皇甫嵩とは? わかりやすく解説

皇甫嵩Huangfu Song

コウホスウ
クワウホスウ

(?~195
太常都郷

字は義真安定郡朝那の人。度遼将軍皇甫規の兄皇甫の子である。

若いころから文武志し、『詩経『書経』好み弓術馬術習った。はじめ孝廉茂才推挙され郎中霸陵県令・臨汾県となったが、父が亡くなったので官を去った。のち大尉陳蕃大将軍竇武招かれたが固辞する霊帝劉宏官用車召し寄せて議郎とし、のちに北地太守転任させた。

黄巾賊張角叛乱起こすと、皇甫嵩は会議の席で「党錮の禁解き国庫の銭や西園の馬を出して軍用にあてましょう」と進言霊帝はこれを許可し国中から精鋭集めて将帥選り抜き、皇甫嵩を左中郎将持節とし、右中郎将朱儁とともに五校・三河騎兵など都合四万余り統率させ、おのおの一軍率いて潁川郡黄巾賊討伐させた。

賊の波才敗れたので長社に退くと、波才大軍率いて城を囲んだ。皇甫嵩の軍勢少なかったので、軍人たちはみな恐れおののいたが、皇甫嵩は「戦い臨機応変の策にあり、兵の多寡問題ではない。いま敵は草原に陣取っているので、夜中火を放ってやれば驚くに違いない。城を出て四方から攻撃すれば、田単功績成し遂げられるぞ」と言ったその日夕方強風吹いた。皇甫嵩は兵士松明持たせ精鋭部隊に城の包囲抜けさせ、放火し鬨の声挙げさせた。城内でも松明掲げて呼応し、皇甫嵩は太鼓の音とともに敵陣突撃した。賊は驚いて敗走した。ちょうど霊帝派遣した騎都尉曹操がやって来たので、皇甫嵩・曹操朱儁合流して敵を追撃し数万首級挙げた。これにより都郷侯に封ぜられる

皇甫嵩と朱儁は、勝利勢い乗って汝南陳国黄巾賊征討し、陽翟では波才追撃し西華でも彭脱を攻撃し、すべて撃ち破った残りの賊はみな降服し、三郡は完全に平定された。さらに東郡進んで、倉亭で黄巾賊の卜己を生け捕りにし、七千余り首級挙げた

北中郎将盧植東中郎将董卓張角征討できずに帰還していたが、詔勅によって皇甫嵩が討伐に当たることになった張角の弟張梁広宗戦ったが、張梁軍は強力で勝つことができなかった。翌日軍門閉鎖して兵士を休ませ、変化が起こるのを待っていると、敵の士気低下していることがわかったので、夜中進軍し鳴き声とともに敵陣襲った夕方まで戦って大勝し張梁の首を挙げた。斬った首級は三、河に落ちて死んだ敵は五万人、焼き払った車両は三上り、彼らの妻や子供もすべて生け捕りにし、敵兵もみな捕縛した張角はすでに病死していたので、を暴いて死体の首を斬り、それを都に送った

鉅鹿太守郭典とともに張角の弟張宝下曲陽攻撃し張宝を斬った。首級十万余り挙げ、城の南で「京観」(死体積み上げて土で埋めたもの)を築いたすぐさま左車騎将軍となり、冀州牧を領して槐里侯に封ぜられた。食邑槐里美陽の両県で、合わせて八千であった。こうして黄巾賊滅ぼされたので、皇甫嵩は冀州年貢一年間免除するように申請した百姓らは歌にして「天下大乱市場廃墟になり、母は子供棄て妻は夫を失った頼みにするのは皇甫さま、また安心して暮らせるだろう」と称えた

皇甫嵩は兵士可愛がったので、彼らの信頼勝ち得た野営するときはいつも、全軍の幔(テント)が完成するのを待ってから入り兵士たちがみな食べ終わったのを見てから食事を摂った。軍役人に賄賂取った者がいたが、皇甫嵩がさらなる金品彼にやると、その者は恥ずかしく思って自殺した

皇甫嵩が黄巾賊破って天下威信震わせた一方朝廷政治日に日に乱れて天下困窮させていたので、もとの信都県令閻忠は皇甫嵩に説得して言った。「得がたく失いすいもの時節です。時がきて引き返すことのないのは機会です。だから聖人時節に従って行動し智者機会拠って発起するのです。いま将軍得がたい幸運に巡り会い乱れやすい機会立ち会っておられるのに、機会臨んで発起しようとなさりません。いかにして大いなる名誉を保とうというのですか」と。閻忠はさらに韓信故事引いて帝位昇ることを勧めたが、皇甫嵩は恐れ抱いて固く拒絶した。閻忠は亡命した

そのころ辺章韓遂が隴右で叛乱起こしたので、翌年春、詔勅によって長安警護し辺章らがふたたび三輔地方侵攻した場合は、皇甫嵩が彼らを討伐することになったそれ以前張角を討つため鄴を通過したとき、中常侍趙忠身分不相応な邸宅持っていることを見て没収するように上奏したことがあった。また中常侍張譲五千銭を賄賂として求めたのを拒絶したこともあり、趙忠張譲二人は皇甫嵩を恨み、彼が連戦連敗しているうえ軍費かさんでいると上奏した。そのため秋になると召し返され左車騎将軍の印綬所領六千戸を没収され都郷二千戸に戻された。

中平五年(一八八)、涼州の賊王国陳倉城を包囲したので、皇甫嵩は左将軍復帰し前将軍董卓引き連れ、おのおの二万人統率して王国防いだ董卓は「智者時節おくれず勇者決断ためらわないものだ。急げば城は安泰だが、急がなければ城は破滅してしまうぞ」と、急いで陳倉駆け付けるべきだと主張したが、皇甫嵩は「違う。百戦百勝するのは、戦わずして敵を屈服させるほど立派なことではない。不敗原因我らにあり、勝利原因奴らにある。陳倉城は小さいが、城の守り堅固だし、王国軍は強いが、救援のない城を攻めあぐねている。救援する要はない」と言って斥けた。

王国陳倉城を八十日余りにわたって包囲しつづけたが、とうとう陥落させることができずに包囲解いた。そこで皇甫嵩は追撃することにした。董卓が「だめだ。兵法困窮した敵を追ってならない帰ろうとする軍に近付いてならないと言っているぞ」と諫めたが、皇甫嵩は「違う。以前私が攻撃しなかったのは鋭鋒避けるためだった。いま攻撃するのは彼らの矛先鈍っているからだ。奴ら疲れているのであって帰ろうとしているのではないし、戦意なくしたであって困窮しているのではない」と言い董卓には殿軍任せて一人追撃した何度も戦って大勝利収め一万余り首級挙げた王国逃走した死亡した董卓は非常に恥ずかしく思い、皇甫嵩を憎むようになった。

翌六年、董卓幷州牧となり、詔勅下って所属兵士を皇甫嵩に預けるよう命令されたのに、董卓は従わなかった。皇甫嵩の従子皇甫酈軍中にいて、叔父説得した。「朝廷失政によって天下逆さまになっていますが、これを安定させられるのは大人(皇甫嵩)と董卓だけです。しかし仲違いしてしまって並び立つことは不可能です。董卓上書して詔勅拒んだのですから、勅命違反なります。それに都の混乱理由に軍を動かそうともしてないので、叛逆の心を持っていると言えます。大人元帥なのですから董卓誅殺すべきです」。皇甫嵩は言った。「勅命違反罪悪であるが、勝手に処罰するのも責任問われることになる。彼のことを報告して朝廷裁き待とう」。その結果董卓霊帝より厳しお叱りを受け、ますます皇甫嵩への憎悪強くした。

初平元年一九〇)、すでに董卓政治実権握っていたが、皇甫嵩を城門校尉任命するという口実呼び寄せ、彼を殺そうとした。皇甫嵩が出かけようとしたとき、長史衍が説得して漢王朝衰退して宦官朝廷混乱させたとき、董卓は彼らを誅殺しましたが、国家忠誠を尽くす奴ではありません。都を略奪して天子すげ替え思い通りにしている有様。いま将軍(皇甫嵩)が出頭すれば、殺される侮辱されるどちらかです。いま董卓洛陽おりますが、天子西方におわしますから将軍の手勢三率いて天子お迎えし、勅命奉じて逆賊を討つことにすれば袁氏袁紹)が東から、将軍西から迫ることになり、奴を生け捕りにすることもできますぞ」と言った。しかし皇甫嵩は聞き入れず出頭した

董卓内意受けた係官は彼を処刑しようとした。皇甫嵩の子皇甫堅寿はもともと董卓と仲が良かったが、長安から洛陽董卓のもとまで駆け付けた董卓宴会開こうとしていたところだったが、皇甫堅寿が進み出て大義掲げて責めなじり、頭を叩いて涙を流した居合わせた人々感動し、みな席を立って懇願してやった。とうとう董卓立ち上がり皇甫堅寿の手引いて一緒に坐った。皇甫嵩は釈放され、また議郎に任じられ御史中丞転任した

董卓長安入ったとき、公卿百官道中まで彼を出迎えたが、董卓御史中丞以下はみな拝礼せよと命じ、皇甫嵩を打ち負かした董卓彼の手を取って義真よ、参ったか」と言うと、皇甫嵩は笑って彼に陳謝した。皇甫嵩「明公とのさま)がここまで出世するとは思いませんでした」、董卓鴻鵠はもともと遠大な志を持っていたのだが、燕雀知らなかっただけさ」、皇甫嵩「いえ、むかし私と明公はともに鴻鵠だったのですが、今日になって明公鳳凰なられたのですよ」。こうして董卓気持ち解けた

董卓誅殺されると征西将軍となり、また車騎将軍昇進した。その年の秋に大尉となったが、冬になると流星があったとして罷免され、のちにまた光禄大夫任じられ太常転任した。まもなく李傕混乱巻き起こすと、皇甫嵩は病没した。驃騎将軍印綬追贈される。

皇甫嵩の人となり愛情深く慎重で、極めて真面であった諫言したりして国益保った上表文五百余りにもなり、すべて彼自身が筆を執り草稿破り捨て他人に知られないようにした。また立派な人物へりくだり、門の外に訪問者待たせることもなかった。当時の人々はみな彼を称えて付き従った

参照袁紹 / 閻忠 / 王国 / 郭典 / 韓信 / 韓遂 / 皇甫規 / 皇甫堅寿 / 皇甫節 / 皇甫酈 / 朱儁 / 曹操 / 張角 / 張譲 / 張宝 / 張梁 / 趙忠 / 陳蕃 / 田単 / 董卓 / 竇武 / 波才 / 辺章 / 彭脱 / 卜己 / 李傕 / 劉宏霊帝) / 衍 / 盧植 / 安定郡 / 潁川郡 / 槐里県 / 下曲陽県 / 冀州 / 鄴県 / 鉅鹿郡 / 広宗県 / 三河 / 三輔 / 汝南郡 / 信都県 / 西華県 / 倉亭 / 長安県 / 長社県 / 朝那県 / 陳国 / 陳倉県 / 東郡 / 霸陵県 / 美陽県 / 幷州 / 北地郡 / 陽翟県 / 洛陽県 / 涼州 / 臨汾県 / 隴右 / 右中郎将 / 騎都尉 / 御史中丞 / 議郎 / 県令 / 侯 / 孝廉 / 光禄大夫 / 五校 / 左車騎将軍 / 左将軍 / 左中郎将 / 車騎将軍 / 城門校尉 / 征西将軍 / 前将軍 / 大尉 / 太守 / 太常 / 大将軍 / 中常侍 / 長史 / 東中郎将 / 都郷侯 / 度遼将軍 / 驃騎将軍 / 牧 / 北中郎将 / 茂才 / 郎中 / 詩経 / 書経 / 宦官 / 京観 / 黄巾賊 / 西園 / 節(持節) / 大人 / 党錮 / 流星 / 領


皇甫嵩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/11 15:20 UTC 版)

皇甫嵩
後漢
太常・都郷侯
出生 生年不詳
涼州安定郡朝那県
死去 興平2年(195年
拼音 Huángfǔ Sōng
義真
主君 霊帝少帝弁献帝
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皇甫 嵩(こうほ すう、? - 興平2年(195年)?)は、中国後漢末期の武将。義真涼州安定郡朝那県(現在の寧夏回族自治区固原市彭陽県)の出身。

生涯

若年から文武に優れ、詩経書経を好み、弓馬を習った。孝廉へ挙げられ、郎中に任命されたが、父の死去により辞退した。再び茂才に挙げられ、陳蕃竇武に招かれるも出仕しなかった。後に霊帝から公車により招聘されると、遂に出仕を決意し、議郎・北地太守を歴任した。

中平元年(184年)、張角を中心に黄巾の乱が勃発すると、対策を協議する朝廷において、皇甫嵩は党錮の禁解禁と霊帝の私財(銭穀・軍馬)放出を具申し、受け入れられた。左中郎将に任命され、右中郎将の朱儁と共に精兵4万を率いて、潁川方面の黄巾討伐に向かった。

潁川黄巾軍の波才との戦いは、当初朱儁が担当したが劣勢となり、勢いを増した波才に皇甫嵩の籠る長社を包囲された。皇甫嵩は田単の故事に倣って一計を案じ、火攻めで波才軍を混乱させ、都から援軍に赴いた曹操や朱儁と共に、波才を撃ち破った。皇甫嵩はこの功績で都郷侯に封じられ、以後も朱儁と共に汝南郡陳郡淮陽)・東郡の各地を転戦し、勝利を挙げた。東郡黄巾軍の卜己を倉亭で破り、卜己を生け捕って7千の首級を挙げた。

冀州方面の張角率いる黄巾本隊の討伐は、盧植董卓が担当していたが、彼らが戦果を挙げることができなかったため、皇甫嵩に討伐の命が下った。広宗で張角の末弟張梁を討つとともに、病死していた張角の棺を壊して首を洛陽へ送った。さらに曲陽では張角の次弟張宝を討ち、敵兵十数万を斬り京観を築いた。黄巾軍討伐の功により、左車騎将軍に任命され、槐里侯に封じられた。また、8千戸の食邑を与えられ、冀州となった。

冀州においては戦乱に苦しむ民の負担を軽減し、また部下に対しても恩寵を施し、汚職をした官吏すら許したため信望を集めた。元信都県令の閻忠は皇甫嵩に対し、韓信の故事を引き、「人に勝る功績を樹立しながら凡庸な君主に仕えているようでは、どうして身の安泰を図れましょう」などと述べ、軍勢を糾合して帝位を目指すよう進言した。しかし皇甫嵩が拒絶したため、閻忠は逃亡した。

中平2年(185年)、辺章韓遂が涼州で反乱を起こすと、朝廷の命令で長安に駐屯し、董卓と共にその討伐に当たった。この時、十常侍趙忠の法令違反を上奏し、また張譲からの賄賂要求を拒否していたこともあったため、十常侍に讒言され、左車騎将軍と食邑6千戸を取り上げられた。都郷侯に戻されたが、なお2千戸を領した。

中平5年(188年)、陳倉が賊の王国から攻撃を受けると、皇甫嵩が左将軍に任命され、この討伐に当たる。この時、董卓を指揮下に置いた。軍中では董卓の提案する策をいずれも退け、その正反対の策を用い勝利を収めた。これにより董卓に憎まれることとなる。同年中、二度に渡って朝廷から董卓に対し、并州牧に任命するため軍権を皇甫嵩に渡して帰還するよう指示が届いたが、董卓は拒否した。従子の皇甫酈は皇甫嵩に対し董卓誅殺を進言したが、皇甫嵩は独断専行を避け、事の次第を上書した。この上書は董卓の知るところとなり、対立は決定的となった。

初平元年(190年)、朝廷の混乱に乗じ権力を握った董卓は、皇甫嵩を城門校尉に任命すると称し、長安から召還して殺害を図る。皇甫嵩は部下の反対を押し切り帰朝したが、やはり逮捕投獄された。危うく死刑になりかけたが、董卓と親しかった子の皇甫堅寿が急遽洛陽に駆けつけ、董卓に必死の嘆願をしたため赦免され、議郎を経て、御史中丞に任じられた。長安遷都の断行後、公卿百官は道の傍らで董卓を出迎えた。董卓は皆に拝礼を取らせ、皇甫嵩に対しては「義真はまだ服さぬか?」と言った。皇甫嵩が笑いながら拝礼を行ったため、董卓のわだかまりは解けた。

初平3年(192年)4月、董卓が誅殺される。皇甫嵩は征西将軍を経て、5月には車騎将軍、8月には太尉に昇ったが、12月には天文を理由に罷免された[1]。のち光禄大夫を経て太常に昇ったが、興平2年(195年)頃に李傕らが乱を起こすと病を発し、没した。驃騎将軍の印綬が追贈された。

幾度も上表を行って利益をもたらすこと五百以上に及んだが、草稿は全て破り捨てて外に広めなかった。仁愛と慎み深さに優れ、忠勤を尽くし、多くの人々が付き従った。

評論

の高官華歆は、「数々の戦功を挙げながらいずれも同僚の手柄とし、自らの戦功を論じることがなかったため、恨みや禍とは無縁だった」との称賛を送った。『後漢書』の編者范曄は、皇甫嵩の功を称えつつも、「大業を棄て小義にこだわったことで、智者の笑うところとなった」とも評した。代には史館によって『武廟六十四将』に選出されている。

一族

曾祖父の皇甫棱は度遼将軍、祖父の皇甫旗は扶風都尉、父の皇甫節は雁門太守を務めた。叔父の皇甫規中国語版は、異民族征伐で張奐段熲中国語版と共に功名を挙げ、涼州三明の一人に数えられる[2]

息子の皇甫堅寿は侍中に任じられたが、就任しなかった。曾孫の皇甫謐西晋の時代に学者として名を馳せ、その父の皇甫叔侯、祖父の皇甫叔献(皇甫嵩の子)の名も『晋書』にて伝わる。また、娘は皇甫嵩に才能を評価された射援の妻となった[3]

三国志演義

小説『三国志演義』では、朱儁と共に張梁・張宝と対戦しており、草原にまで追い立て、火攻めを朱儁に提案して実行し、大破している。参陣した劉備に、張角と対陣している盧植の加勢に向かうように命令するが、盧植は賄賂を断ったため讒言により逮捕されており、董卓が後任となっていた。

皇甫嵩は曹操を従えて張梁と戦い、大勝利を収めたため、負け続けの董卓は更迭され、その後任となる。着任時に張角は死んでいたが、全軍を率いた張梁と対戦し、続けざまに七戦七勝して張梁を斬殺し、更に張角の棺を暴いて屍を切り刻み、その首を都に届けた。生き残った賊兵は全て降伏し、皇甫嵩は車騎将軍の官号を加えられ、冀州牧に任命される。その時、皇甫嵩は「盧植は功績はあっても罪はない」と上奏したため、盧植は元の官に復帰することができた。

黄巾討伐後、皇甫嵩は十常侍への賄賂を拒んだため、朱儁と共に罷免されている。

後年、王允の命令で李粛呂布とともに郿塢に向かい、董卓の一族を皆殺しにしたのを最後に物語から退場する。

出典

脚注

  1. ^ 『後漢書』献帝紀
  2. ^ 『後漢書』皇甫規伝
  3. ^ 陳寿三国志』蜀書 先主伝注『三輔決録注』



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