権力掌握まで
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1614年、ポワトゥーの聖職者たちの求めにより、リシュリューは教区の代表として全国三部会へ出席した。三部会において彼は精力的な教会の代弁者として活動し、教会の免税と司教の政治的権力の向上を主張した。彼はトレント公会議の布告の実施を主張する最も際立った聖職者だった。平民の第三部会が彼の努力に対する最大の敵対者となった。会議の終わりに第一部会(聖職者)は請願書や意思決定を読み上げる演説者に彼を選んだ。リシュリューの雄弁は摂政マリー・ド・メディシスとその寵臣コンチーノ・コンチーニの関心を引き、三部会の閉会後まもなく、リシュリューはルイ13世の王妃アンヌ・ドートリッシュの司祭として宮廷に仕えることになった。 当時の宮廷では、9歳のルイ13世が即位したときに母后マリー・ド・メディシスは摂政となり、1614年にルイ13世が成人して摂政を終えた後も実権を握り続けていた。リシュリューは母后マリーの寵臣で当時最も有力な大臣だったコンチーノに忠実に仕えることによって、政治の世界へ踏み込んだ。1616年、リシュリューは国務卿となり外交を担当、コンチーニと共にマリーの助言者となった。だが、彼女の諸政策と寵臣コンチーニは国内では人気がなく、結果マリーとコンチーニは宮廷内の陰謀の標的となった。彼らの最大の敵はシャルル・ダルベールである。1617年4月、ダルベールの画策によりルイ13世はコンチーニの逮捕を命じ、その結果コンチーニは暗殺され、マリー・ド・メディシスの政権は倒された。 コンチーニの遺体がパリの群衆によって寸断され、晒し物にされていたところを通りかかったリシュリューは、彼の馬車に誰何する群衆に「国王に対する忠誠である」と彼らの行為を称えて難を逃れている。 ルイ13世はダルベールをリュイヌ公となし、寵臣リュイヌ公が新たな権力者となった。一方、パトロンの死により権力を失ったリシュリューは罷免され、宮廷から追放された。さらに1618年、リシュリューを依然として疑っていた国王は彼をアヴィニョンへ追いやった。この地でリシュリューは多くの時間を著作に費やし、"L'Instruction du chrétien"と題する公教要理を著している。 1619年、マリー・ド・メディシスは幽閉されていたブロワ城から脱走し、貴族反乱軍の名目上の指導者となった。国王とリュイヌ公はリシュリューを召還して母后の説得に当たらせた。リシュリューはこれに成功して、母后と国王との調停を行った。この複雑な交渉はアングレーム和議(英語版)が締結されて実を結び、マリー・ド・メディシスは自由を取り戻し、国王と和解した。この頃に母后マリーに仕えていた長兄リシュリュー侯アンリが決闘を行い死亡している。 1621年にリュイヌ公が死ぬと、リシュリューは急速に権力を掌握し始める。翌1622年、リシュリューの国務会議入りを母后マリーから推薦されたルイ13世は、彼を悪魔のように憎んでいると拒絶していたが、国王はリシュリューを枢機卿に任命し、同年4月19日にローマ教皇グレゴリウス15世は彼を叙階した。 フランスはユグノー(フランスのプロテスタント)の反乱などの危機に瀕しており、リシュリューは国王にとってなくてはならない助言者になりつつあった。1624年4月に国務会議の顧問官に任命されると、リシュリューは首席国務卿ラ・ヴィユーヴィル侯の失脚を企てた。同年8月にラ・ヴィユーヴィル侯は汚職容疑で逮捕され、リシュリューが代わって首席国務卿(宰相)となった。
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権力掌握まで
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フランク王国の東北部にあたるアウストラシア(現在のドイツ南西部、フランス北東部、ベルギー、オランダ)の宮宰ピピン2世の庶子として生まれた。母はピピン2世の側室で、マーストリヒトの豪族の娘アルパイダ。カロリング家は宮宰として代々メロヴィング朝宮廷の実権を握っていた。 714年に父のピピン2世が死ぬと、その正妻であるプレクトルードにより幽閉されたが、716年に脱出した。その後、ネウストリア(現在フランスの大半)宮宰就任を宣言したラガンフリド(? - 731年)を破り、それにもとづいてプレクトルードから支配権を奪い、718年にフランク王国全体の宮宰となった。
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権力掌握まで
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「ゲロン (シュラクサイの僭主)」の記事における「権力掌握まで」の解説
ゲロンはデイノメネスの息子で、ヘロドトスによると祖先はエーゲ海のテロスからシケリア(シチリア)に渡ったゲラの建設者の一人であった。親類の一人であるテリネスは、デーメーテールを含む大地の女神を祭る儀式を通じて、ゲラの民族紛争の後に住民を和解させたと言われた。このため彼の子孫達はこれらの女神崇拝の神職を継承しており、ゲロンもこの宗教の神官であったと思われる。彼の兄弟にはヒエロン1世、トラシュブロスおよびポリゼロスがいる。デイノメネスは彼の子息達の運命に関する神託を問うたことがあったが、ゲロン、ヒエロン、トラシュブロスは僭主になる運命であると告げられた。 ゲロンはシケリアの他の都市の僭主達と何度も戦い、恐るべき戦士であるとの評判を得た。彼の能力は抜きん出ていたため、僭主ヒポクラテスの騎兵部隊の司令官となった。司令官としても、後に彼自身が征服することになるシュラクサイとの戦闘を含む幾つもの戦いで重要な役割を果たした。
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権力掌握まで
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「ムルタラ・ムハンマド」の記事における「権力掌握まで」の解説
ムハンマドはゴウォン政権の前のジョンソン・アグイイ=イロンシ政権にも反対していた。イロンシはイボ系の軍人によるクーデタを収拾したが、北部出身者はイロンシを疑いクーデター気運が醸成されていた。アベオクタ兵営の北部出身兵士が1966年7月29日に謀議し、当初は北部の独立案もあったが、経済的困難を官僚やイギリス外交官に指摘され採用しなかった。クーデターはゴウォン中佐をナイジェリア国軍最高司令官として実行された。ムハンマドは自らが指導者になることを望んだが、ゴウォンの方が上官であり、またムハンマドは米英の支持を得られなかった。彼は中佐へ昇級し、司令審査官 (Inspector of Signals) に任命された。 ビアフラ戦争中ムハンマドはナイジェリア国軍の第2師団の総司令官を務めた。第2師団はビアフラ軍に反攻し中西部州を奪還しニジェール川を渡って、ンスッカからエヌグを行軍する第1師団と連携した。イボ人の住む中西部州の国境の町アサバでムハンマドは妊婦がレイプされ殺害された事件のために非難された。ムハンマドはこれを否認し謝罪することはなかった。またニジェール川渡河の際にビアフラ軍が破壊した橋の再建を待ったが、ラゴスの司令部が彼の軍功を妨げようとしていると考え、渡渉を始めた。結果として渡河の備えのない部隊は流れにのまれて対岸のビアフラ軍から標的とされた。ムハンマドは多くの犠牲を伴って2度撤退し、アバガナでも同様の経験をした。燃料タンクがビアフラ軍の爆撃で損傷し、ほぼ全ての輸送用燃料が流出した。ムハンマドは司令部から懲戒を受け、司令官から外されイギリスへの長期休暇を与えられた。 ムハンマドはビアフラ戦争終結後帰国すると司令審査官の地位に戻され、これが軍での最後の任務に思われた。しかし、ゴウォン政権が汚職まみれであるとの評判を聞き、准将としてオバサンジョ准将やテオフィルス・ダンジュマ准将ら他の将校からクーデター計画を聞くと、ナイジェリア軍の勝利に貢献した将校も功績が認められていないとの不満が高まっていると認識し、自分たちがやればゴウォン政権よりましであると考えた。
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