プロ野球との関わり
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プロ野球では巨人ファンであり、球場で観戦したこともある。 1957年3月30日、セントラル・リーグ開幕戦の一つである巨人対国鉄戦では始球式をおこなっている。現職の内閣総理大臣でプロ野球公式戦の始球式をおこなったのは2021年現在岸のみである。 1969年、大映社長の永田雅一から当時経営難に陥っていたプロ野球球団・東京オリオンズ(現:千葉ロッテマリーンズ)の支援を要請され、岸は親交があったロッテ社長の重光武雄に依頼。ロッテはオリオンズ球団と業務提携を結び、球団名を「ロッテオリオンズ」に改称。ロッテの球界参入への後押しに貢献した。
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プロ野球との関わり
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1947年末、アメリカ視察旅行から帰国した永田は大映作品のアメリカ市場進出のためには、自らがアメリカにおいても名の通った存在でなくてはならないことを痛感。当時、アメリカで尊敬される名誉職の一つがプロ野球オーナーであり、また元々野球好きであったことから、永田もプロ野球チームを持つことを決意する。これを永田に吹き込んだのは、永田と夫人同志が姉妹だった側近の武田和義。1948年中日ドラゴンズの赤嶺昌志球団代表を慕っていた選手(赤嶺一派)が脱退し、いくところがなく赤嶺と小林次男(横沢三郎の兄)が小西得郎に話を持ち込み、小林、小西の仲介で赤嶺一派と大映球団を組織した。小西の証言では、永田は川口松太郎を通じて小西に会い、小西の仲介で永田のメインブレイン・大麻唯男を間に入れて、赤嶺昌志と永田を繋げたと話している。間もなく、国民野球連盟に所属していた大塚幸之助経営の大塚アスレチックスを買収。この大塚幸之助は後に金星スターズのオーナーとなり、本業の洋傘製造業者・大塚製作所が倒産した後も、永田のブレーンであり続けた。 1948年1月、東急フライヤーズと合同して急映フライヤーズを名乗るが、同年12月、別途金星スターズを買収して大映スターズを結成。以降、本来は副業として球団経営に携わっていたのが次第にプロ野球も本業となり、ついに1953年(昭和28年)パシフィック・リーグ(パ・リーグ)の総裁に就任。高橋ユニオンズの結成による8球団制の採用や、その高橋と大映の合併を契機とする6球団制への再編成と、いずれも球界再編成の主役となった。 その後、大映は1957年に高橋を吸収合併し、大映ユニオンズになった。リーグ総裁の永田は当時の7チームでは日程が組みにくいとして、この年に最下位となったチームを消滅させようと提唱したが、結局自身がオーナーであった大映ユニオンズが最下位となった。大映ユニオンズは、1958年から毎日オリオンズと対等合併して、大毎オリオンズとなった。この時は形式上毎日新聞社との共同経営ではあったが、法人格と各種記録は毎日が存続しつつも、経営面では大映が存続した形の逆さ合併だったため、大映側の永田がオーナーに就任し「大毎」のネーミングも自ら付けた。その2年後の1960年、大毎がパ・リーグを制し、日本シリーズで三原脩が監督の大洋ホエールズと対戦したとき、采配を巡って監督の西本幸雄と意見が衝突。前評判に反し大毎はストレート負けを喫したため、西本と電話で口論となり、永田が「バカヤロー」と言ったことをきっかけに西本は退任した(詳細は西本幸雄#大毎監督辞任を参照)。このシーズン終了後に毎日新聞社より全面的に球団経営を移譲され、名実共にオーナーとなる。 「永田ラッパ」はここでも高らかに吹き鳴らされる。自らの映画会社のスターと同じ名前だからと「長谷川一夫」という名の選手を入団させたり、短距離走選手としてオリンピック出場経験のある飯島秀雄を代走専門選手として採用したりした。だが、長谷川が(入団当初の投手ではなく野手として)一定の成績を収めたことと、小山正明と山内一弘の「世紀のトレード」を実現させた実績はあったものの総じてチーム強化に大きく結びついたとは言い難く、あわせてベンチに電話をかけ監督の濃人渉に選手交代を指示するなど現場への介入も多かったため、批判も受けた。一方、時には市川雷蔵などの大映のスターたちを連れながら足しげく観戦に訪れる永田はファンから愛され、オリオンズが勝った試合後に永田の出待ちをし、永田の姿が見えると拍手を送るファンもいた。また、東京スタジアム(後述)のオーナー室に作った神棚にチームに向けてのお祈りを欠かさなかったなど、選手を思う気持ちも並々ならぬものがあった。成田文男は「あの人ぐらいぼくらのことを思ってくれている人はいないと思う」と語っている。 1962年には私財を投じて東京都荒川区南千住にプロ野球専用球場・東京スタジアムを建設、その開場セレモニーでは観客に対し「今後この日本の代表的球場を愛されんことをお願い致します」と語りかけた。しかしその後、東京球場はチームの不調も重なり不入りで不採算が続き、読売ジャイアンツ(巨人、セントラル・リーグ所属の球団)のオーナー・正力松太郎がこの事態を見かねて「巨人にも東京スタジアムを使わせてほしい」と救いの手を差し伸べたものの、永田は「セ・リーグ、とりわけ巨人の世話になるのは御免だ」と、これを頑なに拒んだ(開場以来、東京近辺に本拠地を置くセ・リーグ球団のうち国鉄スワローズと大洋(本拠地は川崎市)には東京スタジアムでの主催試合の開催を許可していたが、巨人には最後まで許可を出さなかった)。しかし現在、観客の入退場に対する利便性を図った設計や、当時の後楽園球場にも劣らなかった各種設備などにおいて、東京スタジアムの先駆性は再評価されている。 1969年、遂に経営難で盟友・岸信介の仲介によりロッテをスポンサーに付けたロッテオリオンズが、翌1970年10月7日の西鉄戦、パ・リーグ優勝を東京スタジアムで決めたとき、永田はグラウンドに乱入した観客達の手により、「永田さんおめでとう」の喝采と共に優勝監督の濃人や殊勲選手よりも前に胴上げされ、永田は号泣しながら宙を舞った(その後も観客達は選手を片端から胴上げして回った)。しかしその歓喜の瞬間からわずか3か月後の1971年1月、大映の経営再建に専念するため、球団を正式にロッテへ譲渡、同時にオーナー職を中村長芳に譲ることとなった。無念のうちに球界を去ることになった永田は記者会見で以下のように語った。 魂はロッテ・オリオンズの選手の上にあり。成田、木樽、山崎、有藤……。たとえユニフォームのマークは変わっても、選手の魂とわたしの魂はいつもいっしょだよ。小山よ、未練で言うんじゃない、是が非でも巨人を破って日本一になってくれ。目の中に入れても痛くないオリオンズを、選手たちを人手に渡すのは…… ここまで語った永田は言葉を失い号泣した。 永田が球界を去った3年後の1974年、ロッテはパ・リーグを制し、中日ドラゴンズとの日本シリーズに臨んだ。ロッテのホーム初戦となる第3戦、後楽園球場のスタンドに、選手や球団に招きに応じ、永田が姿を現した。永田が野球場に足を踏み入れたのは、ロッテのオーナー職を退いて以来初めてのことであった。グラウンドには永田時代を知るロッテ選手だけでなく、中日側にも与那嶺要、近藤貞雄といったオリオンズ在籍経験のある者(指導者)たちが姿を見せていた。永田はその光景を見て「まるで息子たちが試合をしているような気がする」とつぶやいたという。ロッテはシリーズを4勝2敗で制し、日本一を達成した。なお、前述の記者会見で名前の挙がった小山は、前年の1973年に大洋ホエールズに移籍し、同年限りで引退した後、古巣・阪神タイガースのコーチに就任していた。 1985年10月24日、急性肺炎のため死去した。享年79。1988年、野球殿堂入りを果たした。
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プロ野球との関わり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 06:05 UTC 版)
手塚治虫はプロ野球と関係が深く、特に「アトムズ(現:東京ヤクルトスワローズ)」と「埼玉西武ライオンズ」に繋がりがある。 現在の東京ヤクルトスワローズは「国鉄スワローズ」という名前で誕生し、1965年に運営団体が当時のフジテレビ社長水野成夫の意向でフジサンケイグループに買収され、「サンケイスワローズ」と変わった。1966年、『鉄腕アトム』がフジサンケイグループに属するフジテレビの看板番組となっていたことと、サンケイ新聞に鉄腕アトムを連載していたことから、名前を変え鉄腕アトムをマスコットキャラクターにした「サンケイアトムズ」が誕生した。「サンケイアトムズ」は1969年に「アトムズ」に変わり、経営権がヤクルト本社に移ると「ヤクルトアトムズ」へと変わった。「ヤクルトアトムズ」は現在の「ヤクルトスワローズ」の直接の前身である。 また、「埼玉西武ライオンズ」も手塚と繋がりがある。1978年、クラウンライターライオンズが西武グループに買収され西武ライオンズ(2008年、埼玉西武ライオンズに改名)となった際には、『ジャングル大帝』の主人公・レオがマスコットに採用され、2008年までユニフォームの帽子もレオをデザインしたものが使われていた(それ以降も時折復刻ユニフォームでの試合で着用されている)。ただし、手塚は球団の堤義明オーナーから「大人になった姿のレオ」と指定されたことから父親の「パンジャ」がモデルであるとしている。また、オリジナルキャラクターでレオの妹・ライナも1981年より登場している。 2008年、東京ヤクルトスワローズは『ヤクルトアトムズ復活シリーズ』として、1969年のビジターユニフォームを復刻(手塚治虫生誕80周年記念事業として手塚プロダクションとの協賛)。日本生命セ・パ交流戦、西武ドームで開催された西武戦では、奇しくもレオとの対決となり、手塚治虫ダービーと銘打たれた。 また2013年4月には、「読売ジャイアンツ」と「鉄腕アトム」のコラボレーション企画「GIANTS×ATOM」が発表された。この企画では鉄腕アトムの登場人物達が読売巨人軍のユニフォームを着たキーホルダー、うちわ、タオルハンカチなどが商品化され東京ドーム内グッズ売店等で売りだされることになった。 なお、手塚自身は阪神タイガースのファンであった。1950年の年賀状では、「野球ものも考えていますが近頃の阪神の不振に聊(いささ)かくさっているので書く気がありません」と1949年当時のユニフォーム を着た虎が素振りをしているイラストに添えてコメントしており、実際に野球を主題とする作品を描くことはなかった。ただし、年賀状を書いた1950年に連載した『タイガー博士の珍旅行』は「タイガース」という野球チームがあちこちを旅行する道中記(野球のプレーはしない)である。1985年に阪神が優勝し日本シリーズで西武と対戦した時は「どちらも勝て」と大弱りだったという。
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