島津忠久とは? わかりやすく解説

島津忠久

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/05 16:20 UTC 版)

島津 忠久(しまづ ただひさ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将鎌倉幕府御家人島津氏の祖。本姓惟宗氏惟宗忠久(これむね の ただひさ)、また後年には藤原氏も称した。出自・生年については諸説ある。


注釈

  1. ^ 鎌倉時代から南北朝時代の作、絹本著色、鹿児島県指定文化財。長く京都の高山寺に伝わった作品で、像主は島津忠久だとされる。付属する松方正義筆の由緒書きによると、元治元年(1864年)に島津久光が本作品を見せられ、後に島津忠義が本作品の入手を松方に依頼し、明治31年(1898年)ようやく島津家に譲られたという[1]
  2. ^ 『島津歴代略記』(島津顕彰会)では、治承3年(1179年12月30日としているが、これは源頼朝の落胤説に則ってのもの
  3. ^ 山槐記』には「左兵衛尉忠久」と記されている。元暦2年(1185年)の地頭補任状に「左兵衛尉忠久」と記されていることから『山槐記』の「左兵衛尉忠久」は惟宗忠久を指すものであると推測される。
  4. ^ 父方と考えられる惟宗氏には平安末期「薩摩」「大隅」「日向」などの国司に任じられた者が数名がおり、忠久はこの延長線上にたって領家ならびに頼朝から島津荘下司に任じられたとの見解もある[13]
  5. ^ 異父弟の安達景盛時長らは比企氏側から離れ北条氏側に付いたため、連座していない。
  6. ^ 「先薩摩山門院に御下、夫より嶋津之御荘ニ御移、嶋津之(御)庄ハ庄内也、三ヶ国を庄内為懐依り在所也、去程庄内南郷内御住所城(堀)内ニ嶋津御所作有て御座候訖」[18]

出典

  1. ^ 『尚古集成館』図録、尚古集成館編集・発行、1987年、pp.6-7
  2. ^ a b c 『島津歴代略記』(島津顕彰会 1985年
  3. ^ 『官報』第139号「敍任及辞令」1927年6月17日。
  4. ^ a b c 朝河貫一 1939, p. 281.
  5. ^ 朝河貫一 1939, p. 280.
  6. ^ 朝河貫一 1939, p. 281-282.
  7. ^ 朝河貫一 1939, p. 282.
  8. ^ 朝河貫一 1939, p. 283-284.
  9. ^ 朝河貫一 1939, p. 339.
  10. ^ 朝河貫一 1939, p. 285.
  11. ^ a b 朝河貫一 1939, p. 295.
  12. ^ 朝河貫一 1939, p. 308-309.
  13. ^ 野口実「惟宗忠久を巡って」(『中世東国武士団の研究』高科書店、1994年)
  14. ^ a b 一 承久の乱と御家人の動向|戦後の越前・若狭”. 『福井県史』通史編2 中世. 福井県文書館 (1994年). 2023年3月14日閲覧。
  15. ^ 朝河貫一 1939, p. 309.
  16. ^ 新続古今和歌集
  17. ^ 野村武士『島津忠久と鎌倉幕府』(南方新社2016年)20-27頁
  18. ^ 山田聖栄自記(鹿児島県史料集Ⅶ)
  19. ^ 三木靖(鹿児島国際大学短期大学部名誉教授)寄稿 南日本新聞 2008年4月16日付
  20. ^ 保立道久「義経・頼朝問題と国土高権」『中世の国土高権と天皇・武家』校倉書房、2015年 ISBN 978-4-7517-4640-0)P385-388.






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