権力分立前史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 09:16 UTC 版)
古くから、中国と日本を含めたその周辺諸国ではすべての権力を君主あるいはその時々の政権に集中させていた。このため、明治以前の日本では、立法権と行政権、司法権はほぼ同じ機関が担った。江戸幕府の役職である町奉行(江戸町奉行)が、江戸市中に施かれる法を定立し、行政活動を行い、民事・刑事の裁判も行っていたことは、その典型である。 こうした性格は実際の裁判にも影響を与えた。すなわち、中国の伝統的な民事裁判においては、民が官に対して請願を行い、それに対して官が請願の是非を判断する裁許という形で一種の行政処分を行う「父母官型訴訟」と呼ばれる権力者の徳治思想に基づいた世話焼き・恩恵行為に過ぎなかった。さらにその制度を取り入れた古代日本の民事裁判では中国のような徳治思想は希薄で、被告が直属する官司・組織との日常的支配関係に依拠して提起されることが多く、被告から見て上位者にあたる裁許者も提訴を受けたことによって受け身の形で裁許を行ったとされ、中世に入っても領主が警察・刑事裁判に相当する検断権の確保には積極的であってもそれ以外の裁判に対する関心は低く、もっぱら原告・被告双方が持つ縁を頼る形での提訴・訴訟が展開されていた。日本や中国においては裁許者に求められたのは、強制力を持つ「判決」を出すことではなく、請願の是非を「裁許」の形で下し当事者間交渉を促すことにあった。 日本に近代的な権力分立の思想が入ってきたのは幕末である。 1868年(明治元年)、五箇条の御誓文を実行するために出された政体書には「天下の権力、総てこれを太政官に帰す、則政令二途出るの患無らしむ。太政官の権力を分つて行法、立法、司法の三権とす、則偏重の患無らしむるなり」として、三権分立主義をとることが明記された。 しかし当時は、裁判こそが行政の最大の役割であると考えられており、1872年(明治5年)に司法卿・江藤新平が欧米に倣って、行政権と司法権を分離させる制度の構築を図ったところ、特に地方行政の担い手である地方官から猛反発が起きた。たとえば、京都府からは「仰地方の官として人民の訴を聴くこと能はず、人民の獄を断ずるを能はず、何を以て人民を教育し、治方を施し可申哉」(地方官が民事訴訟をしてはいけない、刑事裁判をやってはいけないと言うが、ではどうやって人々を教育して地方を治めろというのか)と抗議(明治5年10月21日付京都府届)が行われ、諸府県からも同様の抗議が殺到したという。 また、1875年(明治8年)に終審裁判所である大審院が設置されたあとも、大審院の判決に司法卿が異議申し立てをする権利を保留する(江藤はすでに佐賀の乱で処刑されている)など問題が多く、のちの自由民権運動でも国会開設問題(立法権の政府からの分離要求)と並んで政府批判の材料とされた。
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