試験・評価とは? わかりやすく解説

試験・評価

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/03/04 16:08 UTC 版)

XP-67 (航空機)」の記事における「試験・評価」の解説

試作第1号機は1943年12月1日完成したが、同月8日初飛行のため地上運転していたところ排気系統のトラブルによりエンジンから出火してしまう。機体修繕し年の明けた1944年1月6日初飛行成功するものの、またもやエンジン不具合により飛行6分間で終了となったその後エンジンナセル内の気流流れ方を改善してオーバーヒート防止するよう工夫したが、4回目飛行試験では意図せぬエンジン回転によりベアリング焼損起こしてしまう。破損したエンジン交換する間に風洞実験やり直し水平尾翼位置を約30cmほど高くするなどの改良が行われ、3月には試験飛行再開するその結果コックピットレイアウト操舵感、ピッチ方向の安定性は良好であると評価されたが、一方でエンジン非力加速上昇性能悪く離陸滑走距離が長いダッチロール起こしやすく方向安定性が悪い等のいくつかの欠点指摘された。またエンジンXI-1430は未だ揺籃期にあり信頼性不足していたこともトラブル拍車をかけた。5月には陸軍評価試験までこぎつけ数回試験飛行が行われる間に欠点いくつか克服されたが、エンジンまつわる問題だけは解決できなかった。そして同年9月6日試験ではエンジン火災発生し機体大きく破損させることになってしまった。これを機に陸軍XP-67評価試験見切りをつけ、既に高性能戦闘機P-47やP-51の実用化進んでいたことから、さらなる開発不要としてマクドネルとの契約解消することとなった。この時点試作2号機は製作に取り掛かったばかりであったが、結局完成することなく開発計画幕引きとなってしまった。

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試験・評価

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/02 03:55 UTC 版)

グロスター F.5/34」の記事における「試験・評価」の解説

本機開発グラディエーター増産計画により遅延し武装なしの初号機(K5604)の初飛行1937年12月ずれ込んだ一方、7.7mm機銃ブローニングM1919重機関銃)8挺を装備した2号機(K8089)は1938年3月には飛行試験開始している。しかし本機飛行試験始まった頃には、既にハリケーン部隊配備およびスピットファイア生産開始されており、新機種の必要性薄れていたためグロスターそれ以上開発中止してしまった。試作機1938年にヘンドンで開催され航空祭一般公開されたものの、その後すぐに実験飛行部隊追いやられ、1941年5月には地上教材用とされた。 制式採用には至らなかったが、性能自体同時代機体比べて遜色ないものであったテストパイロットによると、本機競合相手比べて短距離離陸能力初期上昇力優れ高速域でもエルロン重くなり過ぎず効き良く操縦性が素直で機動力高かったそうである。また、キャノピー全周囲型であり、スピットファイアハリケーンのようなファストバック型よりも視界良好であった。 なお、本機外見零戦とよく似ているとし、性能値漸近した点が話題になることもある。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/02 03:55 UTC 版)

グロスター E.28/39」の記事における「試験・評価」の解説

完成した機体は再びハークルコートに移され1941年4月から地上テスト用のジェットエンジンW.1を搭載してタキシングを行う試験開始された。これは特に問題なく終了し5月15日には新しエンジン搭載してグロスターテストパイロットであるゲリー・セイヤー(Gerry Sayer)の手によりリンカンシャー州のクランウェル(Cranwell)基地から初め空へ飛び上がった。この初飛行17分間続き成功収めたその後試験続けられ、より洗練されたジェットエンジン換装して何度も飛行行った機体の小改修行われ試験計画後半には高速時安定性を増すために水平尾翼小さなフィン取り付けられた。 仕様書では片翼当たり2丁の7.7mmブローニング機関銃装備することになっていたが、これは実際に搭載されことはなかった。 2機目の原型機Rover W2Bエンジン搭載して1943年3月から試験参加した試験を行ううち、エンジンオイル潤滑系統に問題があることが発見された。不幸にもこの二代目機体7月試験飛行の際、エルロン可動しなくな墜落してしまう。原因エルロン制御系誤ったグリース使ったことだった。片方エルロン固着し機体制御不能に陥らせたのである。なお、幸運なことにパイロット脱出して無事であった。 1機目の原型機1944年まで試験続けられ同時期に現れたさらに進歩したターボジェット機にその役目譲った。E.28/39はスピード記録を出すことはできなかったものの、実験機としては十分有効なデータ残し優れた上昇力と高い上昇限度見せつけ、ジェット機可能性示したまた、イギリス初のジェット戦闘機であるミーティア開発への道を切り開いた点でイギリス航空界のマイルストーンであると言える。 現在、第1号機はロンドンサイエンス・ミュージアム殿堂入りして展示されている。また、フルスケールレプリカが2機製作され、1機はホイットル縁の地であるハンプシャー州のファーンボロー(Farnborough)近郊に、もう1機はエンジン製造されレスターシャー州のルターワース(Lutterworth)に安置されている。フルスケール模型グロスターシャー州ジェット・エイジ博物館(Jet Age Museum)の有志の手によって製作されている。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/03 21:56 UTC 版)

XP-60 (航空機)」の記事における「試験・評価」の解説

XP-60原型機初飛行には成功したものの、試験順調に進まなかった。層流翼表面仕上げ問題エンジンスペック公称よりも低かったことから予定され性能発揮できず、さらに降着装置問題まで発生していた。この結果、P-60の開発1941年12月20日ひとまず中止され1942年1月2日契約内容変更されることになった。この契約は、それまで開発していた試作機同等仕様であるXP-60Aを1機、XP-60Aのターボチャージャーライト製SU-504-1に換装したXP-60Bを1機、エンジン大型クライスラー製XIV-2220に換装したXP-60Cを1機生産するというものであった。さらにカーチス財政危機に陥らせないため、陸軍P-40を1,400機、P-47を2,400機、P-62を100機ずつ生産させることにした。 XP-60Cに導入予定であったクライスラーエンジン完成する見通し結局立たず、もし導入できたとしても機首前方重量増加バランスするために尾部数百キログラムの鉛を仕込まなけれならないことがわかり、プラット・アンド・ホイットニー製R-2800(出力約2000hp)にエンジン変更することが決定された。また同時期、最初に製作されXP-60試作機エンジンマーリン61型に換装し、垂直尾翼拡大した機体試験的に製作されたが、これはXP-60Dとして登録された。 XP-60Aは1942年11月1日初飛行した。1942年の夏頃には陸軍のP-60に対す期待薄れていたが、R-2800にエンジン換装することで性能向上するではないか目され結果的に二重反転プロペラとR-2800を搭載した機体をP-60A-1-CUとし、500機の製造契約を結ぶこととなった。また二重反転プロペラ失敗したときの保険として、カーチスでは単層の4翅プロペラ装備したXP-60Eの開発を行うことにした。XP-60Eの機体はXP-60BのエンジンをR-2800-10に換装することで用意された。 1943年1月27日、R-2800-53と二重反転プロペラ装備したXP-60Cが初飛行し、飛行特性概ね良好であった一方、XP-60Eは遅れて1943年5月26日初飛行したが、これはXP-60Cに比べて重量が軽いためエンジンを30cm近く前方移動する改修を行う必要が途中で判明したからである。 1943年4月アメリカ陸軍航空軍開発中の数種の戦闘機比較評価行い、最も性能望めない機種開発中止することにした。この評価試験のためにカーチスはXP-60Eを供出するように指示されたが、XP-60Eはちょう使用不能の状態であったので代わりに急遽調整されたXP-60Cがライト・パターソン飛行場(en:Wright-Patterson Air Force Base)で行われる試験送られた。こうして評価試験行われたものの、XP-60Cは様々な問題抱えており、性能貧弱であった。この結果当初500であった製造契約が2機にまで減らされ実質的に陸軍航空軍から不採用烙印を押されることになった1944年1月、XP-60Eはイグリン飛行場(en:Eglin Air Force Base)で公式の試験飛行が行われたが、同時期の戦闘機比べて特に優れている点はないというテストパイロット評価しか得ることができなかった。このような結果受けてカーチスはP-60シリーズ対す作業一切中止申し入れたが、陸軍契約した2機のうち1機は完成させるように通達したため、もともとYP-60A-1-CUとして量産しようとしていたものをYP-60Eとして再設計することとなった。このYP-60EはエンジンをR-2800-18(出力約2,100hp)に換装し、ファストバック型のキャノピーバブルキャノピー改めた点がXP-60Eと異なっていた。YP-60Eは1944年7月13日初飛行し、その後ライト・パターソン飛行場送られたがそのまま放置された。YP-60Eは終戦後早々に民間払い下げられエアレース機に改造されたが、早々にテスト飛行墜落して失われた

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