対抗宗教改革とは? わかりやすく解説

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対抗宗教改革

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/04 05:52 UTC 版)

対抗宗教改革(たいこうしゅうきょうかいかく)は、16世紀トリエント公会議を頂点としたカトリック教会内の改革刷新運動のこと。かつては反宗教改革という語が用いられていたが、近年の研究の結果、改革運動は宗教改革より以前に始まっていたことがわかり、カトリック改革とも呼ばれるようになってきている。


  1. ^ 増田祐志編『カトリック神学への招き』上智大学出版、2009年4月10日。71-72頁。


「対抗宗教改革」の続きの解説一覧

対抗宗教改革(カトリック改革)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 03:54 UTC 版)

ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「対抗宗教改革(カトリック改革)」の解説

「対抗宗教改革」および「イエズス会」も参照 宗教改革ヨーロッパ中で猛威を振るうと、カトリック教会積極的に自己改革乗り出したが、その動きを「対抗宗教改革」ないし「反宗教改革」と呼んでいる。カトリック教会内部でしきりに発生する異端」は、一種内部改革であるという見方も可能である。その一例としては、15世紀末のフィレンツェにおける修道士ジロラモ・サヴォナローラ改革挙げられるサヴォナローラは、その神権政治のなかで贅沢品華美な美術品シニョリーア広場集めて焼却する虚栄の焼却」をおこない一時サンドロ・ボッティチェッリでさえ絵を描くのをやめてしまうほどであった16世紀前半には新し修道院多数設立され聖職者自身の生活改革運動も活発であった。 しかし、もっとも本格的なカトリック改革イグナチオ・デ・ロヨラによって設立され修道会イエズス会」により、推進された。バスク人貴族武人でもあったロヨラ戦傷療養生活中に回心して民衆救霊運動を開始したが、異端嫌疑かけられパリ大学神学学び1534年にはピエール・ファーヴルフランシスコ・ザビエル自身含めて7人でモンマルトルの丘誓願立て1537年イエズス会創設したロヨラ神秘的な恍惚によらなくても人間自然的能力訓練によって神との合一が可能であるとし、会士たちに軍隊式の苛酷な規律訓練課して清貧」「貞潔」「服従」をモットーとしたほか、教皇へ絶対服従説くとともにギリシア・ローマ古典教育重んじ学院経営にも積極であったフランス出版・印刷業も、典礼書、公教要理教父著作集などを大量に刊行しカトリック改革貢献した1542年からのトリエント公会議では、教会での最高権力は教皇にあるとされた。聖書と、伝承にもとづく信仰上の真理制度総体とが信仰よりどころであり、人間には「自由意志」があること、救いにおいては神の恩恵人間行い等しく重要であること、7つ秘蹟化体説とを維持することなどが決定された。また、司教権限強化し聖職者質の向上監督司教課した。これら一連の決定事項には、プロテスタンティズム対する非妥協的な方向性みてとれるフランス王権ガリカニスムフランス教会自立主義)のために公会議の決定王国の法として受容することは拒否したが、公会議精神にもとづく改革主として聖職者の手推進されていったイエズス会創設トリエント公会議開催は、カトリック教義の正統性再確認であると同時に超国家的組織・制度であるカトリック教会中央集権化目指したものであり、全欧州的に広がる領邦教会体制進展呼応する動きとみなすことができる。公会議の決定イエズス会の熱心な活動により、16世紀末までにはバイエルンフランスオーストリアポーランドチェコカトリック勢力圏入った

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対抗宗教改革

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/30 08:10 UTC 版)

カトリック教会の歴史」の記事における「対抗宗教改革」の解説

詳細は「対抗宗教改革」および「トリエント公会議」を参照 ジャン・カルヴァンマルティン・ルターらによる宗教改革が始まると、カトリック教会直ちにそれを阻止する為に手を打ったトリエント公会議の際にヴルガータ教会正式な聖書として承認された。 ローマ教皇庁ヨーロッパ各国対しプロテスタント採用しないように圧力を掛けた。国王ヘンリー8世離婚問題以来プロテスタントとなっていたイングランド王国は、一時的にメアリー1世時にはカトリックだったが、その後エリザベス1世女王として即位するイングランド国教会国教として定められカトリックの再国教化には失敗した

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