三國連太郎 概要

三國連太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/23 14:35 UTC 版)

概要

個性派俳優として日本映画界を牽引し、圧倒的存在感をスクリーンに残した日本を代表する名優の1人。デビュー以後、『ビルマの竪琴』(1956年)、『飢餓海峡』(1965年)、『はだしのゲン』(1976年)、『ひかりごけ』(1992年)など社会派作品から、『未完の対局』(1982年)、『三たびの海峡』(1995年)、『大河の一滴』(2001年)など中国を中心にした国際合作、『犬神家の一族』(1976年)、『野性の証明』(1978年)、『マルサの女2』(1988年)などの娯楽大作まで、主演助演を問わず幅広く出演、映画出演の本数は180本余りに及ぶ[2]

その徹底的な役作りは真骨頂と評され、エピソードも残している[4]。オールスターの超大作に相応しい映画では常連の一人として、権力者など上層部の人物役で特別出演もした。

来歴

生い立ち

母親は16歳で一家が離散し広島県呉市海軍軍人の家に女中奉公に出され、ここで三國を身籠り追い出されて帰郷した[5][6]。帰郷の途であった静岡県沼津駅で父親と出会い、1922年に父親の仕事先であった群馬県太田市にて結婚、翌年1923年1月に三國が生まれた[7]。この育ての父親は電気工事の渡り職人で、生後7か月のとき、一家で父親の故郷・静岡県西伊豆[要曖昧さ回避]へ戻った[2]。その後、旧制豆陽中学(その後の静岡県立下田北高等学校、2008年に静岡県立下田南高等学校と統合し、現在は静岡県立下田高等学校)を2年で中退するまで土肥町(現在の伊豆市)で育った[8][9]。中学時代には水泳部で活動。下田港から密航を企て青島へ渡り、その後釜山で弁当売りをし、帰国後には大阪で皿洗い、ペンキ塗り、旋盤工などさまざまな職に就く[2][10]

徴兵、終戦まで

1943年(昭和18年)12月、20歳のとき大阪で働いていたが、徴兵検査の通知が来て故郷の伊豆へ戻り、甲種合格後、実家へ戻った[11]。すると「おまえもいろいろ親不孝を重ねたが、これで天子様にご奉公ができる。とても名誉なことだ」という母の手紙が来た。三國は、「戦争に行きたくない。戦争に行けば殺されるかもしれない。死にたくない。何とか逃げよう」と考え、同居していた女性とすぐに郷里の静岡県とは反対の西へ向かう貨物列車に潜り込んで逃亡を図った。逃亡4日目に列車を乗り継いで山口県まで来たとき、母に「ぼくは逃げる。どうしても生きなきゃならんから」と手紙を書いた。親や弟、妹に迷惑がかかることを詫び、九州から朝鮮を経て中国へ行くことも書きそえた。数日後、佐賀県呼子で船の段取りをつけていたところで憲兵に捕まり連れ戻された[10][12]

処罰は受けず、皆と同様に赤ダスキを掛けさせられて、静岡の歩兵第34連隊に入れられた[13]

中国へ出征する前、最後の面会にやってきた母が「きついかもしれんが一家が生きていくためだ。涙をのんで、戦争に行ってもらわなきゃいかん」と言ったとき、母親が家のために黙って戦争に行くことを息子に強要し、逃亡先からの手紙を憲兵隊に差し出したことを知る。家族が村八分になるのを恐れ涙を呑んでの決断だったという[10]。中国の前線へ送られた三國の部隊は総勢千数百人だったが、生きて再び祖国の土を踏めたのは20人から30人にすぎなかった。戦地へ向かう途中、身体を壊し熱病にかかる。10日間意識不明になり、死んだものだと思われ、工場の隅でむしろをかぶせられて放置されていたが、焼き場に運ばれ、いざ焼く番になってむしろをはがしたら目を覚ましたという。漢口の兵器勤務課に配属され、この部隊で終戦を迎えた[2][14]。なお、三國自身は銃を一発も撃つことはなかったという[15]

戦後

1945年(昭和20年)の敗戦時、収容所に入れられ、独自に作った化粧品などを売って過ごした。中国からの復員の際に、妻帯者は早く帰国できるということで、同じ佐藤姓の女性と1946年(昭和21年)4月に偽装結婚し、同年6月に引き揚げ[2]。復員時に長崎県佐世保市から鉄道広島駅へ達した際には、駅から四国が望まれ、原子爆弾の脅威を知る[12][13][16][17]。その後は多種多様な職業につく[18]宮崎県宮崎市の妻の実家に身を寄せて宮崎交通に入社、バス整備士として2年勤務[2]

1948年(昭和23年)、女児を身籠もっていた妻と離婚して鳥取県倉吉へ行く[2]。近くの三朝温泉へ行ったとき、戦争中に満蒙開拓団に関係していた人と知り合いになり、その紹介で県農業会(のちの農業協同組合)に入り[13][19]、組合長の秘書を務めながら農村工業課を新設[2]サツマイモ澱粉からグルコースを採取する作業を指導する[19]。まもなく土地の資産家の娘と再婚[2]

上京して映画界入り

1950年(昭和25年)、単身上京して福島県福島市を拠点に闇商売を始め、一時は大儲けするが結果的に挫折する[2]

同年12月[2]東銀座を歩いていたところ松竹のプロデューサー小出孝にスカウトされ、松竹大船撮影所に演技研究生として入る[19]。スカウト時には、プロデューサーの「大船のスタジオにカメラテストに来てくれないか」との言葉に、「電車代と飯代を出してくれるなら」と答えたと述懐している[20]。またこの映画界入りの背景は偶然ではなく、東銀座でのスカウトの際、松竹の「あなたの推薦するスター募集」に、倉吉時代に出入りしていた写真館の主人が三國の写真を送っていたことを知る[2]

1951年(昭和26年)、木下恵介の監督映画『善魔』に、レッドパージで出演取り止めとなった岡田英次の代役として松山善三の推薦により抜擢されデビュー[1]、役名の「三國連太郎」を芸名にする[2]。この演技により第2回ブルーリボン新人賞を受賞する。デビュー当時、松竹が紹介した経歴は、本名、生年月日、身長、体重を除いてほとんどが嘘だらけだったが、それもまた役者の象徴として平然と聞き流すのに対して、木下は俳優としての本質的な良さを認め、三國もその資質を活かすことにつとめる[2]。また、木下の勧めで3か月ほど俳優座に通った。

1952年(昭和27年)1月、東宝稲垣浩の監督作品『戦国無頼』への出演を希望し松竹に出演許可を求めるが、三國がまだ演技研究生で松竹社員であることを理由に拒否される[2]。しかし東宝は松竹の間に正式契約がないことを確認して本人と交渉を進め、三國を巡る松竹・東宝の争奪戦がマスコミの話題となる[2]。三國が自ら『戦国無頼』のクランクインに参加したため、松竹は3月19日、正式に解雇する[2]。三國は出演ののち、東宝と年間4本の出演契約を結んだ[2]。これらの一件を通じて、義理人情を欠く「アプレ・スター」と叩かれた[2]

この間に2度目の離婚。翌1953年(昭和28年)に3度目の結婚をしている[2]

1954年(昭和29年)、稲垣監督『宮本武蔵』出演中に映画製作を再開した日活の『泥だらけの青春』に出演すると発表、東宝が折れ出演を果たす[2]。その直後、「五社協定違反者第1号」に指定される[2]。大船撮影所の門扉に「犬・猫・三國、入るべからず」との看板が取り付けられたという[21]

1955年(昭和30年)、日活と専属契約を結び、1956年(昭和31年)10月末、契約切れとともにフリーとなる[2]

1959年(昭和34年)9月、他社出演の自由を条件に東映と専属契約、1965年(昭和40年)4月、東映を離れてフリーとなる[2]

専属契約とフリーを繰り返す傍ら、1963年10月、映画会社「日本プロ」を設立[2]。第1作として『台風』を企画・監督するが、東映が「専属俳優に独立プロ活動は許さない」と反対し配給が叶わず公開中止となる[2]。その後1969年8月、プロダクション「APC」を設立[2]テレビ映画やCM制作を行い、1972年3月には自主製作映画『岸辺なき河』の撮影に入るが未完となった[2]

1984年(昭和59年)、紫綬褒章を受章。1986年(昭和61年)には映画『親鸞・白い道』[注 1]を製作・監督し、カンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞。その後は『釣りバカ日誌』シリーズ(1988年 - 2009年)の「鈴木社長」役で活躍。『釣りバカ日誌』シリーズで第33回日本アカデミー賞会長功労賞を受賞。

1993年(平成5年)、勲四等旭日小綬章を受章[22]

晩年

2012年(平成24年)9月、同年春から首都圏近郊の療養型病院に入院していることが報じられた[23]。また2012年9月13日号の『週刊文春』では、老人ホームで暮らしていることが報じられた。

2013年(平成25年)4月14日(日曜日)午前9時18分、東京都稲城市の病院で急性呼吸不全により死去。90歳没。生前、「戒名はいらない。三國連太郎のままでいく」と話していたという[24]

ギャラリー


注釈

  1. ^ 関連著書に『白い道 法然・親鸞とその時代』(毎日新聞社ほか)、『三國連太郎「親鸞」』(法蔵館、1987年)、『親鸞に至る道』(光文社知恵の森文庫で再刊、2010年)がある。

出典

  1. ^ a b “三国連太郎さん死去「船が出てしまう」”. nikkansports.com. オリジナルの2013年4月17日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20130417233402/http://iw2.nikkansports.com/entertainment/news/f-et-tp0-20130415-1112786.html 2014年6月8日閲覧。 
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac 三國連太郎”. KINENOTE. 2014年8月7日閲覧。
  3. ^ 三國連太郎 - Yahoo!検索(人物)”. Yahoo!Japan. 2012年7月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年6月8日閲覧。
  4. ^ “さよならスーさん…三國連太郎さん死去(3/3ページ)”. SANSPO.COM. (2013年4月16日). オリジナルの2013年5月19日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20130519004459/http://www.sanspo.com/geino/news/20130416/oth13041605060012-n3.html 2014年6月8日閲覧。 
  5. ^ “三國連太郎 よく殴る父親から逃げるため「家出を繰り返した」”. NEWSポストセブン. (2010年11月25日). オリジナルの2012年7月1日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20120701114642/http://www.news-postseven.com/archives/20101125_5986.html 2014年6月8日閲覧。 
  6. ^ 私の母語り 1996, p. 218
  7. ^ 三國連太郎 2006, pp. 167–168
  8. ^ 三國連太郎、沖浦和光『三國連太郎・沖浦和光対談』 上 浮世の虚と実、解放出版社、1997年、12-15頁。ISBN 475925207X 
  9. ^ 私の母語り 1996, pp. 212–213
  10. ^ a b c “追悼・三國連太郎さん:徴兵忌避の信念を貫いた(特集ワイド「この人と」1999年8月掲載)”. 毎日.jp. (2013年4月15日). オリジナルの2013年5月1日時点におけるアーカイブ。. https://archive.is/20130501140206/http://mainichi.jp/select/news/20130415mog00m040003000c.html 2014年6月8日閲覧。 
  11. ^ 梯久美子 2009, p. 120
  12. ^ a b c 芸能人インタビュー 三國 連太郎 折れない芯があれば揺らぐことはない。”. はいから (2008年2月26日). 2011年4月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年6月8日閲覧。
  13. ^ a b c d 孫には銃をかつぐことのない人生を 三國 連太郎氏(俳優)”. あやめ池学園南 九条の会 - 奈良から憲法九条を守ろう (2012年12月1日). 2013年10月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年6月8日閲覧。
  14. ^ 梯久美子 2009, p. 125
  15. ^ <平和と民主主義>三國連太郎さん「人を殺すのがいやだった」=1999年8月”. Harper's BAZAAR (2015年10月19日). 2022年4月1日閲覧。
  16. ^ a b 緒形直人、40歳で挑戦した高校生役は「ほとんどバカ」”. ORICON STYLE. (2007年12月4日). オリジナルの2011年4月16日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20110416055550/http://contents.oricon.co.jp/news/confidence/50178/full 2014年6月8日閲覧。 
  17. ^ CINEMA 80 『北辰斜にさすところ』完成披露試写会 舞台挨拶”. TOKYO FM. 2008年12月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年6月8日閲覧。
  18. ^ 梯久美子 2009, pp. 130–134
  19. ^ a b c 特集:特別企画 ―― 21世紀の農業を考える”. 農業協同組合新聞 (2002年1月25日). 2014年6月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年6月18日閲覧。
  20. ^ 週刊ポスト』2008年10月31日号、小学館[要ページ番号] 
  21. ^ a b NHK『こころの遺伝子 〜あなたがいたから〜』2010年3月29日放送分。『三國連太郎の「あなたがいたから」』(主婦と生活社、2011年2月)で書籍化[要文献特定詳細情報]
  22. ^ 「93年秋の叙勲 都内から589人受賞 喜びの3氏に聞く」『読売新聞』1993年11月3日朝刊
  23. ^ “三國連太郎“療養型病院”に入院!一時“寝たきり”も回復”. zakzak. (2012年9月6日). オリジナルの2013年4月20日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20130420055558/http://www.zakzak.co.jp/entertainment/ent-news/news/20120906/enn1209061125005-n1.htm 2014年6月8日閲覧。 
  24. ^ “三國さんと佐藤浩市、「役者」でつながった父子”. SANSPO.COM. (2013年4月15日). オリジナルの2013年4月18日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20130418021433/http://www.sanspo.com/geino/news/20130415/oth13041518060027-n1.html 2014年6月8日閲覧。 
  25. ^ 春日太一『なぜ時代劇は滅びるのか』新潮社新潮新書〉、2014年、112頁。ISBN 978-4106105869 
  26. ^ 『日本映画の若き日々』(稲垣浩、毎日新聞社刊)[要文献特定詳細情報]
  27. ^ アサヒカメラ』1957年9月号、朝日新聞社、50, 52頁。 
  28. ^ 竹中労『鞍馬天狗のおじさんは 聞書アラカン一代』白川書院、1976年、[要ページ番号]頁。 
  29. ^ 日下部五朗『健さんと文太 映画プロデューサーの仕事論』光文社、2015年、65,183頁。ISBN 978-4-334-03897-7 
  30. ^ 「三国連太郎 続・おんな対談『いま語る激しく燃えたあなたとの3ヶ月』」『アサヒ芸能』、徳間書店、1973年11月1日、[要ページ番号] 
  31. ^ 『年刊人物情報事典』第2巻、p.1157[要文献特定詳細情報]
  32. ^ 猪俣勝人田山力哉『日本映画俳優全史 男優編』社会思想社現代教養文庫〉、1977年、[要ページ番号]頁。 
  33. ^ 瀬川昌治『乾杯!ごきげん映画人生』清流出版、2007年、214頁。ISBN 978-4860291877 
  34. ^ 関川夏央『女優男優』双葉社、2003年、129頁。ISBN 457529523X 
  35. ^ 文藝春秋』第85巻第3号、文藝春秋、2007年、337頁。 
  36. ^ 梯久美子 2009, p. 146
  37. ^ 三國連太郎『わが煩悩の火はもえて 親鸞へいたる道』光文社カッパ・ブックス〉、1984年、87-92頁。ISBN 4334004148 
  38. ^ 三國連太郎 2006, pp. 173–176
  39. ^ 梯久美子 2009, p. 134
  40. ^ a b “「釣りバカ日誌」西田、三國が万感の思いを語る…20作目で終了を松竹が公式に発表!”. シネマトゥデイ. (2009年4月8日). オリジナルの2009年7月30日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20090730193043/http://www.cinematoday.jp/page/N0017614 2014年6月8日閲覧。 
  41. ^ “三国心筋梗塞危機「釣りバカ」に救われた”. asahi.com. (2009年6月5日). オリジナルの2009年6月8日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20090608063300/http://www.asahi.com/showbiz/nikkan/NIK200906050017.html 2014年6月8日閲覧。 
  42. ^ 東宝特撮映画全史 1983, pp. 535–537, 「主要特撮作品配役リスト」
  43. ^ 国際共同制作ドラマ 冬の旅 ベルリン物語 - NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブス
  44. ^ 三國連太郎 - オリコンTV出演情報
  45. ^ NHK特集「百歳の富士 奥村土牛」”. NHK. 2021年6月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年6月26日閲覧。






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