明治大学法学部入学と外遊、留学とは? わかりやすく解説

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明治大学法学部入学と外遊、留学

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:48 UTC 版)

三木武夫」の記事における「明治大学法学部入学と外遊、留学」の解説

1929年昭和4年3月明大専門部商科卒業4月三木両親宛に『しばらくの時間猶予、そしてしばらくのわがまま』を許して欲しいとの内容書簡送っており、明治大学法学部入学し、更に欧米への外遊出発することになる。 三木長尾から国際性身につける必要性説かれ米国へ遊説旅行勧誘されていた。長尾は、まだ若い頃、兄の田所多喜二とともに米国渡り苦学をした経験があった。法学部入学直後6月、『明治大学駿台新報』には長尾三木ハワイ米国本土遊説旅行へと出発することが紹介されている。遊説旅行費用自己負担であり、三木企業などからの援助新聞社特派員として記事執筆、そしてやはり両親からの援助などで多額の費用賄うことになった出発前に長尾三木両人故郷である徳島で『欧米遊説記念演説会』を開催し明大学長からの許可書、指導協力依頼状を携え9月27日米国へ旅立った米国在住経験がある長尾とともに三木ハワイ到着後、現地在住明大校友会日系人支援を受けながら、精力的な講演活動開始するハワイでの活動後、長尾三木米国本土上陸、やはり現地校友会日系人たちの援助を受けつつ、サンフランシスコロサンゼルスなどカリフォルニア州内、その後デトロイトシカゴニューヨークなどで公演行ったデトロイトではフォード・モーター一日かけて見学したり、また発明家トーマス・エジソン面会するなど、講演活動以外にも見聞広めていった。 約一年間に及ぶ米国遊説旅行終了後三木欧洲渡った米国講演旅行異なり欧洲はほぼ三木単独行であった欧洲講演活動ではなく見学旅行であり、三木英国ドイツ、フランスイタリアソ連などを回った折しも外遊世界恐慌時期重なっており、米国では大勢失業者発生している状況目の当たりにし、続いて英国でも深刻な影響実感した三木欧洲歴訪中、ベニート・ムッソリーニファシスト党統治下のイタリアヨシフ・スターリン支配下ソ連、そしてアドルフ・ヒトラーによるナチス台頭前夜ドイツ見てファシズムスターリニズムなど全体主義強権に強い違和感抱いた一方スイスジュネーブ行われた国際連盟軍縮会議で、フランス外務大臣アリスティード・ブリアンが行った平和を訴え演説感銘受けた三木一年あまりの欧米旅行で、米国の自由、民主政治、そして平和の重要性、そしてファシズム共産主義による強権支配問題性認識し三木人生そして政治活動大きな影響与えることになる。 1930年昭和5年11月シベリア鉄道経由満州里向かい北京通って日本に帰国した。帰国した後、さっそく明大法学部復学するものの、三木はすぐに米国留学計画することになる。留学意図語学を身につけ、交際感覚を磨くためとも言われているがはっきりとはしない1931年昭和6年6月に、明大卒業して故郷徳島戻った長尾宛の書簡によれば当初三木明大野球部米国遠征時にマネージャーとして同行し米国弁論活動なども行うことを計画していた。しかしこの計画実現せず結局7月明大から『大学など学校調査研究のため、二年間欧米出張命ず』との内容契約書辞令交付された。 1932年昭和7年5月米国へ向かった米国行き際し当初三木片道分の旅費しか持っていかなかったと伝えられている。講演活動行えばお金何とかなる考えたためのようであるが、三木意図とは相違して講演活動での収入では生活もままならなかった。現地日系新聞社記者ロサンゼルス日本語学校での小学校教師などを行ったが、学業行いながらの生活は経済的にかなり苦しく米国留学時代親友長尾宛てた手紙多く生活費に関するものであったそのような中で三木著書の出版計画し更にはロサンゼルスオリンピックに際して日本製日傘輸入し、また米国中古機械日本輸出する計画などをもくろんだりもした。 経済的に苦しみながらも、三木南カリフォルニア大学アメリカン大学通学した1936年昭和11年4月にはアメリカン大学からマスター・オブ・アーツ文学修士)の学位受けた伝えられている。明大からの学校調査研究のためという渡米契約についても、1932年昭和7年11月時点中西部大学視察し続いて東部大学視察を行う予定である旨が報告されており、大学側明大留学生部ないし日本語専修科設置、そしてアメリカ在住日系二世明治中学校編入させるアイデア提案している。 留学1936年昭和11年4月までの四年間及んだ留学時代三木本業学業大学など教育制度調査以外に、資金を稼ぐために米国就労経験し出版貿易企画するなど様々な体験積んだ。また在米間中には三木人脈形成され、後に三木政策ブレーンとなった人物もいる。専門部商科時代遊説旅行1929年昭和4年)から1930年昭和5年)にかけての欧米旅行、そして四年に及ぶ留学は、当時日本が一層の世界進出果たしていくという機運の中で行われたのであるが、若い三木にとって様々な見聞、そして体験積み重ねることとなり、更には人脈形成一環ともなった留学から帰国後、三木明大法学部復学する。そして1937年昭和12年3月卒業する卒業後の三木進路は全く決まっていなかった。希望としては明大教員になることを考えていて、他に外交官記者、そして政治世界身を投じようとも考えていた。当時は、弁論活動をしていた人物政界入りすることは、珍しいことではなかった。そのような中、当時林内閣3月31日突如として衆議院解散する三木はこの突然降ってわいたような衆議院議員総選挙立候補する決意をした。

※この「明治大学法学部入学と外遊、留学」の解説は、「三木武夫」の解説の一部です。
「明治大学法学部入学と外遊、留学」を含む「三木武夫」の記事については、「三木武夫」の概要を参照ください。

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