栴法(ぜんぽう)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 04:59 UTC 版)
栴法(ぜんぽう)とは、内神道で仮に呼ぶところの「立禅(りつぜん)」の本来の命名である(『内神道立禅解説』)。 「立禅」は「本流の楊式太極拳」の禅法のひとつである。禅法には、「立禅」・「臥禅」・「往禅」・「坐禅」・「動禅」の五種がある。これらは、慣習で、「内神道」のなかでどれも禅法と呼ばれてきているようだ。 もともとの歴史から眺めると、「本流の楊式太極拳」の太極拳の全型式を動くところの動作は、慣習的に「動禅(どうぜん)」の分類に入るという。そのような呼び方が、どの時代からはじまったのかは、はっきりしていない。ただ「禅」という用語は仏教のものであり、インダス文明の時代(BC2300~)以前から伝わる古代インドの徳目とされている(仏教語辞典―東京書籍)。これは釈尊からも2000年近く遡る古い哲学であり、瑜伽(ヨガ)の修行項目であったともされている。したがって、「本流の楊式太極拳」の世界は「出家」しない武道の世界を伝統としているので、「禅」の用語の使用は正式ではないということが指摘できうる。 また「本流の楊式太極拳」の、仮に呼んでいる「立禅(りつぜん)」とは、「元椿(げんしゅん)」という呼び方もされていたが、「本流の楊式太極拳」と異なる武道世界では「樁(とう)=杭の意味」の文字をあてた命名のものの存在もあって、「樁」と「椿」の文字が混同されたのか、それとも各々が独自に発展した文化かがはっきりしないことがうかがえる。また「香椿(ちゃんちん)」という呼び名も昔から「立禅」に付されていた(『内神道立禅解説』)。 内神道では、歴史の真実をさぐっていったなかで、「本流の楊式太極拳」世界において、「椿(しゅん)」が古代中国で、伝説中の長寿の大木で、八千年がひと春という「栴檀(せんだん)」を示唆していたという説をとっているという。これについては、漢訳の法華経の経典でも頻繁に「栴檀」が出てくるように(漢訳法華経の分別功徳品第十七等;鳩摩羅什訳)中国文化の香徳、吉兆の代表的存在が、この長寿の「栴檀」であるからと結論している。 こうして、内神道では「本流の楊式太極拳」の型式については、「動く禅」であるという「歴史的慣習的呼び方」を使う一方で、内神道の「正式呼称」としては、「立禅」と「立禅に付随する稽古のグループ」については、「栴法=ぜんぽう」という呼称を使って、後世への技の伝承をめざしているとされている。 内神道は「静坐の門」の名称を日本国で特許庁から権利取得している。つまり「内神道」とは、仮に呼ぶ、主に「動禅」「立禅」また、副に「坐禅」「往禅」「臥禅」を含ます「静坐の門」をいうとする。そして、この仮に呼ぶ「動禅」ほかすべての禅法は、そのまま「本流の楊式太極拳」なのだとするのである。この「静坐」の名称を継いだのは、じつは「動中求静」の古代本流の楊式太極拳の原理哲学を重要にまもったからであり、この原理は「静中求動」とは厳密に異なるとしている点も、内神道の重要な特異点としてみておく必要がある。なぜなら「連綿円合」という哲学文化が「老子経」そのものであるからである。このような基本的文化哲学のうえに立ってこそ「本流の楊式太極拳」の実践修行が、深く、本当の中国発祥の尊い真実を備えた武道文化を継承できるとする、と説明するのである。 「静坐」の概念も古くて、老荘の文化とともにあった。紀元前403年頃に、荘子「説剣篇」に見られるように、すでに老荘の静寂文化と一体となして、武道の理論が存在していた。そこで「静坐の門」という「道家」独特の稽古法の原点の存在が指摘されうる。 疑問点としては、インドの瑜伽(ヨガ)に発生の源流をみる「禅」の哲学と、中国独自の文化である「静坐」が「いつごろどのように融合したか」ということだが、これを明確にすることは学問的には困難であろうとされている。 しかし、老子を宗家に仰ぐ宗教である道教(道教と道家はまったく異なるものである。中国の民間に発生した宗教が道教であり、道家は老子哲学を主にさしている)の経典として『西遊記』があるわけだが、これは、この「静坐」文化、「禅」文化、「道家」文化、「仏教」文化、「道教」文化が、融合した一大文学である。この『西遊記』という1千年以上の時間をかけて構築された文化は、まさに古代から中世に亘る中国の思想の変遷の生き証人であった。そこから洞察を行うなら、明らかに、インド禅文化と中国静坐文化が、確実に交わったということの現実、あるいは存在は、明白であるという客観性が指摘できうる。この現実から、立禅、すなわち「栴法(ぜんぽう)」の深淵性と文化性、歴史性がはっきりと、また指摘できうると内神道では説明している。 ここで、内神道が代表的な稽古法として伝える「横振り栴法」と「縦振り栴法」の解説によれば、この稽古、つまり、古代中国の道家の「栴法」が中国健康法において「すあいそう」とよばれる運動体操を生んでいるという。内神道の研究によれば、これらが西洋に移って「スクワット」という運動群に変わっているとする説をとる。「スクワット」はハーバード大学等で研究がすすめられ、たとえばHGH(ヒト成長ホルモン)の分泌が卓越したものである等の発表がなされている。しかし、内神道の立禅解説書によれば、多くの膝や身体制御の極意において、「スクワット」や「すあいそう」には未熟な技の要素が多すぎて、付加すべき研究要素、乃至理法が必要であると指摘されうると説いている。その証拠にそれらの運動を持続して行ったものたちの肉体障害発生の報告を多く得ていると発表している。 内神道では「栴法(ぜんぽう)」こそ、奇跡的神秘的な稽古の福利を身に備えるものであるとしていて、古代の伝統的な「本流の楊式太極拳」の洗練された正しい理論収集を得たのちに行われることが重要だと解説する。あくまで実践という意味において、「基本的理論」と「根底の法則」を有さないものの弊害は、これを未熟な医師の手術に例えて、現実を軽視する冒涜であると警鐘をならしている。そして「栴法」はあくまで「本流の楊式太極拳道」の中枢技のひとつであり、どこまでも、真実でなくてはならないとも、している。 こうして武道は、あくまで日本のサムライや、あらゆる文化人が好んで行をおこなったところの「禅」的要素が必須であり、「栴法」とは、あくまで在家稽古者が行う「古代静坐」であるし、同時に「禅」そのものとも本質において差異のないものでなくてはならないとする。 つまるところ、沢庵禅師の謂う「剣禅一如」は「内神道」においては特に重要だとされていると開示されうるであろう。神秘的、もしくは奇跡的世界は老子の持つ宇宙的人間論哲学が生みだす。その体感、稽古こそが「本流の楊式太極拳」であり内神道だという視点も当然に同時に含まれていることが、発見されうるし、そのことは当然であると解説されている。
※この「栴法(ぜんぽう)」の解説は、「内神道」の解説の一部です。
「栴法(ぜんぽう)」を含む「内神道」の記事については、「内神道」の概要を参照ください。
- >> 「栴法」を含む用語の索引
- 栴法のページへのリンク