黄金の門とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > デジタル大辞泉 > 黄金の門の意味・解説 

おうごん‐の‐もん〔ワウゴン‐〕【黄金の門】


黄金の門

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/02 08:17 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

黄金の門

建築物

自然物



黄金の門

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 14:37 UTC 版)

コンスタンティノープルの城壁」の記事における「黄金の門」の解説

マルマラ海から北へたどっていくと、最初に現れる大門が黄金の門(ギリシア語: Χρυσεία Πύλη, Chryseia Pylē; ラテン語: Porta Aurea; トルコ語: Altınkapı / Yaldızlıkapı)である。戦争勝利したときに行われる凱旋式や、皇帝戴冠式の際にも用いられるコンスタンティノープルのメインゲートだった。またローマ教皇使節519年868年)や教皇コンスタンティヌスなどがコンスタンティノープル訪問した際も、この門を通った。しかしこうした華々しい入城が行われたのはコムネノス朝期までで、それ以降は、ラテン帝国滅ぼしコンスタンティノープル奪回したミカエル8世パレオロゴス1261年8月15日にこの門から入城したこと以外には特筆すべき例がない。ビザンツ帝国軍事的弱体化進んだパレオロゴス朝時代、黄金の門は城壁一部として城塞化され、門としての役割狭められてしまった。コンスタンティノープル象徴ともいえる黄金の門を模して各地都市で「黄金の門」と称する門が建てられた。例えテッサロニキの黄金の門(ヴァルダル門とも)、アンティオキアの黄金の門 (ダプネーの門とも)などがある。またキエフ大公国は、キエフウラジーミルそれぞれ「黄金の門」を建てたアメリカ西海岸サンフランシスコ湾入り口ゴールデンゲート海峡も、19世紀コンスタンティノープルの黄金の門にちなん名付けられたものである。 黄金の門の建設時期は、テオドシウス1世時代とするものとテオドシウス2世の時代とするものが有力である。かつては前者定説であったが、近年では後者、すなわち黄金の門はテオドシウスの城壁とともに築かれたとする見解多数占めるようになっているそもそもこの2人の名が挙げられているのは、かつて黄金の門に、「テオドシウス」が「暴君に取って代わったとする次のようなラテン語象嵌銘文がはめ込まれていてたという話によるものである。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}Haec loca Theudosius decorat post fata tyranni.aurea saecla gerit qui portam construit auro. (日本語訳) 暴君没落の後、テオドシウスがこの場所を飾り立てた。この門を金で建設した彼は、黄金時代もたらした興味深いことに、この銘文についてはビザンツ時代著述家一切触れていない。とはいえ金属の象嵌失われた今でも、門のアーチ東西上記銘文の跡を見て取ることが出来る。テオドシウス2世説をとる場合、「暴君」とは西ローマ皇帝ヨハンネス (r. 423425)を指すとする。それに対しテオドシウス1世説では、西ローマ皇帝マグヌス・マクシムス (r. 385388)を破ったテオドシウス1世388年から389年の間に建てた凱旋門が本来の黄金の門であり、後にこれがテオドシウスの城壁取り込まれにすぎないとする。 大きな白い大理石ブロック隙間なく並られた「黄金の門」は3つのアーチ構成されており、中央のアーチが最も大きい。またこの門は、内壁大きな第9塔、第10塔に挟まれ位置にある。3つのアーチの内で中央のもの以外は、人々通行のため常に開放されていた。門を彩る様々な彫像中でもひときわ高いところには、ゾウクアドリガ乗ったテオドシウス1世の像があった。これはローマ凱旋門 (Porta Triumphalis)を意識したのだったが、740年地震崩落した。他にも巨大な十字架(561/2年に地震崩落)、ウィクトーリア像(ミカエル3世時代撤去)、冠をかぶったフォルトゥーナ像などがあった。965年ニケフォロス2世フォカスイスラームとの戦争中にモプスエスティアの市門からブロンズ像奪いコンスタンティノープルの黄金の門に据えた。 黄金の門の外側には一つアーチからなる外門があり、後に他の場所使われていた大理石再利用して作ったレリーフ(スポリア)で飾られた。これらは9世紀10世紀凱旋門から持ってこられたものである考えられている。16世紀前半フランス学者ペトルス・ギュリウスや17世紀イギリス人旅行者らによると、こうしたレリーフ二段構造になっていて、ヘーラクレース十二の功業などの神話テーマにしていたというが、17世紀以降ほとんど失われてしまった。現在、ごく一部残骸イスタンブール考古学博物館所蔵されている。また他の文献によると、外門の上には冠をもったウィクトーリア像が置かれていたという。 黄金の門は儀礼的象徴的な役割を持つ門である一方で防衛上も極めて強力な拠点であり、数々包囲戦での攻撃跳ね返し続けたヨハネス6世カンタクゼノス(r. 1347–1354)はこの門を、事実上難攻不落3年は耐えられる評した。彼は黄金の門周辺の塔を修復し忠実なカタルーニャ人防衛にあたらせたが、1354年ヨハネス5世パレオロゴス敗れ退位したヨハネス5世はしばらくヨハネス6世の策を無視して門の修復怠っていたが、1389–90年になってようやくこの要塞修復拡張着手した2つの塔が増設され、海側の城壁向けてあらたに350メートルほど城壁延長された。これによりコンスタンティノープル南西端に隔離され城塞形成されコンスタンティノープル防衛のための最後拠点とされた。この砦の建設から間もなくヨハネス5世の孫ヨハネス7世パレオロゴスクーデター起こしたため、ヨハネス5世は砦に逃げ込んだ。そして実際にこの砦は、数か月にわたり持ちこたえた。彼は1391年オスマン帝国バヤズィト1世助け借りてヨハネス7世破りコンスタンティノープル奪回した。しかし戦後バヤズィト1世は、南西の砦を破壊してしまった。ヨハネス5世は、人質となっていた息子マヌエルの目を潰すと脅されたため、オスマン軍行動黙認するしかなかった。後にヨハネス8世パレオロゴス (r. 1425–1448)が南西の砦を再建しようとしたが、オスマン帝国ムラト2世止められた。 1453年コンスタンティノープルオスマン帝国メフメト2世包囲受けた。この最後包囲戦については数々伝説伝えられているが、その中に最後の皇帝コンスタンティノス11世パレオロゴスと黄金の門にまつわるものがある。オスマン軍コンスタンティノープル突入した際、天使コンスタンティノス11世救い、彼を大理石変えて、黄金の門の近く洞窟隠した。そこでコンスタンティノス11世は、いつかコンスタンティノープルキリスト教徒の手取り戻すために復活する時を待っている、というものであるオスマン帝国が黄金の門を壁で覆いなおしたのも、この予言恐れてのものである伝えられている。

※この「黄金の門」の解説は、「コンスタンティノープルの城壁」の解説の一部です。
「黄金の門」を含む「コンスタンティノープルの城壁」の記事については、「コンスタンティノープルの城壁」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「黄金の門」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「黄金の門」の関連用語

黄金の門のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



黄金の門のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの黄金の門 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのコンスタンティノープルの城壁 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS