同一人物説と別人説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 03:51 UTC 版)
池尻殿という一致した呼称から、当初日野資康の室であり、康子・重光・豊光らを産み、元中7年/明徳元年(1390年)に資康が死去すると、康子の生母である縁を利用して義満に近づきその側室となった考える説がある一方、池尻殿が男子を産んだ応永10年には、日野康子は35歳に達しており、50歳を超えるであろうその母が子を産むことは不可能と思われることから、別人と考える説もある。 ただ、池尻殿の産んだ男子虎山永隆は、日野重光に養育されており、日野家との縁が深かったことが窺える。
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