おうごん‐の‐もん〔ワウゴン‐〕【黄金の門】
読み方:おうごんのもん
《Zoloti vorota/Золоті ворота》ウクライナの首都キーウの市街中心部にある門。11世紀前半、キエフ大公ヤロスラフ1世により城壁とともに建造。13世紀半ばにモンゴル帝国の侵略により破壊。現在の建物は1980年代に再建されたもの。
《Zolotïe Vorota/Золотые ворота》ロシア連邦西部、ウラジーミル州の都市ウラジーミルにある城門。12世紀半ばに城壁の一部として、アンドレイ=ポゴリュープスキーの命によりを模して建造された。門の上部に礼拝堂があり、現在は13世紀のモンゴル侵略に関する歴史博物館として公開されている。1992年、ウスペンスキー大聖堂やドミトリエフスキー聖堂とともに「ウラジーミルとスーズダリの白亜の建造物群」の名称で世界遺産(文化遺産)に登録。
黄金の門
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/02 08:17 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動黄金の門
建築物
- 黄金の門 (コンスタンティノポリス)(en) - トルコ・イスタンブール
- 黄金の門 (キエフ) - ウクライナ・キエフ
- 黄金の門 (ウラジーミル)(en) - ロシア・ウラジーミル
- 黄金の門 (グダニスク)(en) - ポーランド・グダニスク
- 黄金の門 (エルサレム)(en) - イスラエル・エルサレム
自然物
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黄金の門
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 14:37 UTC 版)
「コンスタンティノープルの城壁」の記事における「黄金の門」の解説
マルマラ海から北へたどっていくと、最初に現れる大門が黄金の門(ギリシア語: Χρυσεία Πύλη, Chryseia Pylē; ラテン語: Porta Aurea; トルコ語: Altınkapı / Yaldızlıkapı)である。戦争に勝利したときに行われる凱旋式や、皇帝の戴冠式の際にも用いられる、コンスタンティノープルのメインゲートだった。またローマ教皇の使節(519年、868年)や教皇コンスタンティヌスなどがコンスタンティノープルを訪問した際も、この門を通った。しかしこうした華々しい入城式が行われたのはコムネノス朝期までで、それ以降は、ラテン帝国を滅ぼしコンスタンティノープルを奪回したミカエル8世パレオロゴスが1261年8月15日にこの門から入城したこと以外には特筆すべき例がない。ビザンツ帝国の軍事的弱体化が進んだパレオロゴス朝時代、黄金の門は城壁の一部として城塞化され、門としての役割を狭められてしまった。コンスタンティノープルの象徴ともいえる黄金の門を模して、各地の都市で「黄金の門」と称する門が建てられた。例えばテッサロニキの黄金の門(ヴァルダル門とも)、アンティオキアの黄金の門 (ダプネーの門とも)などがある。またキエフ大公国は、キエフとウラジーミルにそれぞれ「黄金の門」を建てた。アメリカ西海岸のサンフランシスコ湾の入り口ゴールデンゲート海峡も、19世紀にコンスタンティノープルの黄金の門にちなんで名付けられたものである。 黄金の門の建設時期は、テオドシウス1世の時代とするものとテオドシウス2世の時代とするものが有力である。かつては前者が定説であったが、近年では後者、すなわち黄金の門はテオドシウスの城壁とともに築かれたとする見解が多数を占めるようになっている。そもそもこの2人の名が挙げられているのは、かつて黄金の門に、「テオドシウス」が「暴君」に取って代わったとする次のようなラテン語象嵌銘文がはめ込まれていてたという話によるものである。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}Haec loca Theudosius decorat post fata tyranni.aurea saecla gerit qui portam construit auro. (日本語訳) 暴君の没落の後、テオドシウスがこの場所を飾り立てた。この門を金で建設した彼は、黄金時代をもたらした。 興味深いことに、この銘文についてはビザンツ時代の著述家は一切触れていない。とはいえ、金属の象嵌が失われた今でも、門のアーチの東西に上記の銘文の跡を見て取ることが出来る。テオドシウス2世説をとる場合、「暴君」とは西ローマ皇帝ヨハンネス (r. 423–425)を指すとする。それに対しテオドシウス1世説では、西ローマの皇帝マグヌス・マクシムス (r. 385–388)を破ったテオドシウス1世が388年から389年の間に建てた凱旋門が本来の黄金の門であり、後にこれがテオドシウスの城壁に取り込まれたにすぎないとする。 大きな白い大理石のブロックが隙間なく並られた「黄金の門」は3つのアーチで構成されており、中央のアーチが最も大きい。またこの門は、内壁の大きな第9塔、第10塔に挟まれた位置にある。3つのアーチの内で中央のもの以外は、人々の通行のため常に開放されていた。門を彩る様々な彫像の中でもひときわ高いところには、ゾウのクアドリガに乗ったテオドシウス1世の像があった。これはローマの凱旋門 (Porta Triumphalis)を意識したものだったが、740年の地震で崩落した。他にも巨大な十字架(561/2年に地震で崩落)、ウィクトーリア像(ミカエル3世の時代に撤去)、冠をかぶったフォルトゥーナ像などがあった。965年、ニケフォロス2世フォカスがイスラームとの戦争中にモプスエスティアの市門からブロンズ像を奪い、コンスタンティノープルの黄金の門に据えた。 黄金の門の外側には一つのアーチからなる外門があり、後に他の場所で使われていた大理石を再利用して作ったレリーフ(スポリア)で飾られた。これらは9世紀か10世紀に凱旋門から持ってこられたものであると考えられている。16世紀前半のフランスの学者ペトルス・ギュリウスや17世紀のイギリス人旅行者らによると、こうしたレリーフは二段構造になっていて、ヘーラクレースの十二の功業などの神話をテーマにしていたというが、17世紀以降ほとんど失われてしまった。現在、ごく一部の残骸がイスタンブール考古学博物館に所蔵されている。また他の文献によると、外門の上には冠をもったウィクトーリア像が置かれていたという。 黄金の門は儀礼的・象徴的な役割を持つ門である一方で、防衛上も極めて強力な拠点であり、数々の包囲戦での攻撃を跳ね返し続けた。ヨハネス6世カンタクゼノス(r. 1347–1354)はこの門を、事実上難攻不落で3年は耐えられると評した。彼は黄金の門周辺の塔を修復し、忠実なカタルーニャ人を防衛にあたらせたが、1354年にヨハネス5世パレオロゴスに敗れ退位した。ヨハネス5世はしばらくヨハネス6世の策を無視して門の修復を怠っていたが、1389–90年になってようやくこの要塞の修復と拡張に着手した。2つの塔が増設され、海側の城壁に向けてあらたに350メートルほど城壁が延長された。これによりコンスタンティノープルの南西端に隔離された城塞が形成され、コンスタンティノープル防衛のための最後の拠点とされた。この砦の建設から間もなく、ヨハネス5世の孫ヨハネス7世パレオロゴスがクーデターを起こしたため、ヨハネス5世は砦に逃げ込んだ。そして実際にこの砦は、数か月にわたり持ちこたえた。彼は1391年にオスマン帝国のバヤズィト1世の助けを借りてヨハネス7世を破り、コンスタンティノープルを奪回した。しかし戦後バヤズィト1世は、南西の砦を破壊してしまった。ヨハネス5世は、人質となっていた息子マヌエルの目を潰すと脅されたため、オスマン軍の行動を黙認するしかなかった。後にヨハネス8世パレオロゴス (r. 1425–1448)が南西の砦を再建しようとしたが、オスマン帝国のムラト2世に止められた。 1453年、コンスタンティノープルはオスマン帝国のメフメト2世の包囲を受けた。この最後の包囲戦については数々の伝説が伝えられているが、その中に最後の皇帝コンスタンティノス11世パレオロゴスと黄金の門にまつわるものがある。オスマン軍がコンスタンティノープルに突入した際、天使がコンスタンティノス11世を救い、彼を大理石に変えて、黄金の門の近くの洞窟に隠した。そこでコンスタンティノス11世は、いつかコンスタンティノープルをキリスト教徒の手に取り戻すために復活する時を待っている、というものである。オスマン帝国が黄金の門を壁で覆いなおしたのも、この予言を恐れてのものであると伝えられている。
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