六朝書道とは? わかりやすく解説

六朝書道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/18 13:37 UTC 版)

日本の書道史」の記事における「六朝書道」の解説

楊守敬渡来その影響 1880年明治13年4月楊守敬清国駐日公使何如璋招きで漢魏六朝碑帖1万3,000点を携えて来日し4年在留した。この出来事は、それまで貧弱な版本頼り研究するより他に方法のなかった日本の書道界大きな影響与え、特に漢碑や北碑注目集まった奈良時代以降日本の書は晋唐・宋元・明清の書を典拠にしてきており、漢碑や北碑日下部鳴鶴らの目に新奇なものとして映った。そして巖谷一六松田雪柯日下部鳴鶴の3人は、ほとんど日課同様に楊守敬訪ね書法問い、これが六朝書道流行発端となったこののち日本人の渡清が相次ぐ1882年明治15年中林梧竹余元眉(よげんび、長崎清国理事理事官とともに清し余元眉の師潘存(はんそん楊守敬の師でもある)を訪れ書法研究従事した帰朝後長崎方面六朝派の書風鼓吹しその後東上し日下部鳴鶴らと交流したが、楊守敬の説とは往々見解異なっていた。しかし、この梧竹の留学楊守敬来朝とともに六朝勃興最大原因となったのである続いて1891年明治24年)鳴が渡清し兪樾、楊峴、呉大澂などの大家尋ねた徐三庚影響 北方心泉1877年明治10年7月東本願寺の命により布教のために渡清した。その後数度渡航し兪樾と交わるが、当時大家徐三庚をもっともよく学んだと言われる岸田吟香実業家)と円山大迂篆刻家)は1879年明治12年)ごろ、吟香上海開いた商業上の関係を機縁として徐三庚親近教え受けた秋山碧城(探淵、白巌ともいう)は1886年明治19年)渡清し徐三庚のもとで永年学び、師の書風伝えている。西川春洞日本秋山碧城清国から持ち帰った徐三庚の書を学び徐三庚傾倒した当時通常楷書・行書・草書を学ぶまでであったが、春洞は書域を隷書篆書まで広げた帖学派碑学派 このように明治入って清人碑学派との交流により、北碑の書などを中心にこの碑学派に走る新し思潮生まれたが、これに同調しない動きもあった。成瀬大域長三洲日高梅溪吉田晩稼金井金洞などは伝統的な書を守ろうとし、唐の顔真卿書法(顔法)を主張した。そして長三洲門弟日高梅溪国定習字教科書執筆者となったことから、この時代教科書書風は顔法になっているこのような保守派革新派との対立は、ちょうど清国帖学派碑学派酷似している。

※この「六朝書道」の解説は、「日本の書道史」の解説の一部です。
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