国民野球連盟
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国民野球連盟(こくみんやきゅうれんめい)は、1947年に設立され、日本野球連盟(のちの日本プロフェッショナル野球組織)とは一線を画した(今日の独立リーグに相当する)もう一つのプロ野球組織。通称国民リーグ(National Baseball League)。
- ^ a b c d e f g h i 『別冊一億人の昭和史 日本プロ野球史』 毎日新聞社、1980年、134-136
- ^ 関三穂『プロ野球史再発掘(5)』ベースボール・マガジン社、1987年、P243 - 245
- ^ 中野晴行『球団消滅―幻の優勝チーム・ロビンスと田村駒治郎』(ISBN 4-480-42023-1)
- ^ 関三穂『プロ野球史再発掘(5)』P251 - 252
- ^ 地方遠征では多くの場合、芸能興行なみに地方の企業や興行師に何試合いくら、という風に売った。この方が、儲けは少なくても、リスクがなかったという。上がりを勝ちチームに六割、負けチームに四割で分けた。ところが興行師の中には悪質なのがいて、何かと理由をつけて最初に決めた金額を払わない者が次第に多くなった。秋のリーグの終わり近く、九州遠征で遂に興行師が売上げを全部持ち逃げ。このダメージで国民リーグは息の根を断たれた(別冊一億人の昭和史 日本プロ野球史)。
- ^ 関三穂『プロ野球史再発掘 (5)』P75 - 76
- ^ 関三穂『プロ野球史再発掘(1)』P46 - 47
- 1 国民野球連盟とは
- 2 国民野球連盟の概要
- 3 脚注
国民野球連盟
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※1947年の1年のみ活動。 大塚アスレチックス大塚アスレチックス(1947年)→金星スターズと合併 唐崎クラウン唐崎クラウン(1947年) 結城ブレーブスグリーンバーグ(1947年)→結城ブレーブス(1947年途) 熊谷レッドソックス宇高レッドソックス(1947年)→熊谷レッドソックス(1947年途)
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国民野球連盟
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戦後の1946年、新リーグ結成の動きがあり(のちの国民野球連盟)、グリーンバーグなる新球団の監督要請を受ける。戦後の混乱期で断ろうと思ったが濃人渉、門前眞佐人らチームの大半が広島出身者だったため(力士も数人含まれていた)、やむなく受諾。広島で練習を積み広島を本拠地にするつもりだった。しかし、翌1947年、グリーンバーグの親会社「日本産業自動車」が国税局の査察を受け操業を中止し経営が悪化。同年春、国民野球連盟の結成披露会が行われたが、東京までの汽車賃が工面できず上京出来なくなった。しかし責任感の強い石本は、何とか工面し丸2日かけて選手を連れて上京。顔じゅう煤だらけにしながら疲れも見せず、石本の毅然とした態度は出迎えの者を感激させたという。2日後の国民リーグのお披露目試合(千葉県銚子球場)には間に合った。この年夏の国民リーグ本格開始を前に、連盟内でチームとしての体裁を整えていたのはグリーンバーグと宇高レッドソックスだけだったため、この2チームでこの後夏まで全国巡業を行った。しかしグリーンバーグの経営がさらに悪化したため、解散だけは避けたい石本と主将・濃人は新たなスポンサーを探し回った。石本は何とか茨城県結城郡結城町の建設資材販売で儲けていた広商の後輩、土手潔を見つけてグリーンバーグは土手をオーナーとし、茨城県結城に本拠地をおく結城ブレーブスとして再スタートを切った。しかし国民リーグは、所属チームが4チームしかなく観客は徐々に減少。更に大食漢の選手の食費、給料が月に50万円(現在の物価に換算すると数千万円)かかり、親会社を倒産に追いこむ。また他チームも興行師の上がりの持ち逃げや、国税局の査察、またのちセ・リーグ会長になる鈴木龍二の二枚舌もあり国民リーグは1年で崩壊した。
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