キエフ大公国
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キエフ大公国(キエフたいこうこく、古東スラヴ語: Роусь(ルーシ)、英: Kyivan Rus')[1][2]は、9世紀後半から13世紀半ばにかけて、東ヨーロッパおよび北ヨーロッパに存在した国家。東スラヴ人、バルト人およびフィンランド人を含み、ヴァリャーグの王子リューリクによって創設されたリューリク朝の治世下で複数の公国が緩やかに連合していた[3][4][5]。 ベラルーシ、ロシア、ウクライナの現代の国家はいずれもキエフ大公国を文化的な祖先とし[6]、ベラルーシとロシアはそれ(ルーシ)に由来する名称である(そのため、キエフは「ロシアの都市の母」とされている[7])。リューリク朝は16世紀にロシア・ツァーリ国となるまで大公国の一部を支配し続けた[8]。11世紀半ばの最大時には、北は白海から南は黒海、西はヴィスワ川の源流から東はタマン半島まで広がり、東スラヴ民族の大半を束ねた。
- 1 キエフ大公国とは
- 2 キエフ大公国の概要
キエフ大公国
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チウンは、ヴィルニク(ヴィーラ(罰金)徴収者)、メチニク(執行人)等と並ぶ、都市民を管理する役人(その場合、代行官という訳が当てられている)であると共に、クニャージの私邸内でも勤務した。(オグニシチヌィー・チウン(ru):家職長、コニュシェンヌィー・チウン:馬丁頭)。また、クニャージの所有する村落を管理するチウン(セリスキー・チウン:村のチウン、ラタイヌィー・チウン:農夫のチウン)も存在した。 チウンに対する裁判権は、チウンが従事するクニャージのみに認められていた 。チウンに対するクニャージの権利は、原則的には、クニャージのホロープ(ru)(隷属民、奴隷)と同等だった。一方で、キエフ大公国の法典である『ルースカヤ・プラウダ(ru)』では、クニャージに仕えるチウンの殺害には80グリヴナのヴィーラ(罰金)が課され、ボヤーレのチウンの殺害には40グリヴナのヴィーラが課された。80グリヴナの罰金は、クニャージやドルジーナ(クニャージの従士団・親衛隊)に対するものと同額であり、ヴィーラの額としては最高額のものであった。セリスキー・チウン、ラタイヌィー・チウンのチウンの殺害に対しては12グリヴナのヴィーラが課されていた。
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キエフ大公国
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詳細は「キエフ大公国」を参照 キエフ大公国が隆盛を見るまでにヨーロッパの東方は、7世紀までに突厥から独立したトルコ系の人々ハザールにより支配されていた。ハザールはヨーロッパとオリエントを結ぶ河川通商に幸福を見出す多民族商業国家であった。ハザールもアラン人やマジャル人、様々なスラヴ人、クリミアゴート族、クリミア半島のギリシア人から賛辞を強要した。ユダヤ人の巡回商人(ラダニテ(英語版))のつながりを通じてインドとスペインの貿易中心地と関係があった。 マジャル族[要リンク修正] 一旦アラブ拡張主義に直面すると、ハザールは実用的にコンスタンティノープルと連合し、イスラム帝国と戦った。当初は敗退したとはいえ、なんとかデルベントを回復でき、やがて東イベリアやカフカス・アルバニア王国、アルメニアまで達した。そうした中、事実上カール・マルテルが西ヨーロッパで同様に達する前の数十年に東ヨーロッパに向かうイスラム教の北方への拡張を抑え込んだ。 7世紀、黒海の北部沿岸地域は、クブラート(英語版)率いる大ブルガリアの強力なハナテを創出したブルガール人に率いられた新たな遊牧民の攻撃の波に晒された。ハザールは南ウクライナからヴォルガ川の中流域(ヴォルガ・ブルガール)やドナウ川下流域(ドナウ・ブルガールや第一次ブルガリア帝国)にかけてブルガール人を追い出そうとした。ドナウ・ブルガールは急速にスラヴ化し、コンスタンティノープルとの絶え間ない戦闘があったとはいえ、ギリシア様式のキリスト教を受け入れた。二人の宣教師の活動を通じて、最初のスラヴ式アルファベットができ、現在古代教会スラヴ語として知られる方言が、本や聖餐式の言語として作られた。 ビザンティン周辺部から北に向けて初めて証明されたスラヴ人国家は、モラヴィア王国で、9世紀前半にフランク王国の保護下で統一された。モラヴィア王国はコンスタンティノープルとローマの宣教師の対立の為の国家であった。西スラヴ人はやがてローマの聖職者の権威を知ることになるが、990年にかけて当時のヨーロッパ最大の国家キエフ大公国をコンスタンティノープルの聖職者はギリシアの信仰に改宗させることに成功した。ヴァリャーグ朝に率いられて、キエフ大公国は北ヨーロッパをビザンティンに結ぶ通商路(ヴァリャーグからギリシアへの道)やオリエントを支配した。モラヴィア王国は結局896年頃にパンノニア平原に侵攻したマジャル人に占領された。 キエフ大公国の迫害 キリスト教化する前後にコンスタンティノープルに対して略奪行為を行ったキエフ大公国は、その中には双方に利益を与える通商協定に発展したものがあった。キエフ大公国とビザンティン帝国の関係の重要性は、ウラジーミル1世がマケドニア朝のビザンティン王女と結婚した唯一の外国人であった事実から強調でき、多くの西ヨーロッパ支配者が無益なものと考えていた誉れであった。ウラジーミル1世の父スヴャトスラフ1世の戦闘は、ブルガールとハザールという東ヨーロッパ最強の二か国を押し潰していた。
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キエフ大公国
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キエフ大公国は、9世紀後半から1240年にかけてキエフを首都とした東欧の国家である。正式な国号はルーシ(ウクライナ語: Русь)で、日本語名はその大公座の置かれたキエフに由来する。10世紀までにキリスト教の受容によってキリスト教文化圏の一国となった。11世紀には中世ヨーロッパの最も発展した国の一つであったが、12世紀以降は大公朝の内訌と隣国の圧迫によって衰退した。1240年、モンゴル来襲によってキエフは落城し、事実上崩壊した。
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