比企の乱とは? わかりやすく解説

比企能員の変

(比企の乱 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/10 02:42 UTC 版)

比企能員の変(ひきよしかずのへん)は、鎌倉時代初期の建仁3年(1203年9月2日鎌倉幕府内部で起こった政変。2代将軍源頼家外戚として権勢を握った比企能員とその一族が、北条時政の謀略によって粛清族滅された。比企能員の乱比企氏の乱小御所合戦とも。


注釈

  1. ^ 平賀朝雅は北条時政の娘婿であると同時に比企尼の外孫でもあったが、変の前年に母親の比企の方が病死したことでもあり、母方の比企氏ではなく妻方の北条氏を選択した。
  2. ^ 古活字本『承久記』や『梅松論』では北条時政の送った刺客としている。

出典

  1. ^ a b c d 永井晋『鎌倉源氏三代記 一門重臣と源家将軍』(吉川弘文館、2010年)
  2. ^ a b 鎌倉時代以来820年ぶりの「和解」 戦った北条氏と比企氏 東松山で歴史研究家ら握手”. 東京新聞 (2023年9月2日). 2023年9月9日閲覧。


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比企の乱

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島津忠久」の記事における「比企の乱」の解説

頼朝死後の建仁3年1203年9月、比企の乱(比企能員の変)が起こり、この乱で忠久は北条氏によって滅ぼされ比企能員縁者として連座し、大隅薩摩日向守護職没収された。この時、忠久は台明寺の紛争解決のため、守護として初め任地大隅国下向しており、鎌倉には不在であった同年10月19日務め終えて戻る上洛の無事を祈り、台明寺に願文収めている。 比企の乱後は在京していたとみられ、建暦3年1213年2月3代将軍源実朝学問所番となり、御家人として復帰みられる同年6月和田合戦においては勝者の側に立ち、乱に荷担した甲斐国都留郡古郡氏の所領である波加利荘新荘)を拝領した本荘甲斐源氏棟梁武田氏が伝領)。同年7月薩摩国地頭職還補され、同国守護同年再任されたとみられるが、大隅日向守護職は北条氏の手渡ったまま、その2国の復権なされるのは南北朝時代以降こととされている。 承久3年1221年)の承久の乱後は、信濃国太田荘地頭職越前国守護職獲得したこの頃には、惟宗姓に代えて藤原姓称している(母方とされる比企氏は秀郷流藤原氏)。元仁元年1224年)に八十島使の随兵務め嘉禄元年1225年)には検非違使任じられ嘉禄2年1226年)には豊後となった嘉禄3年1227年6月18日辰の刻脚気赤痢により死去『吾妻鏡』)。墓は、島津家25当主島津重豪により、江戸時代後期鎌倉西御門源頼朝の墓と共に建立され頼朝の墓の右隣に寄り添うように建てられている。

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比企の乱

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比企能員」の記事における「比企の乱」の解説

詳細は「比企能員の変」を参照 建仁3年1203年)、頼家病床伏し8月危篤状態に陥った『吾妻鏡』によると、8月27日北条時政一幡頼家の弟・源実朝頼家遺領分与決定し関東28国地頭職と日本国守護職一幡に、関西38国地頭職を実朝相続するになった。これに不満を持った能員は、頼家実朝擁立計る時政謀反訴え頼家時政追討を能員に命じる。しかし、この密議障子の影で立ち聞きしていた政子時政告げ先手打った時政大江広元支持取り付けると、9月2日仏事相談があるとして能員を時政自宅である名越邸に呼び出す。密議漏れている事を知らない能員は、さかんに引き止めて武装するように訴え一族に「武装したりすればかえってあやしまれる」と振り切り、平服のまま時政屋敷に向かう。門を通って屋敷入ったところを武装して待ちかまえていた天野遠景仁田忠常時政の手勢に両腕取り押さえられ、引き倒されところを刺し殺された。 能員謀殺知らせ受けた比企一族は、一幡屋敷である小御所立てこもって防戦したが、大軍攻められ追いつめられると、屋敷火を放ち一幡囲んで自害した一幡焼死し焼け跡から小袖切れ端乳母確認したという。能員の嫡男・余一兵衛尉女装して逃れようとしたが、道端捕らえられ梟首された。残る親族達もことごとく殺害されたという。 京都側の記録である『愚管抄』によると、頼家広元屋敷滞在中に病が重くなったので自分から出家し、あとはみな子一幡譲ろうとした。それでは一幡擁する能員の世になる事を恐れた時政が、能員を呼び出して殺害し一幡殺そう刺客差し向けた一幡は母が抱いてかろうじて逃げ出したが、残る一族はみな討たれた。その後11月一幡北条義時郎党捕らえられ刺し殺されたという。 『吾妻鏡』比企一族滅ぼした北条氏による後年編纂書である。当時貴族日記によると、頼家存命しているにもかかわらず9月1日頼家病死したという鎌倉からの使者7日早朝到着しており、実朝征夷大将軍任命するよう要請している。鎌倉からの日数考えると、使者発った時点頼家重体であり、能員の殺害決定していたとも考えられる『吾妻鏡』記録では、頼家近臣として所領没収され遠流とされた信濃国御家人中野能成は、比企氏滅亡2日後日付で、時政によって所領安堵されている書状残されている。この能成は時政の子北条時房と深い関わりがあった。『愚管抄』や都の貴族日記および残され文書『吾妻鏡』との相違、また『小代文書』という史料で能員が単身平服名越邸を訪れた様子書かれており、北条氏征伐企てたという能員が、敵であるはずの時政の邸を無防備に訪れている不自然さなどから、歴史学者からは比企氏反乱自体北条氏でっちあげであろうとの見方がされている。 比企能員屋敷跡建てられ鎌倉市妙本寺に、比企一族の墓がある。

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