新王国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/13 14:28 UTC 版)
「メンフィス (エジプト)」の記事における「新王国」の解説
ヒクソスに勝利したテーベ人達によって第18王朝が開かれた。アメンホテプ2世(在位:前1427年-前1401/1397年)とトトメス4世(前1401年/1391年-前1391年/1388年)の時代にはメンフィスに王室の重大な関心が寄せられたが、それでも権力の大部分は南方に残っていた。それに続く長期の平和の後、その戦略的重要性によってこの都市は再び繁栄した。この時代に他の帝国との貿易関係が強化されたことで、メンフィスの外港ペル・ネフェル(Peru-nefer 文字通り「良い旅 Bon voyage」を意味する)はビュブロスやレヴァントを含む他の地域から王国に入るための玄関港となった。 新王国時代、メンフィスは王子や貴族の子弟の教育拠点となった。メンフィスで生まれ育ったアメンホテプ2世は、彼の父の治世の間に下エジプトの大司祭であるセテム(setem)を務めていた。アメンホテプ2世の息子トトメス4世は若い王子としてメンフィスで暮らしていたころ夢のお告げを受け、有名な夢の碑文(英語版)にその内容を記録させた。カール・リヒャルト・レプシウス(1810年-1884年;プロイセンのエジプト学者・言語学者)は、この地で調査している時、プタハ神殿の東側でトトメス4世の名前を刻んだ一連のブロックと破損した列柱を発見した。これらは王宮跡に違いなく、厳かな儀式が執り行われる宮殿だったであろう。 恐らく第18王朝の時代、具体的にはアメンホテプ3世の時(在位:前1388/86年-前1351/49年)、アスタルト女神(メソポタミア・アッシリアの豊穣と戦争女神、バビロニアのイシュタルに相当する)の神殿が創建された。ヘロドトスはこれをギリシアの女神アフロディーテーに捧げられた物と誤認している。そして、アメンホテプ3世がメンフィスで行った最大の事業は、「プタハと一体なるネブマートラー」(Nebmaatra united with Ptah)と呼ばれる神殿の建設であった。この神殿はメンフィスの大家令 フイが作成させた建造物リストを含む当時の多くの資料で言及されている。この神殿の正確な位置は未だ判明していない。しかし、この神殿に使われていた褐色の珪石ブロックの一部がプタハの小さな神殿を建設するためにラムセス2世(在位:前1279年-前1213年)によって再利用されていることが判明している。このことから、何人かのエジプト学者はアメンホテプ3世の建造した神殿はラムセス2世が作った小神殿と同じ場所にあったと主張している。 メンフィスで発見された碑文によれば、アクエンアテン(在位:前1353/51年-前1336/34年)はこの都市にアテン神の神殿を建設した。このアテンに仕えた1人の神官の墓がサッカラで発見されている。アクエンアテンの後継者ツタンカーメン(在位:前1332年-前1323年、即位時の名前はトゥトアンクアテン)は治世2年目が終わるまでにアクエンアテンが作った首都アケトアテン(アテンの地平線)からメンフィスへ王宮を遷した。メンフィスでは異端的と見られた一神教、アテン信仰の時代が終わり、トゥトアンクアメンは伝統的な神殿と習慣の復旧を始めた。 ホルエムヘブやマヤ(英語版)のような、ツタンカーメンの治世における重臣達の墓はサッカラに建立されている。ただしホルエムヘブは自身がファラオとなった後(在位:紀元前1319年-紀元前1292年)、最終的に王家の谷に自身の墓を作った。彼はツタンカーメンとアイの治世下で軍司令官を務めた。マヤはツタンカーメン、アイ、ホルエムヘブ治世下における財務長官である。アイはツタンカーメンの宰相であり、その死後ファラオとなった(在位:前1323年-前1319年)。権力基盤を確かなものとするため、彼はツタンカーメンの未亡人、アンケセナーメン(ネフェルティティの6人の娘のうちの3女)と結婚した。彼女のその後の運命は知られていない。ホルエムヘブは同様にネフェルティティの姉妹ムトノジメトと結婚した。 ラムセス2世の治世下では、メンフィスは新首都ペル・ラムセスの近郊にあることで、その新しい政治的重要性を発達させた証拠がある。このファラオはメンフィスに数多くのモニュメントを捧げ、栄光を象徴する巨大なシンボルでそれらを飾った。ラムセス2世の後継者メルエンプタハ(在位:紀元前1213年-紀元前1203年)は宮殿を建設し、プタハ神殿の南東の壁を強化した。第19王朝の初期、メンフィスは王室から特に重要視された。この王朝は現在見られる遺跡の中に最も多くの痕跡を残している。 第21王朝と第22王朝の時代もともに、ラムセスによって始められた宗教的発展の継続の様子が見て取れる。メンフィスは国家が地政学的な大転換を迎えた第3中間期の間、衰退の憂き目は見ていないように思われる。一方、新たな東北に作られた首都タニスではファラオ達がメンフィス式の信仰を発達させた可能性が高い。その地に残された遺跡から判断して、そこにはプタハの神殿が存在していたことがわかる。サアメン(英語版)はアメン神に捧げられた神殿を建設したことが記録されている。その遺跡は20世紀初頭にフリンダーズ・ピートリーによってプタハ神殿複合体の南で発見されている。 第22王朝を建国したシェションク1世(在位:紀元前943年-紀元前922年)は、彼の建築事業に関する碑文の記述によるとメンフィスのプタハ神殿の前庭とピュロンを建設した。彼はこのモニュメントを「アメンに愛されたるシェションクの千年の城」と呼んだ。新王国でよく知られていたこのモニュメントを取り巻く葬祭儀式は、この神殿が建立されてから数世代後も機能していたことを示す。一部の学者はファラオ自身のための埋葬室が存在していたと主張している。シェションクはまた、聖牛アピスのための社を建設するように命令している。この社は特にアピスのミイラ化を行う葬祭儀式のために建立された。 ちょうど第22王朝時代に始まるメンフィスの高位司祭達のためのネクロポリスが広場の西に見つかっている。ここにはオソルコン2世(在位:紀元前872年-紀元前837年)の王子シェションク(英語版)によるプタハ神のための礼拝堂が含まれる。彼の墓は1939年にピエール・モンテ(Pierre Montet)によってサッカラで発見された。この礼拝堂は現在、カイロのエジプト考古学博物館の庭で、メンフィスで見つかったラムセス2世の三体の巨像の後ろに展示されている。
※この「新王国」の解説は、「メンフィス (エジプト)」の解説の一部です。
「新王国」を含む「メンフィス (エジプト)」の記事については、「メンフィス (エジプト)」の概要を参照ください。
新王国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/15 15:06 UTC 版)
新王国の時代、クフのネクロポリスと地域の葬祭儀式が新たに組織された。ギーザは再び経済的、宗教的に重要な土地となった。第18王朝の王アメンヘテプ2世の時代、記念堂と王家の栄光を示した石碑が大スフィンクスに隣接して建てられた。彼の息子で後継者のトトメス4世は砂の中からスフィンクスを掘り出し、その正面の足の間に「夢の碑文」として知られる記念碑を建てた。どちらの碑文の内容もよく似ているが、いずれもスフィンクスの真の建造者に迫れるような、説得力のある情報は提供していない。 第18王朝の終わりにクフのネクロポリスの衛星ピラミッドG1-c(これは女王ヘヌトセンのものである)に女神イシスの神殿が建設された。第21王朝の時代にこの神殿は拡張され、そして第26王朝の時代にも拡張は継続された。この時代から、「イシスの神官」(Hem-netjer-Iset)でありまた「クフの神官」(Hem-netjer-Khufu)でもあった者たちがここで働き始めた。同じ王朝の時代の神官ネフェルイブラー(Neferibrê)の名前のある黄金のシールリング(印章が取り付けられた指輪)がギーザで発見されている。
※この「新王国」の解説は、「クフ」の解説の一部です。
「新王国」を含む「クフ」の記事については、「クフ」の概要を参照ください。
新王国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/22 07:39 UTC 版)
新王国の時代は「ヒッタイト帝国時代」とも呼ばれ、歴史の霧の中に覆われていたヒッタイト王国が再び姿を現してくる。ヒッタイト文明は「ヒッタイト帝国時代」と呼ばれる時代に入った。この時代には多くの変化が起こった。 紀元前1430年頃からのトゥドハリヤ1世の行った革新的な事績は、隣国との条約や同盟の実施である。これによってヒッタイトは国際政治・外交の分野における先駆者とされている。トゥドハリヤ1世王の治世(紀元前約1400年頃)の時代、再びキズワトナ(英語版)と同盟を結び、フルリ人の都市であるアレッポとミタンニを征服し、アルザワ(英語版)(ルヴィ人の国)を犠牲にして更に西へ拡張した。王権が強化され、帝国時代にはヒッタイト人の入植が進んだ。しかしながら、ヒッタイトの人々はエーゲ海の土地よりもむしろアナトリア南部の古来の土地に定住する傾向があった。この入植がすすむにつれて、隣接地域の人々と条約を調印した。ヒッタイト帝国時代の間、王権は世襲制となり、王は「神がかり的な雰囲気」をまとい、ヒッタイト市民からは「わが太陽」と呼ばれ始める。帝国時代の王は高位の聖職者として行動するようになり、毎年ヒッタイトの聖なる都市を巡幸したり、祭祀を執り行い、聖地の維持費を監督したりした。 紀元前1400年から紀元前1200年までのヒッタイト帝国後期の間だけ、ヒッタイトの王権はより中央集権化した。 トゥドハリヤ1世の引き続いて、再び弱小期となり、ヒッタイトの敵が全ての方向から攻め込み、ハットゥシャまでもが陥落して破壊された。しかしながら、王国はシュッピルリウマ1世(紀元前約1350年頃)の下でかつての栄光を取り戻し、彼は再びアレッポを征服し、ミタンニを服属させて彼の養子の下に納税させ、更にシリアの都市国家カルケミシュを破った。彼自身の息子たちがこれらの新しい征服戦争に配置されている中、バビロニアは依然としてカッシートの手中にあり、そしてミタンニ帝国の崩壊によりアッシリアだけが新たに完全に独立した。こうした中、シュッピルリウマはエジプト域外における最高権力の調停役としてあり続けたが、間もなく別の息子とツタンカーメンの未亡人の婚姻を通じてエジプトと同盟することを模索した。だが、その息子は目的地へ到着する前に明らかに殺されており、この同盟が結ばれる事はなかった。 シュッピルリウマ1世と、その最年長の息子によるごく短期間の治世ののち、別の息子であるムルシリ2世が王となった(紀元前約1330年頃)。東における優勢な地位を継承して、ムルシリは西に注意を向ける事ができ、彼はアルザワ(英語版)、およびアヒヤワ(Ahhiyawa)の沿岸の土地にあるミラワンダとして知られる都市を攻撃した。最近の多くの研究では、アヒヤワのミラワンダとは、ギリシア史において知られるアハイアとミレトスを指すものではないかと推測しているが、このつながりに異を唱える説も少数存在する。
※この「新王国」の解説は、「ヒッタイトの歴史」の解説の一部です。
「新王国」を含む「ヒッタイトの歴史」の記事については、「ヒッタイトの歴史」の概要を参照ください。
新王国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/14 14:12 UTC 版)
「カルナック神殿複合体の歴史」の記事における「新王国」の解説
新王国時代(紀元前1550-1069年頃)には、比較的質素な神殿がエジプトの富が増すにつれて、巨大国家の宗教的中心地へと拡大していくのが見られる。
※この「新王国」の解説は、「カルナック神殿複合体の歴史」の解説の一部です。
「新王国」を含む「カルナック神殿複合体の歴史」の記事については、「カルナック神殿複合体の歴史」の概要を参照ください。
- 新王国のページへのリンク