ハプスブルクによる支配
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「スロベニアの歴史」の記事における「ハプスブルクによる支配」の解説
オットカル1世に勝利したルドルフ1世は三公国をハプスブルク家の相続領地として息子ルドルフ、アルベルトに治めさせた。さらに1355年にはトリエステからモンファルコーネまでのアドリア海沿岸部をヴェネツィアより奪い、スロベニア人居住地域は全てハプスブルク家支配下となった。しかし15世紀、ツェリェ伯爵家が力をつけてスロベニア地域においてハプスブルク家と対抗することとなり、1432年にはルクセンブルク家と婚姻を結ぶことにより「神聖ローマ帝国の貴族」となった。しかし1456年、ベオグラードにおいてフニャディ・ヤーノシュの息子でハンガリー王マーチャーシュ1世の兄フニャディ・ラースローによってツェリェ伯ウルリク2世が殺害されたことにより、スロベニア人国家が生き残る可能性が消滅、ハプスブルク家の領土となることとなったが、過去にルドルフ4世がドイツ人をコチェーヴィエ地方へ入植させていたため、スロベニア人居住区はドイツ人居住区に囲まれる事となった。この状況は第二次世界大戦まで続く事となる。また、行政面などではドイツ語が使用されることとなったが、スロベニア語自体は禁止されず、農民たちが使用しつづけることとなる。 13世紀から15世紀にかけてのスロベニアは封建制が確立しており、教会関係の領地が多く存在した。特に35もの修道院と付属農園が設立されたことにより、シトー修道会のスティチナ修道院(Cistercian Abbey Stična)やカルトジオ修道会 (en) のジッチェ修道院 (en) などが立てられ、その中でもザルツブルクの総司教座は最も勢力が大きかった。また、多くの修道院が設立したことにより、文化面でも多大な影響を与える事となり、写本(マニュスクリプト)の製作され、建築物としてはロマネスク様式がブトゥイ、ブレスタニツァ (en) 、ポドスレダ (en) 、ゴシック様式がマリボル、ツェリェ、クラーニ、リュトメルでそれぞれ建設されることとなる。 15世紀に入るとスロベニアの地域にオスマン帝国が襲来することとなった。このため、ハプスブルク帝国はスロベニア地域で騎馬軍団を組織、そしてさらにオスマン帝国との国境地帯に軍政国境地帯を設置した。この軍政国境地帯はクロアチアの地に設置されたため、スロベニア人はこれに含まれたわけではなかったが、ハプスブルク帝国貴族らが国境地帯に要塞を建設する際の費用をスロベニア農民らが負担することとなり、農民反乱が頻発することとなる。1515年に発生した農民反乱は特に規模が大きくスロベニア人居住区全体に広がったがこれは鎮圧されることとなる。そして1572年から1573年にかけてスロベニア人、クロアチア人らが連合した上でハプスブルク帝国への忠誠を放棄してザグレブの首長への忠誠を行えるよう要求したがこれも成功せず、結局、1713年のトールミンの一揆のように18世紀まで農民一揆は続くこととなる。 1517年10月13日、マルティン・ルターが「95ヶ条の論題」を掲げたことによりプロテスタント活動が始まるが、この波はスロベニアにまで及ぶこととなり、1520年代にはトリエステ、グラーツ、リュブリャナでルター派の活動が始まっていた。その中、プロテスタントへ改宗したスロベニア人司祭、プリモシュ・トルーバル (en) は迫害を避けるためにヴュルテンベルク (en) へ避難したが、「カテキズム(教理問答集)」をスロベニア語へ翻訳、さらにスロベニア語の基本的文法に関する書籍を出版したが、これは19世紀のスロベニア人らの民族的アイデンティティの拠り所となる。この後、スロベニアではプロテスタント信者が増加したことにより、トルーバルの「スロベニア人のためのキリスト教的秩序」、ユーリィ・ダルマティンの「聖書全訳」などが出版されることとなるが、これはスロベニア語だけでなくキリル文字、グラゴル文字でも出版されクロアチアでも使用された。 さらにトルーバルは30冊もの書物をスロベニア、クロアチアの一部へ紹介することとなり、1555年には「マタイによる福音書」を翻訳、1582年には「新約聖書」の全部をスロベニア語へ翻訳、これらがスロベニアで普及することとなったが、さらに彼の弟子ユーリィ・ダルマティンは旧約聖書の翻訳を、アダム・ボホリッチ (en) はスロベニア語初の文法書「冬の余暇(Articae horulae succisivae)」を出版した。 このため、ハプスブルク帝国は「対抗宗教改革」を呼びかけ、教皇庁はトリエント公会議を開催した上でイエズス会を設立、ウィーンへ進出させ、さらにはリュブリャナなどの主要都市に神学校(コレギウム)の設立を行った。ハプスブルク帝国はプロテスタント派の牧師や職人らを何千人も追放し、さらにプロテスタントの文献全てを禁止、焼き払ったが、そのためにスロベニア語の出版物が事実上、消滅することとなる。そのため、新たなバロック芸術がスロベニアに広がることとなり、16世紀末にはカトリックが勝利を収めることとなる。そして、17世紀に入るとリュブリャナ、ゴリツァなどにバロック様式の教会が建築され、その装飾にイタリアの彫刻家たちが参加することとなる。ただし、スロベニア語はイエズス会の設立した高等学校の演劇や、リュブリャナ、ゴリツァでの聖職者の会合ではスロベニア語が使用される事が多く存在した。 18世紀半ばになるとハプスブルク帝国史上初の人口調査が行われたが、このとき、スロベニア人とされた人々は100万人に満たなかった。しかし、マリア・テレジアの時代に交通網が発達、マリボル、ツェリェ、リュブリャナを経由してトリエステに至る重要な道が整備された。そのため、亜麻や絹織物などの手工業が発達、農業関係も力が入れられることとなり、カルニオラでは1771年に農業学校が設立され、ジャガイモの栽培など新たな農業が取り入れられた。さらに政府は義務教育令を発令、スロベニア地域の学校ではスロベニア語による授業が行われ、「対抗宗教改革」で事実上、消滅していたスロベニア語の印刷物が出版されることとなり、1715年にはボホリッチによる「文法書」が出版され、1768年にはマルコ・ポフリン (en) によって「クラインスカ・グラマティカ(Kraynska grammatica、カルニオラ語文法)」も出版されることとなる。 しかし、マリア・テレジアが死去したことにより、ヨーゼフ2世が親政を開始、行政機関で使用する言語をドイツ語と規定したことにより状況が変化、学校においてもドイツ語教育が優先された。しかし1781年、「農奴解放令」が発令されたことにより、農奴制が廃止され、個人の義務が緩和されたことにより、スロベニア人も中産階級へ上る事ができる状況となった。 さらにマリア・テレジア、ヨーゼフ2世の時代、啓蒙的絶対主義が導入された事によりスロベニアにも知識人層が生まれることとなり、1781年、「アカデミア・オペロソルム・ラバセンシス (en) 」がリュブリャナで設立され、これに類似したいくつかの組織が各地で形成され、1779年から1782年の間にバロック・スタイルの詩歌を集めた「ピサニツェ(Pisanice od lepih umetnosti、復活祭の卵)」がヤネズ・ダマスツェン神父(本名、フェリックス・デヴ)(sl)によって出版されたが、この中にはスロベニアの農民を歌った「幸福なカルニオラ人」も含まれている。
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