沿革と歴史
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1982年にリュック・フェラーリによってパリ郊外のヴァンヴに創設。創設にあたってはジャック・ラング文化相の文化担当補佐官で芸術評論家でもあったモーリス・フルレ(フランス語版) の後押しがあった。 1992年には文化省の支援を得てヴァンヴからアルフォールヴィルに移転し、内部に3つのメインスタジオを構える。 1994年にリュック・フェラーリが会長(Président)を辞任し、その後1999年に創設時からのメンバーであり、作曲家のダヴィッド・ジス(フランス語版) がディレクターに就任するまでの5年間は構造的に不安定な時期であった 。 2006年フランス国立音楽創作センターとなる。 2013年にダヴィッド・ジスがディレクターを引退、文化相によりディレクターにヴィルフリード・ヴェンツレンが任命された。 2015年に録音専用スタジオであったスタジオ・ジョン・ケージが改装され、コンサートホールとしての機能を併せ持つものとなった。
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沿革と歴史
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1915年(大正4年)2月、東京市長や司法大臣などを歴任した尾崎行雄の秘書を務めた畑弥右衛門が、尾崎の紹介で渋沢栄一を訪問して荏原郡開発を提案し、渋沢は中野武営に相談する。渋沢も中野も、欧米の都市を念頭に置いて田園郊外住宅地開発とそれにともなう鉄道など諸般設備の整備を構想する。1916年(大正5年)11月、田園都市株式会社創立委員会が開催され、渋沢が委員長となる。1918年(大正7年)1月には、田園都市株式会社設立趣意書を発表。 1918年(大正7年)9月2日、 田園都市株式会社が設立される。資本金50万円。 発起人には渋沢栄一(相談役)、役員には中野武営(発起人代表)、服部金太郎、柿沼谷雄、緒明圭造、星野錫、竹田政智の6人が、監査役には伊藤幹一、市原求の2人が名を連ね、社長に中野武営 、専務取締役に竹田政智が選出された。ただし中野は翌10月に急逝。社長の席は空席のまま、竹田が代表取締役となり会社の運営にあたった。1919年(大正8年)8月25日 渋沢の四男渋沢秀雄が田園都市視察のため欧米11カ国訪問に横浜港から出発する。 田園都市株式会社はまず事業用地の買収を開始する。この時買収の対象としたのは洗足(現在の目黒区洗足二丁目、品川区小山七丁目)、大岡山、多摩川台(現在の田園調布、玉川田園調布)の3地区である。しかし、洗足地区は池上電気鉄道と用地買収が競合し土地価格が上昇したため、約5.5万坪(18万1千平米)を買収したところで一時中止し、多摩川台地区(当時の調布、玉川)の買収に重点を移し、1920年(大正9年)5月までに同地区22万坪を買収し、1921年(大正10年)11月までには30万坪(約100万平米)まで買い進め、計約45万坪(約148万5千平米)の買収を完了した。うち大岡山地区は9.2万坪(約30万3千平米)を買収したが、現・東京工業大学用地となり、宅地開発はされなかった。別途、地主たちに代替用地として提供した2.9万坪(約9万5千平米)が買収され計約48万坪(約158万4千平米)となった。 また、洗足地区においては、第一期分譲地に続いて、田園都市株式会社による第二期分譲地および東洗足分譲地の約3,500坪(約1万1千平米)、目黒蒲田電鉄による北千束分譲地も提供され、合わせて574区画、約8.4万坪(約27万7千平米)の田園都市が形成された。そして、多摩川台地区において田園都市株式会社により開発されたのは約30万坪(約100万平米)であった。 「交通機関としては、目黒駅からこの住宅地まで電気鉄道を開通させます。すなわち、この電鉄は田園都市株式会社が巨費を投じて特に居住者に交通の便を提供するものであります」田園都市株式会社は分譲地の開発に合わせて、これら地区に対する交通手段を確保するための鉄道を建設した。1920年(大正9年)3月6日、田園都市株式会社傘下の荏原電気鉄道に大井町 - 調布村間の地方鉄道敷設免許がおり、同年5月18日、 田園都市株式会社は、荏原電気鉄道から鉄道敷設免許を無償で譲り受け、1921年(大正10年)2月15日には大崎町 - 碑衾村間の地方鉄道敷設免許がおりる。しかし鉄道省が「文化住宅地からの通勤線としては山手線と直結すべき」と助言したため、大井町までの建設より、まず目黒から調布村(多摩川台地区、現在の多摩川駅)までの工事を先行することにした。 前述のように、田園都市株式会社は渋沢栄一が「日本橋の紳商で日本橋クラブ(経済人の集まり)に出資を求め設立され」その資本金50万円は、渋沢栄一を始め日本橋クラブのメンバー11人ですべて引き受けていたが、1920年(大正9年)第一次大戦後の恐慌で株式の暴落があり、そのメンバーの持株の一部を渋沢栄一から依頼された第一生命の創業者である矢野恒太が引き受けた。そしてこの時期に、不況時にもかかわらず関西で鉄道敷設と一体となった沿線開発に成功していた箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)の創業者 小林一三に田園都市株式会社の経営を依頼している。1921年(大正10年)4月、渋沢栄一が45万坪の土地を抱えていた田園都市株式会社の経営に困っている時、既に大株主になっていた矢野恒太に経営も見てくれないがと相談した。しかし田園都市株式会社は、中野武営や服部金太郎などそうそうたるメンバーが参加していたが「事業のほうは経営者が素人ばかり」つまり設立当時はとても営利を目的としている企業とは言えず矢野恒太も困り、同じ第一生命の役員であった和田豊治が「関西の小林一三に知恵を借りたらどうか」とアドバイスした。同年6月、矢野は小林に会って助力を求めた。最初は固辞したが、なんとか説得し上京して話だけでも聞くだけならと、小林は月に一度上京し役員会に出席するようになり、実質的に田園都市株式会社を経営していった。小林は名前を出さず、報酬も受け取らず、月に一回日曜日のみ、という約束で経営を引き受け、玉川、調布方面の宅地開発と鉄道事業を進めていった。 翌1922年(大正11年)3月24日、 田園都市株式会社の目黒線大崎町(目黒) - 調布村(多摩川)間の工事施行認可がおり、3月30日、目黒線(現在の目黒駅から沼部駅間)を着工した。同年6月、 洗足地区にて洗足田園都市の予約分譲を開始、10月中には区画工事が完成したが、その完成前から分譲地の購入希望者が多数押し寄せた。 既に田園都市株式会社を経営していた小林一三はその役員会で「僕が毎月上京して役員会で方針を定めて行くが、さっぱり実行出来ない。呆れてものも言えぬ。実行力のある人を役員に入れて貰わねば、せっかく毎月来ても何にもならぬ」と自身の代わりに鉄道省出身で未開業の武蔵電気鉄道(後の(旧)東京横浜電鉄、現在の東横線の母体)の経営に携わっていた五島慶太を推挙した。そして、鉄道部門を分離独立させることとなり、1922年(大正11年)7月22日、 目黒蒲田電鉄株式会社発起人総会(代表竹田政智)が開催される。この総会における決議事項は以下の通り 1、 田園都市株式会社から鉄道敷設権(大井町 - 調布村、大井町 - 碑衾村間)の譲受 2、武蔵電気鉄道株式会社(後の(旧)東京横浜電鉄、現在の東横線の母体)から鉄道敷設権(調布村 - 蒲田間)の譲受 同年9月2日、目黒蒲田電鉄株式会社(資本金350万円)創立総会が開催され、五島慶太が専務取締役となり、以後の経営にあたる。この時五島は、小林一三から「荏原電鉄(後の目黒蒲田電鉄)を先に建設し、田園都市の45万坪の土地を売り、その利益で武蔵電鉄をやればいい」と説得され専務就任を決心したという。 1923年(大正12年)3月に、目黒蒲田電鉄は、目黒 - 丸子(現在の沼部)間を開業、洗足田園都市の居住者に交通の便を提供した。この目黒線が開通した3月11日には、洗足駅前の広場にて、当時の鉄道大臣大木遠吉、東京府知事など数多くの来賓が出席して盛大な開通祝賀行事が行なわれた。そして同年5月に、田園都市株式会社は本社を洗足田園都市(洗足駅前)に移転、そこを拠点として多摩川台地区(現在の田園調布、玉川田園調布)の開発を推進し、同年8月には、同地区での分譲を開始した。同年9月1日、関東大震災が発生し東京市内は壊滅的な被害を受けたが、洗足田園都市の分譲地にはほとんど被害が無く、また11月には目黒 - 蒲田間を全通させることができ目蒲線(現在の目黒線の一部および東急多摩川線)と呼んだ。1924年(大正13年)1月8日、田園都市株式会社は大岡山所在の社有地9.2万坪と、震災で壊滅的な被害を被った蔵前にある東京高等工業学校(現・東京工業大学)の敷地1.2万坪と等価交換、同年6月、蔵前の土地は震災復興局に転売、震災による土地高騰もあり、240万円で買収された。その利益で武蔵電鉄電気鉄道の株を購入し東横線の建設の資金とした。同年2月には洗足地区の分譲を完了した。同年5月1日、 多摩川園を設立(資本金15万円)し、翌1925年(大正14年)12月23日、 温泉遊園地多摩川園が開園した。1926年(大正15年)5月22日、(旧)東京横浜電鉄との共同経営地新丸子地区の土地分譲を開始する。1928年(昭和3年)5月5日、田園都市株式会社は、多摩川台地区などの分譲を完了したため、子会社であった目黒蒲田電鉄に吸収合併され、田園都市事業は目黒蒲田電鉄田園都市部が継承することになった。 ※以降の歴史は、目黒蒲田電鉄、東京横浜電鉄、東急電鉄を参照。
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