ハプスブルクによる支配とは? わかりやすく解説

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ハプスブルクによる支配

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/14 01:59 UTC 版)

スロベニアの歴史」の記事における「ハプスブルクによる支配」の解説

オットカル1世勝利したルドルフ1世三公国をハプスブルク家相続領地として息子ルドルフアルベルト治めさせた。さらに1355年にはトリエステからモンファルコーネまでのアドリア海沿岸部ヴェネツィアより奪いスロベニア人居住地域全てハプスブルク家支配となった。しかし15世紀ツェリェ伯爵家が力をつけてスロベニア地域においてハプスブルク家対抗することとなり、1432年にはルクセンブルク家婚姻を結ぶことにより「神聖ローマ帝国貴族となった。しかし1456年ベオグラードにおいてフニャディ・ヤーノシュ息子ハンガリー王マーチャーシュ1世の兄フニャディ・ラースローによってツェリェ伯ウルリク2世殺害されたことにより、スロベニア人国家生き残る可能性消滅ハプスブルク家領土となることとなったが、過去ルドルフ4世ドイツ人コチェーヴィエ地方入植させていたため、スロベニア人居住区ドイツ人居住区囲まれる事となった。この状況第二次世界大戦まで続く事となる。また、行政面などではドイツ語使用されることとなったが、スロベニア語自体禁止されず、農民たちが使用しつづけることとなる。 13世紀から15世紀にかけてのスロベニア封建制確立しており、教会関係領地多く存在した。特に35もの修道院付属農園設立されたことにより、シトー修道会のスティチナ修道院(Cistercian Abbey Stična)やカルトジオ修道会 (en) のジッチェ修道院 (en) などが立てられその中でザルツブルク総司教座は最も勢力大きかったまた、多く修道院設立したことにより、文化面でも多大な影響与え事となり、写本マニュスクリプト)の製作され建築物としてロマネスク様式がブトゥイ、ブレスタニツァ (en) 、ポドスレダ (en) 、ゴシック様式マリボルツェリェクラーニリュトメルそれぞれ建設されることとなる。 15世紀に入るとスロベニア地域オスマン帝国襲来することとなったこのためハプスブルク帝国スロベニア地域騎馬軍団組織、そしてさらにオスマン帝国との国境地帯軍政国境地帯設置した。この軍政国境地帯クロアチアの地に設置されたため、スロベニア人はこれに含まれたわけではなかったが、ハプスブルク帝国貴族らが国境地帯要塞建設する際の費用スロベニア農民らが負担することとなり、農民反乱頻発することとなる。1515年発生した農民反乱は特に規模大きくスロベニア人居住区全体広がったがこれは鎮圧されることとなる。そして1572年から1573年にかけてスロベニア人クロアチア人らが連合した上でハプスブルク帝国への忠誠放棄してザグレブ首長への忠誠行えるよう要求したがこれも成功せず結局1713年トールミン一揆のように18世紀まで農民一揆は続くこととなる。 1517年10月13日マルティン・ルターが「95ヶ条の論題」を掲げたことによりプロテスタント活動が始まるが、この波はスロベニアにまで及ぶこととなり、1520年代にはトリエステグラーツリュブリャナルター派活動始まっていた。その中、プロテスタント改宗したスロベニア人司祭、プリモシュ・トルーバル (en) は迫害避けるためにヴュルテンベルク (en) へ避難したが、「カテキズム(教理問答集)」をスロベニア語翻訳、さらにスロベニア語基本的文法に関する書籍出版したが、これは19世紀スロベニア人らの民族的アイデンティティ拠り所となる。この後スロベニアではプロテスタント信者増加したことにより、トルーバルの「スロベニア人のためのキリスト教秩序」、ユーリィ・ダルマティンの「聖書全訳」などが出版されることとなるが、これはスロベニア語だけでなくキリル文字グラゴル文字でも出版されクロアチアでも使用された。 さらにトルーバルは30冊もの書物スロベニアクロアチア一部紹介することとなり、1555年には「マタイによる福音書」を翻訳1582年には「新約聖書」の全部スロベニア語翻訳、これらがスロベニア普及することとなったが、さらに彼の弟子ユーリィ・ダルマティン旧約聖書翻訳を、アダム・ボホリッチ (en) はスロベニア語初の文法書「冬の余暇(Articae horulae succisivae)」を出版したこのためハプスブルク帝国は「対抗宗教改革」を呼びかけ教皇庁トリエント公会議開催した上でイエズス会設立ウィーン進出させ、さらにはリュブリャナなどの主要都市神学校(コレギウム)の設立行ったハプスブルク帝国プロテスタント派牧師職人らを何千人追放し、さらにプロテスタント文献全て禁止焼き払ったが、そのためにスロベニア語出版物事実上消滅することとなる。そのため、新たなバロック芸術スロベニア広がることとなり、16世紀末にはカトリック勝利を収めることとなる。そして、17世紀に入るとリュブリャナ、ゴリツァなどにバロック様式教会建築され、その装飾イタリア彫刻家たちが参加することとなる。ただし、スロベニア語イエズス会設立した高等学校演劇や、リュブリャナ、ゴリツァでの聖職者会合ではスロベニア語使用される事が多く存在した18世紀半ばになるとハプスブルク帝国史上初の人口調査が行われたが、このとき、スロベニア人とされた人々100万人に満たなかった。しかし、マリア・テレジア時代交通網発達マリボルツェリェリュブリャナ経由してトリエステに至る重要な道が整備された。そのため、亜麻絹織物などの手工業発達農業関係も力が入れられることとなり、カルニオラでは1771年農業学校設立されジャガイモ栽培など新たな農業取り入れられた。さらに政府義務教育令を発令スロベニア地域学校ではスロベニア語による授業が行われ、「対抗宗教改革」で事実上消滅していたスロベニア語印刷物出版されることとなり、1715年にはボホリッチによる「文法書」が出版され1768年にはマルコ・ポフリン (en) によって「クラインスカ・グラマティカ(Kraynska grammatica、カルニオラ語文法)」も出版されることとなる。 しかし、マリア・テレジア死去したことにより、ヨーゼフ2世親政開始行政機関使用する言語ドイツ語規定したことにより状況変化学校においてドイツ語教育優先された。しかし1781年、「農奴解放令」が発令されたことにより、農奴制廃止され個人義務緩和されたことにより、スロベニア人中産階級上る事ができる状況となった。 さらにマリア・テレジアヨーゼフ2世時代啓蒙的絶対主義導入された事によりスロベニアにも知識人層が生まれることとなり、1781年、「アカデミア・オペロソルム・ラバセンシス (en) 」がリュブリャナ設立され、これに類似したいくつかの組織各地形成され1779年から1782年の間にバロック・スタイル詩歌集めた「ピサニツェ(Pisanice od lepih umetnosti、復活祭の卵)」がヤネズ・ダマスツェン神父(本名、フェリックス・デヴ)(sl)によって出版されたが、この中にはスロベニア農民歌った幸福なカルニオラ人」も含まれている。

※この「ハプスブルクによる支配」の解説は、「スロベニアの歴史」の解説の一部です。
「ハプスブルクによる支配」を含む「スロベニアの歴史」の記事については、「スロベニアの歴史」の概要を参照ください。

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