独立企業として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 00:24 UTC 版)
「ブルースター・エアロノーティカル」の記事における「独立企業として」の解説
ブルースター本社では、1929年から始まった大恐慌により高級車の需要が激減したために経営が悪化していることもあり、航空事業部の存続について否定的な意見も出たため、航空事業部の売却が検討されたが、1932年2月にアメリカ海軍航空機工廠(英語版)出身の航空技術者であり、ロッキード社の副社長兼ゼネラルマネージャーであったジェームズ・“ジミー”・ワーク(James Work)がブルースターから航空事業部を30,000USドルで買い取り、「ブルースター・エアロノーティカル」として独立企業として設立した。 ブルースター・エアロノーティカルはニューヨーク州クイーンズのブルースタービル(英語版)(元会社のブルースターの本社と工場があった)に本社工場を構え、ニュージャージー州ニューアークのニューアーク空港(後のニューアーク・リバティー国際空港)の一角に市から格納庫を借りて第2工場とした。当初は主にグラマン社やローニング(英語版)向けの水上機のフロートと翼面パネルの製作の請負製作を主眼としており、この他、アルミニウム合金製のボートの製作も手がけた。 これらの下請け製作に従事する傍ら、ブルースター社ではモデル14の設計を元に改めて自社設計の航空機の開発を計画し、副社長兼チーフエンジニアのデイトン・ブラウン(Dayton T Brown)の設計で完全自社設計の航空機の開発を始めた。 1934年には新興メーカーながらアメリカ海軍の新型の複座艦上索敵/爆撃機の開発計画に参加して1機の発注を受け、この試作機はXSBA-1と名づけられて1936年4月に初飛行した。これはブルースター社にとって初の自社開発機であり、初の軍制式採用機であった。試作機は高い性能を示し、1938年9月にSBAとして30機の発注が行われたが、この時ブルースターの所有するクイーンズとニューアークの工場には今だ航空機の本格的な製造設備がなく、軍の要求する機数を要求期限内に量産する能力がなかったため、生産はフィラデルフィアの海軍航空機工廠で行うことになり、名称は海軍航空機工廠製を表すSBNと改められた。このため本格的な生産の開始が遅延し、2年後の1940年11月に生産1号機が納入された時には既に一時代遅れた性能となっており、練習機としてのみ使用された。 同じく1936年にはアメリカ海軍の新型艦上戦闘機の試作競争でグラマンと争い、F2Aとして採用された。F2Aはアメリカ海軍としては初の単葉、引き込み脚式の艦上戦闘機である。F2Aの試作機は1938年に引き渡され、高い評価を得て同年6月には66機の発注を受けた他、イギリスとオランダ、そしてベルギーからも多数の発注を得た。前作であるSBAと異なりF2Aはブルースター社自身で生産することになり、初めての自社生産機となった。F2Aは当時としては先進的な設計で、性能も低いものではなかったが、まだ珍しい全金属製機で、自社生産の経験がないブルースターは生産ラインの構築と工員の養成に予想外の期間を要した上、生産が行われたクイーンズとニューアークの両工場は共に受注数に対して明らかに工場規模が小さかった。このため生産が遅延、納入が大幅に遅れ、F2Aの量産機の引渡しは1939年6月に始まったが、同年11月までの半年間に5機しか納入されなかった。この事態に対処するためにアメリカ海軍は前任であったはずのグラマンF3Fの改良型を急遽発注することになり、1941年の太平洋戦争開戦時には、グラマン社が前述の計画に提出した案を発展させて開発したF4F“ワイルドキャット”がアメリカ海軍航空隊の主力艦上戦闘機となっていた。 ブルースター・エアロノーティカルがその母体である自動車ボディメーカーから引き継いだクイーンズ工場は、本来は自動車の組み立て工場であり、工場内で一旦組み上がった機体を輸送するために外に出すには分解せねばならないなど、航空機の組立には構造的に不向きだった。ニューアーク工場も元はさして大きくはない格納庫でしかなく、大規模な生産ラインを構築するような余裕はなかった上、更にこの時にはPBY カタリナの翼端フロートと翼面パネルの下請け生産を行っていたために、生産能力の限界に近い状態だった。このような問題からブルースター社の生産能力は乏しく、軍の要求に見合った数を期限内に納入することが難しかった上、完成した機体の品質に問題があり、海軍当局は軍需企業としてのブルースター・エアロノーティカルに深い懸念を抱くようになる。 1939年にはSBAに続いて2番目の艦上偵察・爆撃機であるSB2Aバッカニアがアメリカ海軍に採用された。バッカニアは英国空軍とオランダ軍にも採用され、イギリスではブルースター バミューダの名で呼ばれた。しかし、量産に当たっての改修に手間取り、更に改修の過程で大幅に性能が低下する事態となり、やはり生産が遅延して量産機は予定より大幅に遅れて納入されることになった。この間にオランダは納入前にドイツに降伏し、オランダ向けの生産機はアメリカ海兵隊航空団に練習機として納入された。アメリカ海軍に生産機が全て納入されたのは、契約から実に1年半以上遅れた1944年5月のことで、この時期には旧式の機体となっているSB2Aを第1線機として使う必要性はなく、アメリカ・イギリス両軍でも訓練用としてのみ使用された。 自社工場の規模が小さいために各種の問題が生じることはブルースター社も把握しており、SBAおよびF2Aの失敗を踏まえ、SB2Aの大量受注に成功したことに対応するため、生産能力を拡充すべく大規模な新工場の建設を進めた。当初ブルースターではルーズベルト飛行場もしくはニューアーク空港に隣接した場所に工場を建設することを計画したが、海軍当局より「敵の海上からの攻撃を避けるため、極力海岸線から遠い場所であることが望ましい」との要望が出されたため、用地の選定に苦労することになり、アメリカの第二次世界大戦への参戦を見越して大手航空機メーカーがのきなみ工場を増設・拡張したために、適切な土地はなかなか見つからなかった。最終的に、社主のワークが所有するペンシルベニア州ウォーミンスターのジョンズビル (Johnsville) の土地を基に、海軍の資金協力と地元自治体の協力を得て周囲に拡張する形で用地を確保し、1941年にようやくに敷地内に滑走路を備えた新工場が落成したが、急激に航空工の需要が増大したために、航空機製造に関わる労働市場は応募側有利な“売り手市場”になっており、資本力が小さいために好条件を提示できないブルースター社では技量の高い工員を確保できず、更に工員による待遇改善を求めたストライキが頻発した。このため、実際の生産体制はほとんど向上しなかった。
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