居留民への措置とは? わかりやすく解説

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居留民への措置

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 17:13 UTC 版)

ソ連対日参戦」の記事における「居留民への措置」の解説

関東軍居留民には密接な関連があり、関東軍居留民措置について作戦立案検討している。交通連絡線生産・補給などに大きく関東軍貢献していた開拓団は、およそ132万人考えられていた。開戦危険性高まり関東軍では居留民内地移動させることが検討されたが、輸送のための船舶用意することは事実上不可能であり、朝鮮半島移動させるとしても、いずれ米ソ両軍の上陸によって戦場となるであろう朝鮮半島送って仕方がない考えられ、また輸送必要な食料目途が立たなかった。それでも、関東軍総司令部兵站班長山口敏寿中佐は、老幼婦女開拓団国境沿いの放棄地区から抵抗地区後方引き上げさせることを総司令部第一課作戦)に提議したが、第一課居留民引き上げにより関東軍後退戦術ソ連側暴露される可能性があり、ひいてはソ連進攻誘い水になる恐れがあるとして、「対ソ静謐せいひつ保持」を理由却下している。[要出典]一般には、満州在留邦人全体で百数十万人で、満州開拓団終戦時成年男子47,000人が根こそぎ動員徴兵されていなくなり高齢者・女性・児童中心に223,000人が残っていたとされる状況悪化にともない満州開拓総局開拓団対する非常措置地方連絡していたが、多く居留民開拓団悪化していく状況深刻にとらえていなかったとされる一方で実際に8月12日至っても(役場から)開拓団民側には通常の招集令状届いていたとの証言もある。 また満州開拓総局斉藤中将開拓団後退させない決めていた。加えて事態深刻化してから東京中央省庁から在満居留民に対して後退についての考え示されることもなかった。関東軍任務として在外邦人保護重要な任務であったが、「対ソ静謐保持」を理由国境付近開拓団避難させることもなかった。[要出典] 防衛研修所戦史室 (現在の防衛省防衛研究所戦史部の前身)は、その『戦史叢書』で、ソ連侵攻時、引き揚げ命令出ても、一部開拓総局開拓団軍隊後退守勢理解せず退避をよしとしなかったのだとする説を唱えている。その原因としては、当時多く開拓団開拓総局人々の、無敵謳われた関東軍対す過度信頼情報の不足大きな要因だとする見解がある。対して関東軍作戦参謀草地貞吾大佐は、戦後回想録で「なぜ関東軍居留民保護兵力を出さなかったか、より速やかに後退したかと糺されれば作戦任務要請であった答えるばかりである」と述べており、この発言事実上関東軍には初めから居留民退避に意を払うつもりがなかったことを示している。 8月9日ソ連軍との戦闘が始まると直ち大本営報告し命令待った命令下されたのは翌日10日で、10日9時40分に総参謀長統裁のもとに官民軍の関係者集め具体的な居留民待避検討開始した同日18時に民・官・軍順序新京駅から列車を出すことを決定し正午官民実行要求した。しかし官民両方ともに14時になっても避難準備が行われることはなく、軍は1時間の無駄もできない状況鑑みて結局民・官・軍順序とする避難構想破棄し、とにかく集まった順番列車編成を組まざるを得なかった。第1列車新京出発したのは予定より大きく遅れた11日1時40分であり、その後総司令部は2時間毎の運行予定し大陸鉄道司令部に対して食料補給などの避難措置必要な対策指示した現場で混乱続き故障渋滞遅滞事故続発したために避難措置は非常に困難を極めた結果として最初に避難したのは、軍家族満鉄関係者などとなり、暗黙として国境付近居留民置き去りにされた。[要出典]これについて、関東軍参謀草地民間人には連絡が行届かず遅れたのだとも語っているが、当初は駅に軍人・軍属家族ばかりが大量運べるだけの荷物等を持って脱出していること、末端町村役場などでいち早く住民連絡等の通知受けたという証言記録がないことから、軍関係者自身らの家族・財産優先的に逃すため、(関東軍その後支援業務必要な軍属及び特定の政府職員とその家族にまで対象者一部及んだものの)意図的に一般邦人には秘密裏進められ、彼らの脱出については無視ないし後回しにされたと見る向きも多い。例えば、僻地にあったではないか思われる変電所家族関し、そこの子供の証言として、10日には軍人にトラック乗せられ出発し証言中の日にち不明確であるが平陽駅についてみると、軍属とその家族女性・子供集まっており、彼らや満州電々・満鉄関係者らとその家族とともに3日がかりで15日牡丹江駅到着(したがって証言正しければ平陽駅出発については12日)したとするものがある。 これらに加えて辺境における居留民については、第一線部隊ソ連軍進入が始まるとその対応のために救出保護余力がなく、ほとんどの辺境の居留民無事に撤退することはできなかった。特に国境付近居留民多くは、「根こそぎ動員」によって戦闘力失っており、死に物狂いでの逃避行のなかで戦ったが、侵攻してきたソ連軍暴徒化した満州民、匪賊などによる暴行略奪虐殺葛根廟事件など)が相次ぎソ連軍包囲受けて集団自決した事例や(麻山事件佐渡開拓団跡事件)、各地僅かに生き残っていた国境警察隊員鉄路警護隊員玉砕多く発生した弾薬処分時の爆発避難民巻き込まれる東安駅爆破事件起きた。また第一線から逃れることができた居留民飢餓疾患疲労多く人々途上生き別れ脱落することとなり、収容所送られ孤児満州人の妻となる人々出た当時満州国首都新京だけでも約14万人日本人市民居留していたが、8月11日未明から正午までに18本の列車新京を後にし38000人が脱出した。38000人の内訳軍人関係家族 20310人 大使館関係家族 750満鉄関係家族 1万6700人 民間人家族 240人 この時、列車での軍人家族脱出組み指揮取ったのは関東軍総参謀長秦彦三郎夫人であり[要出典]、また、この一行中にいた関東軍総司令官山田乙三夫人と供の者は平壌向かい、さらに平壌からは飛行機使い8月21日には無事日本に帰り着いている。 当時新京在住藤原てい戦後著作で、現地気象台にあたる役所勤めていた夫が、9日夜ひっそりと役所呼び出され、軍の家族はすでに移動しており、政府職員の家族もこれについで同じ行動をとることを告げられて、深夜の内に駅に集まるよう指示され集まり翌朝同僚らの他、政府関係者とみられる者たちといち早く列車脱出したことを記述している。当時満州電々公社にいた草野辰男は国境近くの町にいたため、9日には自主的に他の公社員らとともに脱出しようとしていたが、同日夜に軍人や県公署員の家族は既にいなくなっていたと証言している。また、新京満州電々公社にいた高橋数一は、10日関東軍からの通達として1/3は従来業務続け、1/3は現地防衛隊、1/3は戦闘部隊それぞれ招集する予定伝えられたが、その後計画変更され11日になって関東軍総司令部通化に移ることに決まったので、軍支援業務をその地で行えるよう、満州電々関係者翌日12日移動するよう告げられたことを証言している。満州重工業開発株式会社総裁高碕達之助も、11日関東軍総司令部通化に行くことになり既に移り出していること、後方支援必要な民間事業関係者もそれに続くよう指示されたこと、その他の民間人それぞれいずれかに疎開することになったこと、しかし、一般の人々の殆どがそれについては知らなかったことを証言している。また、高碕は、各地在郷軍人召集続き鉄嶺では14日最後召集があったことも証言している。 また、辺境に近い北部牡丹江居留していたなかにし礼は、避難しようとする民間人牡丹江駅殺到する中、軍人とその家族は、民間人の裏をかいて駅から数キロはなれた地点から特別列車編成し脱出した証言している。[要出典]12日のことになるが、牡丹江満州電々に勤めていた山上卯吉はほとんど直前になって牡丹江西駅軍用ホームに集まるよう伝えられ取り残され同僚がいないか確認廻るうちに、かなりの数の同僚とともに自身置き去りにされたことを証言している。

※この「居留民への措置」の解説は、「ソ連対日参戦」の解説の一部です。
「居留民への措置」を含む「ソ連対日参戦」の記事については、「ソ連対日参戦」の概要を参照ください。

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