第3中間期(大司祭国家、第21 - 26王朝)
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「古代エジプト」の記事における「第3中間期(大司祭国家、第21 - 26王朝)」の解説
第20王朝末期にはテーベを中心とするアメン神官団が勢力を増していき、紀元前1080年頃にはアメン神官団の長ヘリホルがテーベに神権国家(アメン大司祭国家)を立てたことでエジプトは再び南北に分裂することとなった。紀元前1069年に成立した第21王朝は首都をペル・ラムセスからタニスへと移し、アメン大司祭国家に名目的な宗主権を及ぼした。紀元前945年にはリビュア人傭兵の子孫であるシェションク1世が下エジプトに第22王朝を開き、アメン大司祭国家を併合して再統一を果たすが、その後は再びアメン大司祭が独立したほか下エジプトに5人の王が分立するなど混乱を極めた。こうした中、エジプトの強い文化的影響を受けていた南のヌビアが勢力を拡大し、紀元前747年にはピアンキがヌビアから進撃してエジプト全土を制圧し、第25王朝を開いた。しかしその後、メソポタミアに強力な帝国を築いたアッシリアの圧迫にさらされ、紀元前671年にはアッシリア王エセルハドンの侵入をうけて下エジプトが陥落。一時奪回に成功したものの、アッシュールバニパル王率いるアッシリア軍に紀元前663年にはテーベを落とされて第25王朝のヌビア人はヌビアへと撤退した。
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第3中間期
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「カルナック神殿複合体の歴史」の記事における「第3中間期」の解説
エジプトの分裂でファラオは北を支配し、アメン大司祭がテーベを支配する。北の王らは何も築造しないでほとんど複合体に付け加えなかったようであるが、大司祭たち、特にヘリホル(英語版)(紀元前1080-1070年頃)およびパネジェム1世は、コンス神殿を装飾し続けた。
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第3中間期
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国力の減退したエジプトは統一と分裂を繰り返す三度目の動乱期を迎える。この時代は過去二度の中間期と比較すると国内外で史料が多く残されているため、政治権力の変移が詳しく復元されている。 王権を引き継いだ第21王朝は暫くの間、南部の神官勢力と国内を二分し、過去の王たちの建築資材や宝物を流用するなどして辛うじて威光を保っていた。こうした混迷は1世紀程の時間をかけて徐々に収束し、両勢力間で進められた婚姻政策によって政治権力は統合に向かった。また、この時代には第19王朝時代からエジプトに流入し始めたリビア系移民の子孫が要職に就くようになる。その内の一人であるシェションク1世は第21王朝の王女の夫となって王位継承権を獲得し、第22王朝を開いた。 シェションク1世は親族を大司祭に据えて国内の再統一を達成した上、隣国イスラエルに侵攻する等、大国エジプトの外的な威信を回復させる事に成功した。リビア王家は血族の結び付きを重んじ、シェションク1世の後継者たちも地方の権力者との婚姻を積極的に行うことで、親族に取り込んでいった。しかし、これは多数の傍流を生み出す結果に繋がり、王が亡くなる度に後継者を巡る争いが起こる要因にもなった。そのため王家は内紛に忙殺されるようになり、やがて離反した傍流の一つが第23王朝を興すと、多くの外戚もそれに続いた。また第24王朝など、縁戚を持たない諸侯の中にも独立するものがいた。 王朝名在位(年)王名(英字表記)即位名大司祭国家(テーベ) 前1080 - 1074年頃 ヘリホル(Herihor) ヘムネチェルテピエンアメン 前1074 - 1070年頃 ピアンキ(Piankh) - 前1070 - 1032年頃 パネジェム1世(Pinedjem I) カーケペルラー・セテプエンアメン 前1054 - 1046年頃 マサハルタ(Masaharta) - 前1046 - 1045年頃 ジェドコンスエフアンクウ(Djedkhonsuefankh) - 前1045 - 992年頃 メンケペルラー(Menkheperre) ヘムネチェルテピエンアメン 前992 - 990年頃 スメンデス2世/ネスバネブジェド2世(Smendes II) - 前990 - 969年頃 パネジェム2世(Pinedjem II) カーケペルラー・セテプエンアメン 前969 - 945年頃 プスセンネス3世/パセブカエムニウト3世(Psusennes III) - 第21王朝(タニス) 前1069 - 1043年頃 スメンデス1世/ネスバネブジェド1世(Smendes I) ヘジケペルラー・セテプエンラー 前1043 - 1039年頃 アメンエムニスウ(Amenemnisu) ネフェルカラー 前1039 - 991年頃 プスセンネス1世/パセブカエムニウト1世(Psusennes I) アアケペルラー・セテプエンアメン 前993 - 984年頃 アメンエムオペト(Amenemope) ウセルマアトラー・メリアメン・セテプエンアメン 前984 - 978年頃 大オソルコン(Osorkon the Elder) アアケペルラー・セテプエンラー 前978 - 959年頃 サアメン(Siamun) ネチェルケペルラー・セテプエンアメン 前959 - 945年頃 プスセンネス2世/パセブカエムニウト2世(Psusennes II) ティトケペルウラー・セテプエンラー 第22王朝(ブバスティス)(リビア朝) 前945 - 前922年頃 シェションク1世(Sheshonk I) ヘジケペルラー・セテプエンラー 前922 - 前887年頃 オソルコン1世(Osorkon I) セケムケペルラー 前887 - 前885年頃 シェションク2世(Sheshonk II) ヘカケペルラー・セテプエンラー 前885 - 前872年頃 タケロト1世(Takelot I) ウセルマアトラー・セテプエンラー 前872 - 837年頃 オソルコン2世(Osorkon II) ウセルマアトラー・セテプエンアメン 前837 - 798年頃 シェションク3世(Sheshonk III) ウセルマアトラー・セテプエンラー 前798 - 前785年頃 シェションク4世(Sheshonq IV) ヘジュケペルラー・セテプエンラー 前785 - 778年頃 パミ(Pami) ウセルマアトラー・セテプエンアメン 前778 - 前740年頃 シェションク5世(Shoshenq V) アアケペルラー 前740 - 前730年頃 ペディバステト2世(Pedubast II) セヘテプイブエンラー 前730 - 716年頃 オソルコン4世(Osorkon IV) アアケペルラー・セテプエンアメン 第23王朝(テーベヘラクレオポリスレオントポリス)(リビア朝) 前880 - 860年頃 ハルスィエセ(Harsiese) ヘジケペルラー・セテプエンアメン 前840 - 815年頃 タケロト2世(Takelot II) ヘジケペルラー・セテプエンラー 前829 - 804年頃 ペディバステト1世(Pedubast I) ウセルマアトラー・セテプエンアメン 前829 - 804年頃 イウプト1世(Iuput) ウセルマアトラー 前804 - 798年頃 シェションク6世(Sheshonq VI) ウセルマアトラー・メリアメン 前798 - 769年頃 オソルコン3世(Osorkon III) ウセルマアトラー・セテプエンアメン 前774 - 759年頃 タケロト3世(Takelot III) ウセルマアトラー 前759 - 755年頃 ルドアメン(Rudamun) ウセルマアトラー・セテプエンアメン 前755 - 750年頃 イニ(Ini) ウセルマアトラー 前754 - 720年頃 ペフチャウアバステト(Peftjauawybast) ネフェルカラー 前754 - 前715年頃 イウプト2世(Iuput II) ウセルマートラー ヘルモポリス 前754 - 725年頃 ニムロト(Nimlot) 第24王朝(サイス朝) 前727 - 720年頃 テフナクト(Tefnakht) シェプセスラー 前720 - 715年頃 バクエンレネフ(Bakenranef) ウアフカラー
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