六朝書道論とは? わかりやすく解説

六朝書道論

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/18 13:37 UTC 版)

日本の書論」の記事における「六朝書道論」の解説

六朝書道論(りくちょうしょどうろん、1巻1914年井土霊山中村不折共訳)は、『広芸舟双』の訳本で、大正3年1914年2月刊行された。日本の書を一変させた六朝書道体系的な論拠与えるものとして、当時熱狂的に迎えられた。さらに中村不折による序文理論的に過去の書を否定する革新的なものであり、このようなことは日本の書の歴史において六朝書道出現までなかったことである。また本書付録として「六名家書談」が収められ当時日本能書家として知られる6名(中林梧竹中根半嶺・日下部鳴鶴前田黙鳳内藤湖南犬養木堂)が江戸から明治にかけて日本の書の変貌、また中国書風変遷について説いている。 序文抜粋) 「空海・道風の書、妙は則ち妙なり、神は則ち神也、然れども之れを細観し来る時は唯唐書盲従者たるに過ぎずして、唐代の書を溯源的に解釈して之れを崇拝したるものにあらざるが如し。」 「空海・道風の崇拝時代には唐碑以外は殆ど見る所なく又知る所なく、六朝書の如き数々翻刻せる黄庭経楽毅論等を目覩したるに過ぎざるものの如し今や然らず、漢魏六朝碑を合して四百種を観得るのみならず近来敦煌に於て発掘せられたる幾多の墨宝は実に漢碑六朝肉筆其物にあらずや、之れを唐碑の重刻屢翻のものに比し来らば霄壤も啻ならざるの感あらん。美術家最後叫びは『自然に帰れ』の一語在り、余は思ふ書道に於て漢魏六朝碑に向って所謂る自然の尋ぬべきもの多々なるを。」 六名家書談 書の奥義中林梧竹著)は、臨模された書を習っても書の奥深い意味は悟れないと蘭亭序を例に説いている。要約すると、「蘭亭序今世に伝わるものとして欧陽詢褚遂良臨書があるが、欧陽詢のはその骨があってその肉がない、褚遂良のはその肉があってその骨がない、いずれも王羲之真面目を写したものとはいえない。蘭亭構えた山陰風物もなく、王羲之感懐なくして臨模でもって蘭亭序真面目を写そうとするのは容易にできないはずだ。臨模してその真面目を得難いのは、書が心画であるということほかならない。私は蘭亭序を何百回臨書したか数知れぬが、満足を感じたとがない。」 明治以前書風中根半嶺著)は、天保嘉永中心とする幕末における書道概観述べている。要約すると、「この頃書道界江戸市河米庵巻菱湖2人天下であり、関西貫名海屋という大立者がいたが江戸ではあまり知られていなかった。当時一般書風上代遺風受けた御家流であったが、米庵菱湖によって唐様文字御家流対抗して頭角あらわしてきた。特に米庵人気素晴らしく菱湖の方は余り華々しくなかったが、菱湖米庵没後菱湖が行われるようになった。」 明治年代書風日下部鳴鶴著)は、明治期の書の変遷概観記している。この要約日本の書道史明治時代概観記している。田宮文平は、「この鳴の説に、岸田吟香円山大迂秋山探淵らを介して徐三庚をとり入れた西川春洞加えれば今日の書壇への人脈影響おおよそつくされる。」と述べている。 書風側面観前田黙鳳著)は、明治年間御家流から菱湖流、そして六朝書風へと激変した様子述べている。要約すると、「維新前徳川幕府時代は、尊円法親王末流御家流天下支配し公用文はすべてこの書体なければ一切通用しなかった。しかし王政維新新進気鋭なる興国民心には、平穏無事な徳川時代発達した無気無力な御家流書風不向きのものとなった。そして御家流廃滅し、この後流行したのが菱湖書風である。これが明治時代書風の大激変であった忽ち菱湖書風一世を風靡するが、この書体をよく見ると白湯のごとくなんら妙味もないもので、少し眼識のある人には物足りない感があったに相違ないここにおいて趙孟頫董其昌顔真卿柳公権などの筆意研究するようになってきたが、丁度この頃楊守敬来朝となり、初め日本人六朝書に触れたであった。また一方で中林梧竹六朝精粋もたらして清国から帰朝し、これ以降六朝書風菱湖その他の書風を一掃した。これまた書道における明治の大激変であった。」 支那書風変遷内藤湖南著)は、中国において旧来の相伝重んじる作意書法その後率意書法との相違点現在の南派(帖学)・北派(碑学)の分派至った論じている。要約すると、「清の道光の頃から書道南北の両派が顕われ、阮元の『南北書派論』・『北碑南帖論』、包世臣『芸舟双楫』康有為の『広芸舟双』によってますます北派書論気勢加えた。この近代における中国書風の変遷兆候は明の中頃からすで見える。明の初年頃までの書法相伝重んじ後漢蔡邕から明の文徴明などに至るまでは一定の法則があった。しかし、明の祝允明などからは大きな変化現れる。この相違点旧来の作意書法から率意書法が行われたことにあり、作意書法では努めて自家の癖を没却して古来の法に近づこうとし、率意書法では自然に現れてくるところの癖を利用して各々その特色発揮することを主とする。そして作意率意の2派が明らかに分かれて率意派が年々増長してきた。帖学というのは法帖によって字を稽古するが、この帖学つまり南派大成させた劉石庵作意の点に重きを置いた南派その後これよりほか一頭地出だす余地なくなり、これが近代北派書法喚起した主な原因であると思う。」 局外観(犬養木堂著)は、当時流行六朝書が日本書界魔道に陥れはしまいかと憂慮している。要約すると、「中国近世六朝派の名家といわれる人々を見ると、何れも十分運筆鍛錬した上で初め六朝に入るものであり、百家出入して自家の法門開いている。しかし、もしこれを怠りみだりに六朝を学ぶならば終生魔道彷徨して悟道の日はないと心得るべきである。書に魔道があるのは今日限ったことではない。市河米庵筆画整斉のみを以て書の極致考え巻菱湖は字の骨法のみに重きを置いたいずれも魔道である。中林梧竹晩年の書は悟入の書といって良いと思う。」

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