六朝書道
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楊守敬の渡来とその影響 1880年(明治13年)4月、楊守敬は清国駐日公使何如璋の招きで漢魏六朝の碑帖1万3,000点を携えて来日し、4年間在留した。この出来事は、それまで貧弱な版本を頼りに研究するより他に方法のなかった日本の書道界に大きな影響を与え、特に漢碑や北碑に注目が集まった。奈良時代以降、日本の書は晋唐・宋・元・明清の書を典拠にしてきており、漢碑や北碑は日下部鳴鶴らの目に新奇なものとして映った。そして巖谷一六・松田雪柯・日下部鳴鶴の3人は、ほとんど日課同様に楊守敬を訪ね書法を問い、これが六朝書道流行の発端となった。こののち、日本人の渡清が相次ぐ。1882年(明治15年)中林梧竹が余元眉(よげんび、長崎の清国理事府理事官)とともに渡清し、余元眉の師潘存(はんそん、楊守敬の師でもある)を訪れ、書法の研究に従事した。帰朝後、長崎方面で六朝派の書風を鼓吹し、その後、東上して日下部鳴鶴らと交流したが、楊守敬の説とは往々見解が異なっていた。しかし、この梧竹の留学は楊守敬の来朝とともに六朝風勃興の最大原因となったのである。続いて1891年(明治24年)鳴鶴が渡清し、兪樾、楊峴、呉大澂などの大家を尋ねた。 徐三庚の影響 北方心泉は1877年(明治10年)7月、東本願寺の命により布教のために渡清した。その後も数度渡航し、兪樾と交わるが、当時の大家徐三庚をもっともよく学んだと言われる。岸田吟香(実業家)と円山大迂(篆刻家)は1879年(明治12年)ごろ、吟香が上海に開いた商業上の関係を機縁として徐三庚に親近し教えを受けた。秋山碧城(探淵、白巌ともいう)は1886年(明治19年)渡清し、徐三庚のもとで永年学び、師の書風を伝えている。西川春洞は日本で秋山碧城が清国から持ち帰った徐三庚の書を学び、徐三庚へ傾倒した。当時は通常、楷書・行書・草書を学ぶまでであったが、春洞は書域を隷書・篆書まで広げた。 帖学派と碑学派 このように明治に入って清人の碑学派との交流により、北碑の書などを中心にこの碑学派に走る新しい思潮が生まれたが、これに同調しない動きもあった。成瀬大域、長三洲、日高梅溪、吉田晩稼、金井金洞などは伝統的な書を守ろうとし、唐の顔真卿の書法(顔法)を主張した。そして長三洲の門弟の日高梅溪が国定習字教科書の執筆者となったことから、この時代の教科書の書風は顔法になっている。このような保守派と革新派との対立は、ちょうど清国の帖学派と碑学派に酷似している。
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