エジプト第18王朝
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エジプト第18王朝(エジプトだい18おうちょう、紀元前1570年頃 - 紀元前1293年頃)は、新王国時代最初の古代エジプト王朝。政権としては第2中間期のテーベ(古代エジプト語:ネウト、現在のルクソール[注釈 1])政権である第17王朝と完全に連続した政権であるが、エジプト統一を成し遂げたイアフメス1世以降は第18王朝とするのが慣例となっている。エジプトの再統一による国力増大によって数々の大規模建築が残され、ヌビア、シリア地方に勢力を拡大し、オリエント世界に覇を唱えた。
注釈
- ^ 紀元前3世紀のエジプトの歴史家マネトの記録ではディオスポリスマグナと呼ばれている。これはゼウスの大都市の意であり、この都市がネウト・アメン(アメンの都市)と呼ばれたことに対応したものである。この都市は古くはヌエと呼ばれ、旧約聖書ではノと呼ばれている。ヌエとは大都市の意である。新王国時代にはワス、ワセト、ウェセ(権杖)とも呼ばれた。
- ^ アナトリア半島南東部からメソポタミア中流域に勢力を持った王国。フルリ人を中心とした国家であり、王家を含む上層部にはインド・ヨーロッパ語を解する人々がいたとされる場合が多いが不詳。
- ^ 古代エジプト人にとって方角の基準はナイル川であった。特に上エジプト地域では実際の方角に関係なく、観測地点でのナイル側の上流方向が南、下流方向が北とされている。「逆さに流れる」とは即ちユーフラテス川が北側から南方向へ流れていることによる。
- ^ ハトシェプスト以前にも数名の女王の存在が知られているが、彼女らはいずれも自ら主導権をとって即位したものではなく、業績自体ほとんどわかっていない。
- ^ アメン・ラー神のことを指す。この碑文ではエジプト軍の移動がアメン・ラー神の移動という形で語られている。
- ^ 当時シリアには象が100頭を超える群を形成して生息していた。しかし西アジアの象は現在では完全に絶滅してしまっている。
- ^ アナトリア半島の都市ハットゥシャを中心にインド・ヨーロッパ語を話すヒッタイト人らによって形成された王国。世界で初めて製鉄の技術を確立したとも言われている。
- ^ メソポタミア南部、「シュメールとアッカド」と呼ばれる地方のこと。中心的都市であるバビロンにちなみこの名で呼ばれる。当時はカルドニアシュと呼ばれた。
- ^ 別名バビロン第3王朝。ザグロス山脈方面からメソポタミアに移動したといわれる系統不明の民族カッシート人によって立てられ、古代バビロニア史上最も長く続いた。
- ^ この時代の外交書簡には「エジプトには塵のように黄金がある」と記すものがある。この黄金の主要な供給源こそヌビアであった。
- ^ 20世紀初頭のアメリカのエジプト学者。初めて肥沃な三日月地帯という概念を提出したことで知られる。
- ^ 後に王となるホルエムヘブとは別人。
- ^ アメンヘテプ4世の共同統治説を受け入れる場合、アテン神信仰の確立にアメンヘテプ3世自身が強く関っていたことになる可能性がある。これのため非常に大きな論争が行われているのである。
- ^ 「アテンの意に適う者」と訳す説もあり[2]。
- ^ 「世界初の一神教」ともいわれるアテン信仰であるが、アテン・ラー賛歌などの宗教作品が後の『旧約聖書』などと類似した表現を用いることからユダヤ教やキリスト教に対する思想的影響を指摘する説があった。しかし今日では、アテン信仰が流布した範囲が極めて限られていることや、時期的にあまりにも離れすぎているため、似たような精神的背景によって偶然類似した表現が用いられているに過ぎず、アテン信仰と後世の一神教との関係性はあまりないと考えられている
- ^ トゥトアンクアメンは、ほとんど未盗掘のまま発見された彼の墓から有名な黄金のマスクを初めとした宝物が出土したために極めて有名な王である。しかしほとんど実績を残さず死亡したために彼についての歴史記録は十分とは言えず、家族関係や即位の経緯を含めて詳細は今なお不明な点が多い。
- ^ ダムハンズとは王妃を意味するエジプト語の単語を基にした名前であると考えられる。ヒッタイト側では実名であるととったらしい。ダムハンズは一説にはトゥトアンクアメンの王妃アンケセンアメンであるといわれているが、アクエンアテンの王妃ネフェルティティであるとする説も存在する。
出典
- 1 エジプト第18王朝とは
- 2 エジプト第18王朝の概要
- 3 歴史
- 4 歴代王
- 5 系図
- 6 脚注
第18王朝
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「カルナック神殿複合体の歴史」の記事における「第18王朝」の解説
神殿複合体の主な拡張は、第18王朝(紀元前1550-1295年頃)のうちになされた。アメンホテプ1世(紀元前1525-1504年頃)は聖舟祠堂や門を構築した。トトメス1世(紀元前1504-1492年頃)は中王国の神殿を囲む周壁を建築し、今もその場所に立っている神殿の最古の部分より構成される第4塔門と第5塔門をつないだ。それらは、後にトトメス3世(紀元前1479-1425年頃)によって建てられた壁により視界から隠された、14本のパピルス柱および2本のハトシェプスト(紀元前1473-1458年頃)のオベリスクを取り囲んだ。トトメス2世(紀元前1492-1479年頃)は神殿の前面に祝祭の中庭を配置し、それは後の構成により取り除かれたが、ブロックは第3塔門の中の埋め込みから回収されている。ハトシェプストとトトメス3世のもと、塔とともに強化された別の周壁が建てられ、隣接する聖池が構築あるいは拡張された。トトメス3世の治世中には、主神殿自体に Akh-menu と呼ばれる建物が追加され50%拡張された。これは通常「記念建造物のうち最も壮麗なもの」と訳されるが、別にも訳がある。ガーディナーのエジプト文法によると、akh という語は「壮麗」(英: glory)もしくは「祝福された/生きる聖霊」(英: blessed/living spirit)のどちらかの意味とすることができる(例えば、アクエンアテン〈Akhenaten〉はしばしば「アテンの生きる聖霊」〈英: "living spirit of Aten"〉と訳される)。従って、代わる訳は「生きる聖霊のための記念建造物」となる。それは現在トトメス3世祝祭殿(英語版) として知られ、完全に日除けおよび覆いの柱を備えた、反響する巨大な覆われた祠堂の表面には装飾が施されている。この神殿の、カルナック王名表(英語版)は、神殿複合体の一部を築いた何人かの以前の王とともにトトメス3世を示している。エジプトの首府がアケトアテンに移ったアマルナ時代における束の間の中断の後、ツタンカーメン(紀元前1336-1327年頃)やホルエムヘブ(紀元前1323-1295年頃)のもとカルナックにおいての建設が再開した。第9塔門は直ちに取り壊されたアケトアテンのタラタート(英語版)として知られる資材を用いて南軸沿いに建造された。
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第18王朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 22:35 UTC 版)
新王国時代、特に第18王朝における国家の根幹は、前述したように圧倒的な軍事力であった。特に、トトメス3世は王自身が錬成された軍隊を率いて精力的に親征に赴いた結果、史上最大の帝国を築き上げることになる。
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