同一人物説
同一人物説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/18 02:53 UTC 版)
大蔵庄左衛門(能楽師・仙台伊達藩金春大蔵流の創始者) 服部家が猿楽も関係する伊賀忍者と関わりの深い氏族である事や、大蔵流の家であり金春家の血を引く大久保長安の長女を正重が娶った事から、同じく「長安の女子」を後妻とした能楽師・大蔵庄左衛門を服部正重と同一人物であるとする説がある。服部正重の義父である大久保長安は元の名を大蔵藤十郎秦長安といい、猿楽・能楽の家系である金春家の流れを組む大蔵流大蔵大夫家の血筋であった。長安の祖先である大蔵大夫の元祖、大蔵十郎秦信喜(道加)は金春禅竹と世阿弥女子の子の一人である。その大蔵流の能楽師の中に、長安の娘を後妻に迎えたという「大蔵正左衛門信広(休岸)」という人物が存在する。長安の系図中に広く確認される女子は服部正重の妻となった長女・美香と、武田家旧臣・三井十郎左衛門吉正(あるいは吉正の嫡男)の妻であり徳川家康の側室となるお牟須の方を産んだ次女・楓の二人であり、離縁・再嫁や庶子等の記録はあまり見られない。正重の祖先は伊賀発祥の服部氏族である。「世子六十以後申楽談儀」「四座役者目録」、現在も論争中であるが「上嶋家文書(観世系図、観世福田系図)」「播州永富家文書」等に金春家の縁戚にあたる世阿弥の父・観阿弥が服部氏族の出身である等の記述がみられる事、藤堂藩能奉行を務めた上嶋氏と服部氏に縁戚関係がある事、また伊賀忍者の隠形術(七方出)に猿楽師の変装も含まれる等の理由から、服部氏族出身であり長安の女子を娶った正重について「大蔵信広・休岸という名は長安に師事した正重の能の芸名である」という説がしばしば唱えられた。 しかし、この大蔵正左衛門(または庄左衛門)は金春禅竹の子孫である金春禅曲の三男であり、兄弟には金春流の家元を継いだ金春七郎秦氏勝(清本)と尾張徳川家に仕えた庶子の金春八左衛門(安喜)がいる。庄左衛門の元の名は金春氏紀(喜寿・権兵衛安信)で、号を休岸といった。大久保長安の父であり大蔵大夫であった大蔵信安もまた金春家の血筋であり、元の名を金春喜然といった。しかし、長安は能楽師よりも武士としての成功を望んだため大蔵大夫を継がず、兄の土屋新之丞も長篠の合戦で戦死してしまった。このため、能楽の家としての大蔵大夫家は存続の危機にさらされていた。大蔵家には長安の大蔵大夫家の他、小鼓方である大蔵道違(道意・道伊)、太鼓方である大蔵道智(道知)の家があった。ある時、長安の従兄弟であり太鼓方の名手である大蔵道喜(大蔵平蔵)が事故で死に、一人娘が取り残された。このため長安はこの女子を養女とし、金春禅曲の三男であった金春氏紀を養子に迎えて二人に祝言を上げさせた。これにより金春氏紀は名を大蔵庄左衛門信広と改め、能楽の家である大蔵大夫家を継ぐ事となった。1604年(慶長8年)頃には、庄左衛門はすでに大蔵大夫家を継いでいたとみられる。この後、庄左衛門は仙台伊達藩にて独自の流派である「金春大蔵流」の創始者となり、休岸と名乗った。庄左衛門と長安の養女(大蔵道喜女子)との間には男子のほか女子も生まれ、狂言大蔵流の大藏栄虎(弥衛門)の妻となったという。また、庄左衛門の能の技は孫である大蔵経喜(経寿、常休)に受け継がれ、経喜は1678年(延宝6年)庄左衛門から相伝された能の型を「萬能鏡」に記した。これらの記録や史料から、服部正重と大蔵庄左衛門休岸は別人であると考えられる。 松尾芭蕉、弟子の河合曾良(俳諧師) 「おくのほそ道」を記した俳聖・松尾芭蕉の故郷が伊賀である事や、俳諧の旅において全国の関所を通過できた事、危険な全国行脚を安全に完遂できた事、一日あたりの移動距離が長い等の理由から、「芭蕉と曾良は忍者あるいは服部半蔵であった」という説がしばしば唱えられる。しかし、芭蕉の家系は伊賀の有力国人であり柘植三方の一氏である福地氏流松尾氏であり、服部半蔵家とは出自が異なる。芭蕉の弟子である曾良も信濃国高島城下の下桑原村(現長野県諏訪市)で高野七兵衛の長男として出生しており、服部半蔵家と関わりが薄い。また、芭蕉は1644年(寛永21年/正保元年)出生、曾良は1649年(慶安2年)出生であり、この時四代目服部半蔵であった正重及び次代となる長男正吉らは存命中であった。このため、松尾芭蕉及び曾良と服部半蔵は別人であると考えられる。
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