農奴解放令とは? わかりやすく解説

農奴解放令

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/09 01:44 UTC 版)

農奴解放令(のうどかいほうれい)とは、1861年3月にロシア皇帝アレクサンドル2世が発した法律および条令である。法律は農奴制廃止の基本的条件を定めた。条例は全国を4つに区分した上で、各地域の実情を考え、土地分与・義務・義務償却等の条件を確定した。4地域で一番広いのは大ロシアを中心とするものであった。残り3地域は小ロシア白ロシア、そして南西部(ドニエプル川右岸ウクライナ)であった。小ロシアでは特に領主の利益が尊重された。ポーランド貴族が領主であった南西部では、1847-8年導入の土地台帳を基準として分譲された。白ロシアは開放時の耕作地がそのまま分譲された。解放令は領主に分譲地の代金を与えたが、1863年6月と1866年11月に御料地と国有地についても裁可された。[1]


  1. ^ a b c d e 田中陽児 他2名編 『世界歴史大系 ロシア史2』 山川出版社 1994年 212-221頁
  2. ^ 田代文雄 「1848-49年ハンガリー革命における農奴解放の展開」 東欧史研究 3(0), 38-59, 1980
  3. ^ 農奴解放令”. 世界史の窓. 2024年6月9日閲覧。
  4. ^ a b c 冨岡庄一 『ロシア経済研究』 有斐閣 1998年 179-187頁
  5. ^ 吉田浩 「農奴解放の開始から大改革へ」 ロシア史研究 90(0), 90-100, 2012


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農奴解放令

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/10 17:32 UTC 版)

ロシアの農奴制」の記事における「農奴解放令」の解説

農奴制は、ロシアの農業それ自体発展にとってもひとつの障壁となっていた。技術改良への意欲失われ自暴自棄からくる農奴反抗をかえって助長したからである。1828年から1829年にかけては85件もの農民蜂起があり、1855年から1861年にかけては、その件数474件におよんだ1825年ロシア史初めツァーリズム皇帝専制)に批判向けられ貴族将校たちの反乱デカブリストの乱起こった将校たちのほとんどは1812年ナポレオン戦争祖国戦争)とその後ライプツィヒの戦いワーテルローの戦いパリへ進軍など外征参加者であった。かれらは、戦争中農民出身兵卒からロシア農奴の生活の悲惨なありさま聞き、さらに祖国比較して基本的人権唱えられ自由主義的進んだ西ヨーロッパ人びとの生活を目の当たりにして、農奴制専制政治廃止して祖国ロシア改革し代議制立憲制採用して西ヨーロッパ並の国家にしていくことを目ざし最優先要求として憲法制定掲げた。この反乱一日終息したが、その後ロシア革命思想および革命運動大きな影響あたえた文学者たちも、農奴制皇帝専制に対してしだいに批判の声をあげていった。「ロシア近代文学の父」といわれる文豪アレクサンドル・プーシキンは、乱を起こしたデカブリスト十二月党員)と深い関係をもっていたといわれており、彼らに深い共感をもっていた。彼の代表作大尉の娘』(1836年)はエカチェリーナ2世時代反乱指導者プガチョフ好意的に描いている。ニコライ・ゴーゴリは、1836年喜劇検察官』で地方官吏の偽善腐敗暴露して自由主義者からの賛美保守派からの非難浴びたが、ゴーゴリ自身に現体制否定する意図はなく、毀誉褒貶に耐えかねて長い外遊に出かけた。また、1842年の『死せる魂』もまた、ゴーゴリ意図をこえて農奴制対す根本からの告発受け止められた。それに対しイワン・トゥルゲーネフはより自覚的であった1847年以降文芸雑誌投稿した猟人日記』では農奴悲惨な生活を描き農奴制そのもの告発したトゥルゲーネフは、これがもとで逮捕され投獄されたが、のちに皇帝アレクサンドル2世農奴解放決心したのは、皇太子時代にこの作品読んだからだといわれている。トゥルゲーネフ1854年の『ムムー』においても地主のもとで酷使され農奴たちの悲劇描き精神の自由唱えたデカブリスト反乱直前帝位についたニコライ1世は、秘密警察皇帝官房第三部」を創設しプーシキンミハイル・レールモントフヴィッサリオン・ベリンスキーアレクサンドル・ゲルツェン数多く文学者思想家追放流刑処したが、その一方では、貴族農奴への一定面積土地支給強制する法律1827年)はじめ、土地売買による農奴家族分散禁止1833年)、家族から分離して農奴売買禁止1841年)、土地所有しない貴族による農奴取得禁止1843年)、負債支払いのために売却され土地に住む農奴対し土地付き人格の自由を買い取ることを許可する法律1847年)、農奴不動産購入認め法律1848年)など、つぎつぎ農奴待遇改善資する農業立法おこなったニコライ1世は、農奴個人所有物であるという当時貴族社会通念とは一線を画しあくまでもロシア帝国有用な臣民であるという立場立っていたが、一連の法令は、いわば、農民貴族領主ではなく土地の「隷属者」にするという性格をもっており、ただちに農奴解放につながるものではなかった。 1856年クリミア戦争敗北は、その前年に父ニコライ1世の後を継いだ新皇アレクサンドル2世近代化必要性痛感させた。この時点で、貴族領主人格的に隷属させられ農奴全農民の半数近い約2300万人いたといわれる農奴制諸悪の根源と見なされ、非難対象となった後世解放皇帝」と呼ばれることとなるアレクサンドル自身は、伝統的な領土拡張主義政策踏襲する保守的な思想持ち主であったが、帝国建て直し必要に迫られ進歩的な官僚登用して改革取り組んだであった皇帝戦争終結詔勅において「大改革」の意向明らかにし、さらに貴族たちの前で従前より懸案であった農奴解放について演説おこない、「下からよりは、上からこれを行うべきである」と宣言した皇帝アレクサンドル2世は露暦1861年2月19日グレゴリオ暦では同年3月5日)、農奴解放令を発布し、これにより、地主保有農奴人格的な自由と土地与えられた。さらに、1863年には帝室農奴が、1866年には国有地農奴それぞれ解放された。しかし、農地無償分与されたわけではなく政府地主に対して寛大な価格買戻金を支払うことと定められ解放され農奴国家に対してこの負債支払わねばならなかった。また、土地3分の1程度領主保留地となる場合多く農奴だった者は多く場合耕作地をせばめられた上にやせた土地割り当てられた。そして、大抵の分与地は農村共同体ミール)が集団的に所有し農民への割り当て財産に関するさまざまな監督おこなったため、農奴だった者は領主に代わって農村共同体に自由を束縛されることとなったのである。 こうして、農奴制法的に廃止されたものの、解放からしばらくの間農民の生活は以前よりかえって苦しくなり、解放令の内容に不満をいだいた農民による暴動各地起こったアレクサンドルの「大改革」は、農村における絶対権力を失った地主貴族にとっても土地購入しなければならなくなった農民にとっても不満ののこるものであった。ただし、新し政治勢力にとってはひとつの光明となったこともまた事実であった経済的には、この改革によりロシアでも農村プロレタリア創出されロシア資本主義発展基礎つくられ19世紀後半進展するロシア工業化の一要因となった

※この「農奴解放令」の解説は、「ロシアの農奴制」の解説の一部です。
「農奴解放令」を含む「ロシアの農奴制」の記事については、「ロシアの農奴制」の概要を参照ください。

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