フランスとドイツ
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詳細は「中世のフランス」および「ドイツの歴史#中世」を参照 中世盛期の時代までに現在の境界線ではないけれどカロリング帝国はフランス王国とドイツ王国の後継国家に分かれ、置き換えられた。ドイツは統合と政治権力が絶頂期に達した神聖ローマ帝国の旗の下にあった。フランス王国は12世紀から14世紀前半にかけて芸術と文学の発露の時代であった。ヴァロワ家の興隆とともにイングランド王国との百年戦争の長引く王朝の危機と破滅的なペストの流行が起きた。 1250年にフリードリヒ2世が死ぬと、ドイツ王国は息子のコンラート4世と反対派のウィレム2世の下に分割された。コンラート4世が死ぬと、国王が全員の承認を得られず王子が保有物をうまく固めようとし独立した支配者にさえなった時代である大空位時代となった。1257年を過ぎると、王位はゲルフ党に支援されたリチャードとホーヘンシュタウフェン党に承認されたが決してドイツの土地に足場を設けなかったアルフォンソ10世の間で争われた。リチャードが1273年に死ぬと、ルドルフ1世が全員一致で選ばれ空位期間は終了した。 13世紀はドイツ王国の土地の管理方法に一般的な構造変革があった時代である。個人の義務の代わりに金銭が益々農業において経済価値を表す共通の手段になった。農奴は益々土地のために年貢を納めるよう要求された。依然として非常に土地に縛り付けられていたが、「財産」の概念は、古代の財産権の形式に置き換わり始めた。領土では(帝国ではなく)権力は益々束ねられた。土地を所有する者は誰でも他の権力から得られる財産権があった。しかしこの時代の財産権に司法権が含まれなかったことは特筆すべきことである。法廷を開くには重々しく伝統的な慣習を当てにするかでなければ規則は慣習法であった。
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フランスとドイツ
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イギリス理神論をフランスで嗣いだのはヴォルテールである。イギリスでは論争になるだけの見解でも、カトリック教会が権威をもっているフランスでは異端邪説となった。ヴォルテールは「神がもし存在しないなら、創り出す必要がある」と言った奇妙なキリスト教徒であった。彼はキリスト教にまつわるさまざまな伝説・聖物を笑いものとし、無神論の手前まで進んだ。コンディヤック、エルヴェシウス、ドルバック、ラ・メトリなどはデカルトの機械論を受け継いでおり、理神論者とほとんど区別がつかない。彼らは人間を機械の一種と見なしているのでそれを最初に創造した機械工(神)を想定しないわけに行かないからだ。 ルソーが『エミール』第4巻で披露する有神論は、理性ではなく感情に基礎をおいている。その自然宗教では特定の人間に示されるような啓示は必要ない、とされている。ルソーの「有神論」はロベスピエールに受け継がれ、フランス革命が過激化した時期に「理性の崇拝」に反対して挙行された「最高存在の祭典」にあらわれている。 ドイツにおける理神論の代表者はレッシングである。ただレッシングはキリスト教について固定した立場をとらず、「論証によって信仰を強制しよう」とする理神論者についても反対していた。戯曲『賢人ナータン』には、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教のうち、どの宗教を選ぶかよりも「人間であることで十分だ」というテーマが扱われた。 カントは『純粋理性批判』で理神論者が使った神の存在証明すべてが無効であることを証明したが、『実践理性批判』では神は理性によって認識されるものではなく、意志によって要請される存在として考えられ、ヘーゲルはカントのこのような神の論証を「矛盾の巣」と呼んだ。理神論はカントの手によって一度は殺されて、彼自身の手で復活させられたわけである。
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