六朝書道論
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六朝書道論(りくちょうしょどうろん、1巻、1914年、井土霊山・中村不折共訳)は、『広芸舟双楫』の訳本で、大正3年(1914年)2月に刊行された。日本の書を一変させた六朝書道に体系的な論拠を与えるものとして、当時、熱狂的に迎えられた。さらに中村不折による序文は理論的に過去の書を否定する革新的なものであり、このようなことは日本の書の歴史において六朝書道の出現までなかったことである。また本書の付録として「六名家書談」が収められ、当時の日本の能書家として知られる6名(中林梧竹・中根半嶺・日下部鳴鶴・前田黙鳳・内藤湖南・犬養木堂)が江戸から明治にかけての日本の書の変貌、また中国の書風の変遷について説いている。 序文(抜粋) 「空海・道風の書、妙は則ち妙なり、神は則ち神也、然れども之れを細観し来る時は唯唐書の盲従者たるに過ぎずして、唐代の書を溯源的に解釈して之れを崇拝したるものにあらざるが如し。」 「空海・道風の崇拝時代には唐碑以外は殆ど見る所なく又知る所なく、六朝書の如きは数々翻刻せる黄庭経・楽毅論等を目覩したるに過ぎざるものの如し。今や然らず、漢魏六朝碑を合して四百種を観得るのみならず、近来敦煌に於て発掘せられたる幾多の墨宝は実に漢碑六朝の肉筆其物にあらずや、之れを唐碑の重刻屢翻のものに比し来らば霄壤も啻ならざるの感あらん。美術家の最後の叫びは『自然に帰れ』の一語に在り、余は思ふ、書道に於て漢魏六朝碑に向って所謂る自然の尋ぬべきもの多々なるを。」 六名家書談 書の奥義(中林梧竹著)は、臨模された書を習っても書の奥深い意味は悟れないと蘭亭序を例に説いている。要約すると、「蘭亭序の今世に伝わるものとして欧陽詢と褚遂良の臨書があるが、欧陽詢のはその骨があってその肉がない、褚遂良のはその肉があってその骨がない、いずれも王羲之の真面目を写したものとはいえない。蘭亭を構えた山陰の風物もなく、王羲之の感懐もなくして臨模でもって蘭亭序の真面目を写そうとするのは容易にはできないはずだ。臨模してその真面目を得難いのは、書が心画であるということにほかならない。私は蘭亭序を何百回臨書したか数知れぬが、満足を感じたことがない。」 明治以前の書風(中根半嶺著)は、天保嘉永を中心とする幕末における書道の概観を述べている。要約すると、「この頃の書道界は江戸の市河米庵・巻菱湖2人の天下であり、関西に貫名海屋という大立者がいたが江戸ではあまり知られていなかった。当時の一般の書風は上代の遺風を受けた御家流であったが、米庵・菱湖によって唐様文字が御家流に対抗して頭角をあらわしてきた。特に米庵の人気は素晴らしく、菱湖の方は余り華々しくなかったが、菱湖・米庵の没後は菱湖風が行われるようになった。」 明治年代の書風(日下部鳴鶴著)は、明治期の書の変遷の概観を記している。この要約は日本の書道史の明治時代概観に記している。田宮文平は、「この鳴鶴の説に、岸田吟香、円山大迂、秋山探淵らを介して徐三庚をとり入れた西川春洞を加えれば、今日の書壇への人脈的影響のおおよそはつくされる。」と述べている。 書風の側面観(前田黙鳳著)は、明治年間に御家流から菱湖流、そして六朝の書風へと激変した様子を述べている。要約すると、「維新前の徳川幕府時代は、尊円法親王の末流の御家流が天下を支配し、公用文はすべてこの書体でなければ一切通用しなかった。しかし王政維新の新進気鋭なる興国の民心には、平穏無事な徳川時代に発達した無気無力な御家流の書風は不向きのものとなった。そして御家流が廃滅し、この後に流行したのが菱湖の書風である。これが明治時代書風の大激変であった。忽ち菱湖の書風は一世を風靡するが、この書体をよく見ると白湯のごとくなんら妙味もないもので、少し眼識のある人には物足りない感があったに相違ない。ここにおいて趙孟頫・董其昌・顔真卿・柳公権などの筆意を研究するようになってきたが、丁度この頃楊守敬の来朝となり、初めて日本人が六朝書に触れたのであった。また一方では中林梧竹が六朝の精粋をもたらして清国から帰朝し、これ以降、六朝の書風が菱湖やその他の書風を一掃した。これまた書道における明治の大激変であった。」 支那書風の変遷(内藤湖南著)は、中国において旧来の相伝を重んじる作意の書法とその後の率意の書法との相違点が現在の南派(帖学)・北派(碑学)の分派に至ったと論じている。要約すると、「清の道光の頃から書道に南北の両派が顕われ、阮元の『南北書派論』・『北碑南帖論』、包世臣の『芸舟双楫』、康有為の『広芸舟双楫』によってますます北派の書論に気勢を加えた。この近代における中国書風の変遷の兆候は明の中頃からすでに見える。明の初年頃までの書法は相伝を重んじ、後漢の蔡邕から明の文徴明などに至るまでは一定の法則があった。しかし、明の祝允明などからは大きな変化が現れる。この相違点は旧来の作意の書法から率意の書法が行われたことにあり、作意の書法では努めて自家の癖を没却して古来の法に近づこうとし、率意の書法では自然に現れてくるところの癖を利用して各々その特色を発揮することを主とする。そして作意・率意の2派が明らかに分かれて率意派が年々増長してきた。帖学というのは法帖によって字を稽古するが、この帖学つまり南派を大成させた劉石庵は作意の点に重きを置いた。南派はその後これよりほかに一頭地を出だす余地がなくなり、これが近代の北派の書法を喚起した主な原因であると思う。」 局外観(犬養木堂著)は、当時流行の六朝書が日本の書界を魔道に陥れはしまいかと憂慮している。要約すると、「中国で近世六朝派の名家といわれる人々を見ると、何れも十分運筆を鍛錬した上で初めて六朝に入るものであり、百家に出入して自家の法門を開いている。しかし、もしこれを怠り、みだりに六朝を学ぶならば終生魔道に彷徨して悟道の日はないと心得るべきである。書に魔道があるのは今日に限ったことではない。市河米庵は筆画の整斉のみを以て書の極致と考え、巻菱湖は字の骨法のみに重きを置いた。いずれも魔道である。中林梧竹の晩年の書は悟入の書といっても良いと思う。」
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