比企能員の変
比企の乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 16:01 UTC 版)
頼朝死後の建仁3年(1203年)9月、比企の乱(比企能員の変)が起こり、この乱で忠久は北条氏によって滅ぼされた比企能員の縁者として連座し、大隅、薩摩、日向の守護職を没収された。この時、忠久は台明寺の紛争解決のため、守護として初めて任地の大隅国に下向しており、鎌倉には不在であった。同年10月19日、務めを終えて戻る上洛の無事を祈り、台明寺に願文を収めている。 比企の乱後は在京していたとみられ、建暦3年(1213年)2月に3代将軍・源実朝の学問所番となり、御家人としての復帰がみられる。同年6月の和田合戦においては勝者の側に立ち、乱に荷担した甲斐国都留郡の古郡氏の所領である波加利荘(新荘)を拝領した(本荘は甲斐源氏の棟梁武田氏が伝領)。同年7月に薩摩国地頭職に還補され、同国守護も同年再任されたとみられるが、大隅・日向守護職は北条氏の手に渡ったまま、その2国の復権がなされるのは南北朝時代以降のこととされている。 承久3年(1221年)の承久の乱後は、信濃国太田荘地頭職と越前国守護職を獲得した。この頃には、惟宗姓に代えて藤原姓を称している(母方とされる比企氏は秀郷流藤原氏)。元仁元年(1224年)に八十島使の随兵を務め、嘉禄元年(1225年)には検非違使に任じられ、嘉禄2年(1226年)には豊後守となった。 嘉禄3年(1227年)6月18日の辰の刻、脚気と赤痢により死去(『吾妻鏡』)。墓は、島津家第25代当主島津重豪により、江戸時代後期、鎌倉の西御門に源頼朝の墓と共に建立され、頼朝の墓の右隣に寄り添うように建てられている。
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比企の乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 09:06 UTC 版)
詳細は「比企能員の変」を参照 建仁3年(1203年)、頼家が病床に伏し、8月に危篤状態に陥った。『吾妻鏡』によると、8月27日に北条時政は一幡と頼家の弟・源実朝に頼家遺領分与を決定し、関東28ヶ国地頭職と日本国総守護職を一幡に、関西38ヶ国地頭職を実朝に相続する事になった。これに不満を持った能員は、頼家に実朝擁立を計る時政の謀反を訴え、頼家は時政追討を能員に命じる。しかし、この密議を障子の影で立ち聞きしていた政子が時政に告げ、先手を打った時政は大江広元の支持を取り付けると、9月2日、仏事の相談があるとして能員を時政の自宅である名越邸に呼び出す。密議が漏れている事を知らない能員は、さかんに引き止めて武装するように訴える一族に「武装したりすればかえってあやしまれる」と振り切り、平服のまま時政の屋敷に向かう。門を通って屋敷に入ったところを、武装して待ちかまえていた天野遠景、仁田忠常ら時政の手勢に両腕を取り押さえられ、引き倒されたところを刺し殺された。 能員謀殺の知らせを受けた比企一族は、一幡の屋敷である小御所に立てこもって防戦したが、大軍に攻められ追いつめられると、屋敷に火を放ち一幡を囲んで自害した。一幡も焼死し、焼け跡から小袖の切れ端を乳母が確認したという。能員の嫡男・余一兵衛尉は女装して逃れようとしたが、道端で捕らえられ梟首された。残る親族達もことごとく殺害されたという。 京都側の記録である『愚管抄』によると、頼家は広元の屋敷に滞在中に病が重くなったので自分から出家し、あとはみな子の一幡に譲ろうとした。それでは一幡を擁する能員の世になる事を恐れた時政が、能員を呼び出して殺害し、一幡を殺そうと刺客を差し向けた。一幡は母が抱いてかろうじて逃げ出したが、残る一族はみな討たれた。その後、11月に一幡も北条義時の郎党に捕らえられて刺し殺されたという。 『吾妻鏡』は比企一族を滅ぼした北条氏による後年の編纂書である。当時の貴族の日記によると、頼家が存命しているにもかかわらず、9月1日に頼家が病死したという鎌倉からの使者が7日早朝に到着しており、実朝を征夷大将軍に任命するよう要請している。鎌倉からの日数を考えると、使者が発った時点で頼家は重体であり、能員の殺害が決定していたとも考えられる。『吾妻鏡』の記録では、頼家近臣として所領を没収され、遠流とされた信濃国の御家人中野能成は、比企氏滅亡の2日後の日付で、時政によって所領を安堵されている書状が残されている。この能成は時政の子・北条時房と深い関わりがあった。『愚管抄』や都の貴族の日記および残された文書と『吾妻鏡』との相違、また『小代文書』という史料で能員が単身・平服で名越邸を訪れた様子が書かれており、北条氏征伐を企てたという能員が、敵であるはずの時政の邸を無防備に訪れている不自然さなどから、歴史学者からは比企氏の反乱自体が北条氏のでっちあげであろうとの見方がされている。 比企能員の屋敷跡に建てられた鎌倉市の妙本寺に、比企一族の墓がある。
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