明治大学法学部入学と外遊、留学
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「三木武夫」の記事における「明治大学法学部入学と外遊、留学」の解説
1929年(昭和4年)3月、明大専門部商科卒業。4月に三木は両親宛に『しばらくの時間の猶予、そしてしばらくのわがまま』を許して欲しいとの内容の書簡を送っており、明治大学法学部に入学し、更に欧米への外遊に出発することになる。 三木は長尾から国際性を身につける必要性を説かれ、米国への遊説旅行に勧誘されていた。長尾は、まだ若い頃、兄の田所多喜二とともに米国に渡り、苦学をした経験があった。法学部入学直後の6月、『明治大学駿台新報』には長尾と三木がハワイ、米国本土へ遊説旅行へと出発することが紹介されている。遊説旅行の費用は自己負担であり、三木は企業などからの援助、新聞社の特派員として記事執筆、そしてやはり両親からの援助などで多額の費用を賄うことになった。出発前には長尾、三木両人の故郷である徳島で『欧米遊説記念大演説会』を開催し、明大学長からの許可書、指導協力の依頼状を携え、9月27日、米国へ旅立った。 米国在住経験がある長尾とともに、三木はハワイ到着後、現地在住の明大の校友会や日系人の支援を受けながら、精力的な講演活動を開始する。ハワイでの活動後、長尾と三木は米国本土に上陸、やはり現地の校友会、日系人たちの援助を受けつつ、サンフランシスコ、ロサンゼルスなどカリフォルニア州内、その後デトロイト、シカゴ、ニューヨークなどで公演を行った。デトロイトではフォード・モーターを一日かけて見学したり、また発明家のトーマス・エジソンと面会するなど、講演活動以外にも見聞を広めていった。 約一年間に及ぶ米国遊説旅行終了後、三木は欧洲へ渡った。米国の講演旅行と異なり、欧洲はほぼ三木の単独行であった。欧洲は講演活動ではなく見学旅行であり、三木は英国、ドイツ、フランス、イタリア、ソ連などを回った。折しも外遊と世界恐慌の時期が重なっており、米国では大勢の失業者が発生している状況を目の当たりにし、続いて英国でも深刻な影響を実感した。 三木は欧洲歴訪中、ベニート・ムッソリーニのファシスト党統治下のイタリア、ヨシフ・スターリン支配下のソ連、そしてアドルフ・ヒトラーによるナチス台頭前夜のドイツを見て、ファシズム、スターリニズムなど全体主義の強権に強い違和感を抱いた。一方スイスのジュネーブで行われた国際連盟の軍縮会議で、フランスの外務大臣アリスティード・ブリアンが行った平和を訴える演説に感銘を受けた。三木は一年あまりの欧米旅行で、米国の自由、民主政治、そして平和の重要性、そしてファシズムと共産主義による強権支配の問題性を認識し、三木の人生そして政治活動に大きな影響を与えることになる。 1930年(昭和5年)11月、シベリア鉄道経由で満州里へ向かい、北京を通って日本に帰国した。帰国した後、さっそく明大法学部に復学するものの、三木はすぐに米国留学を計画することになる。留学の意図は語学を身につけ、交際感覚を磨くためとも言われているがはっきりとはしない。1931年(昭和6年)6月に、明大を卒業して故郷徳島に戻った長尾宛の書簡によれば、当初三木は明大野球部の米国遠征時にマネージャーとして同行し、米国で弁論活動なども行うことを計画していた。しかしこの計画は実現せず、結局翌7月に明大から『大学など学校調査研究のため、二年間の欧米出張を命ず』との内容の契約書、辞令が交付された。 1932年(昭和7年)5月、米国へと向かった。米国行きに際し、当初三木は片道分の旅費しか持っていかなかったと伝えられている。講演活動を行えばお金は何とかなると考えたためのようであるが、三木の意図とは相違して、講演活動での収入では生活もままならなかった。現地日系の新聞社の記者、ロサンゼルスの日本語学校での小学校教師などを行ったが、学業を行いながらの生活は経済的にかなり苦しく、米国留学時代、親友長尾に宛てた手紙の多くは生活費に関するものであった。そのような中で三木は著書の出版を計画し、更にはロサンゼルスオリンピックに際して日本製の日傘を輸入し、また米国製中古機械を日本へ輸出する計画などをもくろんだりもした。 経済的に苦しみながらも、三木は南カリフォルニア大学、アメリカン大学に通学した。1936年(昭和11年)4月にはアメリカン大学からマスター・オブ・アーツ(文学修士)の学位を受けたと伝えられている。明大からの学校調査研究のためという渡米契約についても、1932年(昭和7年)11月の時点で中西部の大学は視察し、続いて東部の大学視察を行う予定である旨が報告されており、大学側に明大に留学生部ないし日本語専修科の設置、そしてアメリカ在住の日系二世を明治中学校に編入させるアイデアを提案している。 留学は1936年(昭和11年)4月までの四年間に及んだ。留学時代、三木は本業の学業、大学などの教育制度調査以外に、資金を稼ぐために米国で就労を経験し、出版や貿易を企画するなど様々な体験を積んだ。また在米期間中には三木の人脈も形成され、後に三木の政策ブレーンとなった人物もいる。専門部商科時代の遊説旅行、1929年(昭和4年)から1930年(昭和5年)にかけての欧米旅行、そして四年に及ぶ留学は、当時の日本が一層の世界進出を果たしていくという機運の中で行われたものであるが、若い三木にとって様々な見聞、そして体験を積み重ねることとなり、更には人脈形成の一環ともなった。 留学から帰国後、三木は明大法学部に復学する。そして1937年(昭和12年)3月、卒業する。卒業後の三木の進路は全く決まっていなかった。希望としては明大の教員になることを考えていて、他に外交官、記者、そして政治の世界に身を投じようとも考えていた。当時は、弁論活動をしていた人物が政界入りすることは、珍しいことではなかった。そのような中、当時の林内閣は3月31日、突如として衆議院を解散する。三木はこの突然降ってわいたような衆議院議員総選挙に立候補する決意をした。
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