。養父との関係は良く、母親よりも養父のことが好きだとインタビューで述べている[36]

戦争体験の話でよく話している、「戦後すぐ故郷静岡に帰る途中に、広島で途中下車し、原爆で焼け野原になった広島の街の光景を見た」という話だが[12][13][16]、何故、広島で途中下車したかについては公の場では話さない。戦争中、全国の大半の兵隊は広島の宇品港から外地へ送られたが、三國も出征の前日、死地へおもむく前に、女性を一度でいいから抱いてみたいと広島市内の遊廓筆下ろしをした。三國はこの遊女が忘れられず、「どんな卑怯なふるまいをしてもいい、どんな恥をうけても生きて還りたい。もう一度あの女を抱きたい」と心の中で誓い、帰還して実はこの女を探すため、まっすぐ広島へ向かったのである。この話は三國の著書『わが煩悩の火はもえて 親鸞へいたる道』や『生きざま 死にざま』にも書かれているほか、かつて『中国新聞』の原爆特集で話したことがある[37][38]

徴兵忌避中に同行した女性の実家が岡山にあり、広島で下車後、岡山に立ち寄った。彼女には既に子供がいたため、三國は声をかけずに立ち去ったという[39]

静岡県沼津市在住だったことがあり、沼津市の観光大使(キャンペーン隊)である「燦々ぬまづ大使」に通算6回に渡り選ばれている。

人間の約束』で息子・佐藤とワンシーンのみの初共演を果たした後、『美味しんぼ』で本格的に親子の役を演じる。

『釣りバカ日誌』シリーズでは「スーさん」の愛称で親しまれた。シリーズ最終作となった『釣りバカ日誌20 ファイナル』の会見では「混迷の映画界の中で暗中模索した冒険ともいえる作品[40]」「スタッフの作品作りに対する情熱は日本映画史に永遠に残る[40]」「僕にとっては生涯の仕事。俳優生活の名誉[41]」と総じて肯定的に評価した。


注釈

  1. ^ 関連著書に『白い道 法然・親鸞とその時代』(毎日新聞社ほか)、『三國連太郎「親鸞」』(法蔵館、1987年)、『親鸞に至る道』(光文社知恵の森文庫で再刊、2010年)がある。

出典

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  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac 三國連太郎”. KINENOTE. 2014年8月7日閲覧。
  3. ^ 三國連太郎 - Yahoo!検索(人物)”. Yahoo!Japan. 2012年7月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年6月8日閲覧。
  4. ^ “さよならスーさん…三國連太郎さん死去(3/3ページ)”. SANSPO.COM. (2013年4月16日). オリジナルの2013年5月19日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20130519004459/http://www.sanspo.com/geino/news/20130416/oth13041605060012-n3.html 2014年6月8日閲覧。 
  5. ^ “三國連太郎 よく殴る父親から逃げるため「家出を繰り返した」”. NEWSポストセブン. (2010年11月25日). オリジナルの2012年7月1日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20120701114642/http://www.news-postseven.com/archives/20101125_5986.html 2014年6月8日閲覧。 
  6. ^ 私の母語り 1996, p. 218
  7. ^ 三國連太郎 2006, pp. 167–168
  8. ^ 三國連太郎、沖浦和光『三國連太郎・沖浦和光対談』 上 浮世の虚と実、解放出版社、1997年、12-15頁。ISBN 475925207X 
  9. ^ 私の母語り 1996, pp. 212–213
  10. ^ a b c “追悼・三國連太郎さん:徴兵忌避の信念を貫いた(特集ワイド「この人と」1999年8月掲載)”. 毎日.jp. (2013年4月15日). オリジナルの2013年5月1日時点におけるアーカイブ。. https://archive.is/20130501140206/http://mainichi.jp/select/news/20130415mog00m040003000c.html 2014年6月8日閲覧。 
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  13. ^ a b c d 孫には銃をかつぐことのない人生を 三國 連太郎氏(俳優)”. あやめ池学園南 九条の会 - 奈良から憲法九条を守ろう (2012年12月1日). 2013年10月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年6月8日閲覧。
  14. ^ 梯久美子 2009, p. 125
  15. ^ <平和と民主主義>三國連太郎さん「人を殺すのがいやだった」=1999年8月”. Harper's BAZAAR (2015年10月19日). 2022年4月1日閲覧。
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  20. ^ 週刊ポスト』2008年10月31日号、小学館[要ページ番号] 
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  22. ^ 「93年秋の叙勲 都内から589人受賞 喜びの3氏に聞く」『読売新聞』1993年11月3日朝刊
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  32. ^ 猪俣勝人田山力哉『日本映画俳優全史 男優編』社会思想社現代教養文庫〉、1977年、[要ページ番号]頁。 
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  37. ^ 三國連太郎『わが煩悩の火はもえて 親鸞へいたる道』光文社カッパ・ブックス〉、1984年、87-92頁。ISBN 4334004148 
  38. ^ 三國連太郎 2006, pp. 173–176
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  43. ^ 国際共同制作ドラマ 冬の旅 ベルリン物語 - NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブス
  44. ^ 三國連太郎 - オリコンTV出演情報
  45. ^ NHK特集「百歳の富士 奥村土牛」”. NHK. 2021年6月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年6月26日閲覧。


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