キエフ大公国とは? わかりやすく解説

キエフ大公国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/13 06:13 UTC 版)

キエフ大公国(キエフたいこうこく、古東スラヴ語: Роусьルーシ)、英: Kyivan Rus')[1][2]は、9世紀後半から13世紀半ばにかけて、東ヨーロッパおよび北ヨーロッパに存在した国家東スラヴ人バルト人およびフィンランド人を含み、ヴァリャーグの王子リューリクによって創設されたリューリク朝の治世下で複数の公国が緩やかに連合していた[3][4][5]ベラルーシロシアウクライナの現代の国家はいずれもキエフ大公国を文化的な祖先とし[6]、ベラルーシとロシアはそれ(ルーシ)に由来する名称である(そのため、キエフは「ロシアの都市の母」とされている[7])。リューリク朝16世紀ロシア・ツァーリ国となるまで大公国の一部を支配し続けた[8]11世紀半ばの最大時には、北は白海から南は黒海、西はヴィスワ川の源流から東はタマン半島まで広がり、東スラヴ民族の大半を束ねた。




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キエフ大公国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/11/05 06:00 UTC 版)

チウン」の記事における「キエフ大公国」の解説

チウンは、ヴィルニク(ヴィーラ罰金徴収者)、メチニク執行人)等と並ぶ、都市民を管理する役人その場合、代行という訳当てられている)であると共にクニャージ私邸内でも勤務した。(オグニシチヌィー・チウン(ru):家職長、コニュシェンヌィー・チウン:馬丁頭)。また、クニャージ所有する村落管理するチウン(セリスキー・チウン:チウン、ラタイヌィー・チウン:農夫チウン)も存在したチウン対す裁判権は、チウン従事するクニャージのみに認められていた 。チウン対すクニャージ権利は、原則的には、クニャージのホロープ(ru)(隷属民奴隷)と同等だった。一方で、キエフ大公国の法典である『ルースカヤ・プラウダ(ru)』では、クニャージ仕えチウン殺害には80グリヴナヴィーラ罰金)が課されボヤーレチウン殺害には40グリヴナヴィーラ課された。80グリヴナ罰金は、クニャージドルジーナクニャージ従士団親衛隊)に対するものと同額であり、ヴィーラの額としては最高額のものであった。セリスキー・チウン、ラタイヌィー・チウンのチウン殺害に対して12グリヴナヴィーラ課されていた。

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キエフ大公国

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中世前期」の記事における「キエフ大公国」の解説

詳細は「キエフ大公国」を参照 キエフ大公国が隆盛を見るまでにヨーロッパ東方は、7世紀までに突厥から独立したトルコ系人々ハザールにより支配されていた。ハザールヨーロッパオリエントを結ぶ河川通商に幸福を見出す民族商業国家であったハザールアラン人マジャル人様々なスラヴ人クリミアゴート族クリミア半島ギリシア人から賛辞強要したユダヤ人巡回商人(ラダニテ(英語版))のつながり通じてインドスペイン貿易中心地と関係があった。 マジャル族[要リンク修正] 一旦アラブ拡張主義直面すると、ハザール実用的にコンスタンティノープル連合しイスラム帝国戦った当初敗退したとはいえ、なんとかデルベント回復でき、やがて東イベリアカフカス・アルバニア王国アルメニアまで達したそうした中、事実上カール・マルテル西ヨーロッパ同様に達する前の数十年に東ヨーロッパに向かうイスラム教北方への拡張抑え込んだ7世紀黒海北部沿岸地域は、クブラート(英語版率い大ブルガリア強力なハナテを創出しブルガール人率いられ新たな遊牧民攻撃の波に晒された。ハザールは南ウクライナからヴォルガ川中流域ヴォルガ・ブルガール)やドナウ川下流域ドナウ・ブルガール第一次ブルガリア帝国)にかけてブルガール人追い出そうとした。ドナウ・ブルガール急速にスラヴ化しコンスタンティノープルとの絶え間ない戦闘があったとはいえギリシア様式キリスト教受け入れた二人宣教師の活動通じて最初スラヴアルファベットができ、現在古代教会スラヴ語として知られる方言が、本や聖餐式言語として作られた。 ビザンティン周辺部から北に向けて初め証明されスラヴ人国家は、モラヴィア王国で、9世紀前半フランク王国保護下で統一された。モラヴィア王国コンスタンティノープルローマ宣教師対立為の国家であった西スラヴ人はやがてローマ聖職者権威を知ることになるが、990年にかけて当時ヨーロッパ最大国家キエフ大公国をコンスタンティノープル聖職者ギリシア信仰改宗させることに成功したヴァリャーグ朝に率いられて、キエフ大公国は北ヨーロッパビザンティンに結ぶ通商路(ヴァリャーグからギリシアへの道)やオリエント支配したモラヴィア王国結局896年頃にパンノニア平原侵攻したマジャル人占領された。 キエフ大公国の迫害 キリスト教化する前後コンスタンティノープルに対して略奪行為行ったキエフ大公国は、その中には双方利益与え通商協定発展したものがあった。キエフ大公国とビザンティン帝国の関係の重要性は、ウラジーミル1世マケドニア朝ビザンティン王女結婚した唯一の外国人であった事実から強調でき、多く西ヨーロッパ支配者無益なものと考えていた誉れであったウラジーミル1世の父スヴャトスラフ1世戦闘は、ブルガールハザールという東ヨーロッパ最強の二か国を押し潰していた。

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キエフ大公国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 21:41 UTC 版)

ウクライナの歴史」の記事における「キエフ大公国」の解説

キエフ大公国は、9世紀後半から1240年にかけてキエフ首都とした東欧国家である。正式な国号ルーシウクライナ語: Русь)で、日本語名はその大公座の置かれキエフ由来する10世紀までにキリスト教の受容によってキリスト教文化圏の一国となった11世紀には中世ヨーロッパの最も発展した国の一つであったが、12世紀以降大公朝の内訌隣国圧迫によって衰退した1240年モンゴル来襲によってキエフ落城し、事実上崩壊した

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