神の存在証明
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神の存在証明(かみのそんざいしょうめい、英語:Existence of God)とは、主として(少なくとも、西欧哲学でこの言葉を使うときは)、中世哲学における理性による、神の存在の根拠の提示の試行を意味する。中世以前では、神の存在は自明と考えられていたが、『神学大全』の著者トマス・アクィナスは、「神は、自然なる理性においても、その存在や超越的属性が論証可能な存在である」と主張した。このように神の存在を、理性や推論によって導出しようとする試みが、「神の存在証明」と呼ばれる。様々な思想家が、神の存在証明を試みてきた。
- ^ Craig, WL., The Cosmological Argument from Plato to Leibniz, Wipf and Stock Publishers, 2001, pp. 1–5, 13.
- ^ Aristotle, Physics VIII, 4–6; Metaphysics XII, 1–6.
- ^ Duncan, S., Analytic Philosophy of Religion: Its History Since 1955 (2010), Humanities-Ebooks, p. 165.
- ^ Duncan, S., Analytic philosophy of religion: its history since 1955, Humanities-Ebooks, p.165.
- ^ Moran, Dermot and Adrian Guiu, "John Scottus Eriugena", The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Winter 2019 Edition), Edward N. Zalta (ed.), [URL = <https://plato.stanford.edu/archives/win2019/entries/scottus-eriugena/].
- ^ Summa Theologica, St. Thomas Aquinas
- ^ Scott David Foutz, An Examination of Thomas Aquinas' Cosmological Arguments as found in the Five Ways Archived 2008-05-09 at the Wayback Machine., Quodlibet Online Journal of Christian Theology and Philosophy
- 1 神の存在証明とは
- 2 神の存在証明の概要
- 3 4種類の存在証明
- 4 様々な存在証明の試み
- 5 関連項目
神の存在証明
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 15:50 UTC 版)
詳細は「神の存在証明」を参照 神は存在するか。歴史上、偶有性の議論、存在論的議論、道徳的議論といった形態を含む多様な議論が、アリストテレス、デカルト、ライプニッツ、ゲーデル、アクィナスなどの哲学者により、神の存在証明をめぐって提起されている。神の存在証明は通常、哲学者が神の異なる概念を提示しているとしても、多神教における個々の神々とは異なる、形而上学的または論理的に必要な最も偉大な存在である何かに言及する。 ウィトゲンシュタインとカントは、合理的な議論が神の存在を証明できることに疑念を抱きながらも、他方では宗教的信念を守った。哲学者はまた、邪悪や神の隠蔽性の問題のような、神の存在に対する異議についても考察している。
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神の存在証明
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欺く神 (Dieu trompeur)、悪しき霊(genius malignus)を否定し、誠実な神を見出すために、デカルトは神の存在証明を行う。 第一証明 - 意識の中における神の観念の無限な表現的実在性(観念の表現する実在性)は、対応する形相的実在性(現実的実在性)を必然的に導く。我々の知は常に有限であって間違いを犯すが、この「有限」であるということを知るためには、まさに「無限」の観念があらかじめ与えられていなければならない。 第二証明 - 継続して存在するためには、その存在を保持する力が必要であり、それは神をおいて他にない。 第三証明 - 完全な神の観念は、そのうちに存在を含む。(アンセルムス以来の証明) 悪しき霊という仮定は神の完全性・無限性から否定され誠実な神が見出される。誠実な神が人間を欺くということはないために、ここに至って、方法的懐疑によって退けられていた自己の認識能力は改めて信頼を取り戻すことになる。
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神の存在証明
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 09:52 UTC 版)
欺く神 (Dieu trompeur)・ 悪い霊 (genius malignus) を否定し、誠実な神を見出すために、デカルトは神の存在証明を行う。 第一証明 - 意識の中における神の観念の無限な表現的実在性(観念の表現する実在性)は、対応する形相的実在性(現実的実在性)を必然的に導く。我々の知は常に有限であって間違いを犯すが、この「有限」であるということを知るためには、まさに「無限」の観念があらかじめ与えられていなければならない。 第二証明 - 継続して存在するためには、その存在を保持する力が必要であり、それは神をおいて他にない。 第三証明 - 完全な神の観念は、そのうちに存在を含む。(アンセルムス以来の証明) 悪い霊という仮定は神の完全性・無限性から否定され誠実な神が見出される。誠実な神が人間を欺くということはないために、ここに至って、方法的懐疑によって退けられていた自己の認識能力は改めて信頼を取り戻すことになる。 物体の本質と存在の説明も、デカルト的な自然観を適用するための準備として不可欠である。三次元の空間の中で確保される性質(幅・奥行き・高さ)、すなわち「延長」こそ物体の本質であり、これは解析幾何学的手法によって把捉される。一方、物体に関わる感覚的条件(熱い、甘い、臭いetc.)は物体が感覚器官を触発することによって与えられる。なにものかが与えられるためには、与えるものがまずもって存在しなければならないから、物体は存在することが確認される。しかし、存在するからといって、方法的懐疑によって一旦退けられた感覚によってその本質を理解することはできない。純粋な数学・幾何学的な知のみが外在としての物体と対応する。このことから、後述する機械論的世界観が生まれる。 明晰判明の規則は存在証明によって絶対確実な信念をもって適用され、更に物体の本質と存在が説明された後で、明晰判明に知られる数学的・力学的知識はそのまま外部に実在を持つことが保証される。結果、数学的・力学的世界として、自然は理解されることになる。コギトを梃子に、世界はその実在を明らかにされるのである。 なお、このような「神」は、デカルトの思想にとってとりわけ都合のよいものである。ブレーズ・パスカルはこの事実を指摘し、『パンセ』の中で「アブラハム、イサク、ヤコブの神。哲学者、科学者の神にあらず」とデカルトを批判した。すなわち、デカルトの神は単に科学上の条件の一部であって、主体的に出会う信仰対象ではない、というのである。
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