居留民への措置
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関東軍と居留民には密接な関連があり、関東軍は居留民の措置について作戦立案上検討している。交通連絡線・生産・補給などに大きく関東軍に貢献していた開拓団は、およそ132万人と考えられていた。開戦の危険性が高まり、関東軍では居留民を内地へ移動させることが検討されたが、輸送のための船舶を用意することは事実上不可能であり、朝鮮半島に移動させるとしても、いずれ米ソ両軍の上陸によって戦場となるであろう朝鮮半島に送っても仕方がないと考えられ、また輸送に必要な食料も目途が立たなかった。それでも、関東軍総司令部兵站班長・山口敏寿中佐は、老幼婦女や開拓団を国境沿いの放棄地区から抵抗地区後方に引き上げさせることを総司令部第一課(作戦)に提議したが、第一課は居留民の引き上げにより関東軍の後退戦術がソ連側に暴露される可能性があり、ひいてはソ連進攻の誘い水になる恐れがあるとして、「対ソ静謐(せいひつ)保持」を理由に却下している。[要出典]一般には、満州の在留邦人全体で百数十万人で、満州開拓団は終戦時成年男子47,000人が根こそぎ動員で徴兵されていなくなり、高齢者・女性・児童中心に223,000人が残っていたとされる。 状況悪化にともない、満州開拓総局は開拓団に対する非常措置を地方に連絡していたが、多くの居留民、開拓団は悪化していく状況を深刻にとらえていなかったとされる。一方で、実際には8月12日に至っても(役場から)開拓団民側には通常の招集令状が届いていたとの証言もある。 また満州開拓総局長斉藤中将は開拓団を後退させないと決めていた。加えて事態が深刻化してから東京の中央省庁から在満居留民に対して後退についての考えが示されることもなかった。関東軍の任務として在外邦人保護は重要な任務であったが、「対ソ静謐保持」を理由に国境付近の開拓団を避難させることもなかった。[要出典] 防衛研修所戦史室 (現在の防衛省防衛研究所戦史部の前身)は、その『戦史叢書』で、ソ連侵攻時、引き揚げ命令が出ても、一部の開拓総局と開拓団が軍隊の後退守勢を理解せず、退避をよしとしなかったのだとする説を唱えている。その原因としては、当時の多くの開拓団と開拓総局の人々の、無敵と謳われた関東軍に対する過度の信頼と情報の不足を大きな要因だとする見解がある。対して、関東軍作戦参謀草地貞吾大佐は、戦後の回想録で「なぜ関東軍は居留民保護に兵力を出さなかったか、より速やかに後退したかと糺されれば、作戦任務の要請であったと答えるばかりである」と述べており、この発言は事実上関東軍には初めから居留民の退避に意を払うつもりがなかったことを示している。 8月9日ソ連軍との戦闘が始まると直ちに大本営に報告し、命令を待った。命令が下されたのは翌日10日で、10日9時40分に総参謀長統裁のもとに官民軍の関係者を集め、具体的な居留民待避の検討を開始した。同日18時に民・官・軍の順序で新京駅から列車を出すことを決定し、正午に官民の実行を要求した。しかし官民両方ともに14時になっても避難準備が行われることはなく、軍は1時間の無駄もできない状況を鑑みて、結局民・官・軍を順序とする避難の構想を破棄し、とにかく集まった順番で列車編成を組まざるを得なかった。第1列車が新京を出発したのは予定より大きく遅れた11日1時40分であり、その後総司令部は2時間毎の運行を予定し、大陸鉄道司令部に対して食料補給などの避難措置に必要な対策を指示した。現場では混乱が続き、故障・渋滞・遅滞・事故が続発したために避難措置は非常に困難を極めた。結果として最初に避難したのは、軍家族、満鉄関係者などとなり、暗黙として国境付近の居留民は置き去りにされた。[要出典]これについて、関東軍参謀の草地は民間人には連絡が行き届かず遅れたのだとも語っているが、当初は駅に軍人・軍属の家族ばかりが大量の運べるだけの荷物等を持って脱出していること、末端の町村役場などでいち早く住民連絡等の通知を受けたという証言や記録がないことから、軍関係者が自身らの家族・財産を優先的に逃すため、(関東軍がその後方支援業務に必要な軍属及び特定の政府職員とその家族にまで対象者が一部は及んだものの)意図的に一般邦人には秘密裏に進められ、彼らの脱出については無視ないし後回しにされたと見る向きも多い。例えば、僻地にあったのではないかと思われる変電所の家族に関し、そこの子供の証言として、10日には軍人にトラックに乗せられて出発し、証言中の日にちは不明確であるが平陽駅についてみると、軍属とその家族、女性・子供が集まっており、彼らや満州電々・満鉄関係者らとその家族とともに、3日がかりで15日に牡丹江駅に到着(したがって、証言が正しければ平陽駅出発については12日)したとするものがある。 これらに加えて辺境における居留民については、第一線の部隊もソ連軍進入が始まるとその対応のために救出や保護の余力がなく、ほとんどの辺境の居留民は無事に撤退することはできなかった。特に国境付近の居留民の多くは、「根こそぎ動員」によって戦闘力を失っており、死に物狂いでの逃避行のなかで戦ったが、侵攻してきたソ連軍や暴徒と化した満州民、匪賊などによる暴行・略奪・虐殺(葛根廟事件など)が相次ぎ、ソ連軍の包囲を受けて集団自決した事例や(麻山事件・佐渡開拓団跡事件)、各地に僅かに生き残っていた国境警察隊員・鉄路警護隊員の玉砕が多く発生した。弾薬処分時の爆発に避難民が巻き込まれる東安駅爆破事件も起きた。また第一線から逃れることができた居留民も飢餓・疾患・疲労で多くの人々が途上で生き別れ・脱落することとなり、収容所に送られ、孤児や満州人の妻となる人々も出た。 当時満州国の首都新京だけでも約14万人の日本人市民が居留していたが、8月11日未明から正午までに18本の列車が新京を後にし3万8000人が脱出した。3万8000人の内訳は 軍人関係家族 2万0310人 大使館関係家族 750人 満鉄関係家族 1万6700人 民間人家族 240人 この時、列車での軍人家族脱出組みの指揮を取ったのは関東軍総参謀長秦彦三郎夫人であり[要出典]、また、この一行の中にいた関東軍総司令官山田乙三夫人と供の者は平壌に向かい、さらに平壌からは飛行機を使い8月21日には無事日本に帰り着いている。 当時新京在住の藤原ていは戦後の著作で、現地で気象台にあたる役所に勤めていた夫が、9日夜ひっそりと役所に呼び出され、軍の家族はすでに移動しており、政府職員の家族もこれについで同じ行動をとることを告げられて、深夜の内に駅に集まるよう指示されて集まり、翌朝、同僚らの他、政府関係者とみられる者たちといち早く列車で脱出したことを記述している。当時、満州電々公社にいた草野辰男は国境近くの町にいたため、9日には自主的に他の公社員らとともに脱出しようとしていたが、同日夜には軍人や県公署員の家族は既にいなくなっていたと証言している。また、新京の満州電々公社にいた高橋数一は、10日は関東軍からの通達として1/3は従来業務を続け、1/3は現地防衛隊、1/3は戦闘部隊にそれぞれ招集する予定が伝えられたが、その後計画が変更され、11日になって、関東軍総司令部が通化に移ることに決まったので、軍支援業務をその地で行えるよう、満州電々関係者は翌日12日に移動するよう告げられたことを証言している。満州重工業開発株式会社総裁の高碕達之助も、11日に関東軍総司令部は通化に行くことになり既に移り出していること、後方支援に必要な民間事業の関係者もそれに続くよう指示されたこと、その他の民間人はそれぞれいずれかに疎開することになったこと、しかし、一般の人々の殆どがそれについては知らなかったことを証言している。また、高碕は、各地で在郷軍人の召集は続き、鉄嶺では14日に最後の召集があったことも証言している。 また、辺境に近い北部の牡丹江に居留していたなかにし礼は、避難しようとする民間人が牡丹江駅に殺到する中、軍人とその家族は、民間人の裏をかいて駅から数キロはなれた地点から特別列車を編成し脱出したと証言している。[要出典]12日のことになるが、牡丹江で満州電々に勤めていた山上卯吉はほとんど直前になって牡丹江西駅の軍用ホームに集まるよう伝えられ、取り残された同僚がいないか確認に廻るうちに、かなりの数の同僚とともに彼自身も置き去りにされたことを証言している。
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