対抗宗教改革
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対抗宗教改革(たいこうしゅうきょうかいかく)は、16世紀のトリエント公会議を頂点としたカトリック教会内の改革刷新運動のこと。かつては反宗教改革という語が用いられていたが、近年の研究の結果、改革運動は宗教改革より以前に始まっていたことがわかり、カトリック改革とも呼ばれるようになってきている。
- ^ 増田祐志編『カトリック神学への招き』上智大学出版、2009年4月10日。71-72頁。
- 1 対抗宗教改革とは
- 2 対抗宗教改革の概要
- 3 意義
- 4 トリエント公会議
- 5 参考文献
対抗宗教改革(カトリック改革)
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「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「対抗宗教改革(カトリック改革)」の解説
「対抗宗教改革」および「イエズス会」も参照 宗教改革がヨーロッパ中で猛威を振るうと、カトリック教会も積極的に自己改革に乗り出したが、その動きを「対抗宗教改革」ないし「反宗教改革」と呼んでいる。カトリック教会の内部でしきりに発生する「異端」は、一種の内部改革であるという見方も可能である。その一例としては、15世紀末のフィレンツェにおける修道士ジロラモ・サヴォナローラの改革が挙げられる。サヴォナローラは、その神権政治のなかで贅沢品や華美な美術品をシニョリーア広場に集めて焼却する「虚栄の焼却」をおこない、一時はサンドロ・ボッティチェッリでさえ絵を描くのをやめてしまうほどであった。16世紀前半には新しい修道院が多数設立され、聖職者自身の生活改革運動も活発であった。 しかし、もっとも本格的なカトリック改革はイグナチオ・デ・ロヨラによって設立された修道会「イエズス会」により、推進された。バスク人貴族で武人でもあったロヨラは戦傷の療養生活中に回心して民衆救霊運動を開始したが、異端の嫌疑をかけられてパリ大学で神学を学び、1534年にはピエール・ファーヴルやフランシスコ・ザビエルら自身も含めて7人でモンマルトルの丘で誓願を立て、1537年にイエズス会を創設した。ロヨラは神秘的な恍惚によらなくても人間の自然的能力の訓練によって神との合一が可能であるとし、会士たちに軍隊式の苛酷な規律と訓練を課して「清貧」「貞潔」「服従」をモットーとしたほか、教皇への絶対服従を説くとともにギリシア・ローマの古典教育を重んじ、学院経営にも積極的であった。フランスの出版・印刷業も、典礼書、公教要理、教父著作集などを大量に刊行してカトリック改革に貢献した。 1542年からのトリエント公会議では、教会での最高権力は教皇にあるとされた。聖書と、伝承にもとづく信仰上の真理と制度の総体とが信仰のよりどころであり、人間には「自由意志」があること、救いにおいては神の恩恵と人間の行いが等しく重要であること、7つの秘蹟と化体説とを維持することなどが決定された。また、司教の権限を強化し、聖職者の質の向上と監督を司教に課した。これら一連の決定事項には、プロテスタンティズムに対する非妥協的な方向性がみてとれる。フランスの王権はガリカニスム(フランス教会自立主義)のために公会議の決定を王国の法として受容することは拒否したが、公会議の精神にもとづく改革が主として聖職者の手で推進されていった。 イエズス会の創設とトリエント公会議の開催は、カトリック教義の正統性の再確認であると同時に超国家的な組織・制度であるカトリック教会の中央集権化を目指したものであり、全欧州的に広がる領邦教会体制の進展に呼応する動きとみなすことができる。公会議の決定やイエズス会の熱心な活動により、16世紀末までにはバイエルン、フランス、オーストリア、ポーランド、チェコがカトリックの勢力圏に入った。
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対抗宗教改革
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「カトリック教会の歴史」の記事における「対抗宗教改革」の解説
詳細は「対抗宗教改革」および「トリエント公会議」を参照 ジャン・カルヴァンやマルティン・ルターらによる宗教改革が始まると、カトリック教会は直ちにそれを阻止する為に手を打った。トリエント公会議の際にヴルガータが教会の正式な聖書として承認された。 ローマ教皇庁はヨーロッパ各国に対しプロテスタントを採用しないように圧力を掛けた。国王ヘンリー8世の離婚問題以来プロテスタントとなっていたイングランド王国は、一時的にメアリー1世の時にはカトリックだったが、その後にエリザベス1世が女王として即位するとイングランド国教会が国教として定められ、カトリックの再国教化には失敗した。
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