ドライビール
(ドライ戦争 から転送)
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ドライビールは、ビールにおけるスタイルのひとつ[1][2]で、辞書などでは「アルコール度数を従来のビールより高めて[注釈 1]、辛口(英語では"DRY")に仕上げたビール」を定義する[3]。1987年2月に順次発売を開始したアサヒビール(以下「アサヒ」)の『アサヒスーパードライ(以下「スーパードライ」)』を始祖とし[4]、その翌年には同業他社も追随していったため、ドライ戦争とも呼ばれる[5]熾烈な販売合戦・市場占有率争いが行われた。
注釈
- ^ 例として、それまでの主要銘柄であるキリンビール(当時。1988年に「キリンラガービール」に改名)は4.5%、アサヒスーパードライは5%である。
- ^ 日経トレンディが発表する「ヒット商品ベスト30」とは別の企画(キーワードで読むガイアの夜明け - テレビ東京)。
出典
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- ^ 「スーパードライ」を飲み干す「アサヒ本生」 - FINANCE Watch 2001年3月26日
- ^ アサヒビールグループの概要と事業方針 (PDF) - アサヒビール 2008年10月
衝撃的シェア逆転から失地回復 - 日経ビジネスオンライン 2007年10月12日 - ^ サントリー、「ホップス・ドライ」全国販売へ - 日本食糧新聞 1995年6月12日
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- ^ 「糖質ゼロ」戦争勃発! さて、どの“ゼロ発泡酒”がうまいか? - 日経トレンディネット 2008年2月21日
“ドライ”“ゼロ”戦争で実現「アサヒ勝ちパターン」 - プレジデントロイター 2009年10月14日
- 1 ドライビールとは
- 2 ドライビールの概要
- 3 脚注
ドライ戦争
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『スーパードライ』のネーミングに用いられた「スーパー」は、根拠も無く商品を優れていることを誇示し、優良誤認のネーミングで「ビールの表示に関する公正競争規約」に違反していた。アサヒも当初から違反を認識していた。そこで、銀行から派遣されていた当時の社長が、大蔵省から天下っていた副所長に大蔵省への工作を命じた。大手ビール会社の業界団体であるビール酒造組合が大蔵省へ、公正取引委員会の裁定を仰ぐことを事前に相談に行った。すると、大蔵省はビール酒造組合に対して、事を荒立てずに更に話し合うようにと指導した。アサヒビールの工作が功を奏し、『スーパードライ』は使われ続け、後にアサヒは、「スーパーイースト」も発売した。 『スーパードライ』のヒットを受け、この状態に歯止めをかけるべく競合3社も追随して、翌1988年1月にドライビールの発売概要を発表。これに対し、アサヒは1月に知的所有権侵害の問題として「名称・ラベルが『スーパードライ』に似すぎており消費者に誤解を与える」という抗議文を内容証明でキリンとサッポロビール(以下「サッポロ」)に送付するなど、ドライビールの名称について議論(ドライ論争)が行われたが、競合各社が名称変更しアサヒ側が譲歩したことで同月中に収束した。この論争が加熱して新聞などで報じられたことで、ドライビールに関する消費者の認知度が高まった。2月以降から各社からドライビールが発売された。他社のドライビール発売が『スーパードライ』新発売から約1年遅れた理由として、ビール新商品の開発・試作・生産には時間が掛かることや、1980年代において主力新商品の発売は本格シーズン到来前の春が恒例であったことが挙げられている。アサヒ以外の3社の動向は次の通りだった。 キリンビール 1988年2月22日に『キリンドライ』(CMに俳優のジーン・ハックマンを起用し、CMソングにはミュージシャンの鈴木雅之を起用)、1989年4月に麦芽100%のオールモルト生ドライビール『キリンモルトドライ』を発売。販売数量はキリンドライが1988年4000万ケース、1989年1750万ケースで、モルトドライが1989年350万ケース。しかし『スーパードライ』の独走を止めることはできず、1988年にはそれまで維持していた日本国内シェア50%を割っている。 サッポロビール 1988年2月26日に『サッポロドライ』(CMに吉田拓郎、広岡達朗、石田えりを起用)を発売。販売数量は1988年2300万ケース、1989年950万ケース。しかし、それまでの同社のファンからは不評で発売2年足らずで生産を中止。さらにドライ感を強めた『サッポロハーディ』や『サッポロクールドライ』を1989年に発売するも、短期間で生産を終了している。 サントリー 1988年2月23日、『サントリードライ』を発売。販売数量は1988年1300万ケース、1989年750万ケース。差別化戦略としてアルコール度数を5.5%に高めた『サントリードライ5.5』も発売し、CMにボクサーのマイク・タイソンを起用したことが話題になった。販売数量は1988年200万ケース。その一方『モルツ』のCMでは「私はドライではありません」と謳っていた。1989年には二条大麦と六条大麦のダブルモルトを使用した麦芽100%ドライの『冴』を発売し、こちらは和風のイメージで差別化を図った。 各社が発売したドライビールは想定以上の需要が押し寄せ2月下旬には品不足状態となったが、アサヒは前年から需要拡大の販売計画を立て供給力に余裕があったことから、他社の潜在需要も在庫があった『スーパードライ』に流れた。さらにアサヒは生産能力の向上に努め、『スーパードライ』に傾斜した生産体制をとり、他社も独走体制の阻止を図るためにドライビールの生産増強や販促・宣伝活動に注力した。この状態をマスコミは「ドライ戦争」と表現して盛んに用いた(前述)。 ビール業界の間では、前述のように先々を見据えた展開を行ったアサヒがドライ戦争の勝者となると序盤戦から予想されていた。同年6月27日、アサヒは新聞各紙において『スーパードライ』の広告掲載を行い、「この味が、ビールの流れを変えた。」の表現が事実上の“ドライ戦争の勝利宣言”と捉えられて大きな反響を呼んだ。 同年夏の需要期にはアサヒを含めた各社ドライビールの品薄状態が目立つようになっていたが、夏商戦も引き続きアサヒが有利に展開した。その結果が明らかになり始めた8月終盤から新聞において「ドライ人気は一時的」「ドライ人気に秋風!?」「ドライにかげり?」といった見出しが目立つようになり、競合他社はドライビールは一過性のブームと捉えていたことから、同年後半はドライ偏重戦略を改めて従来の主力商品に力を入れたり、新たな次期主力商品を模索し始めるなど、アサヒ以外の各社はドライビール戦争から戦線離脱した状態となった。 他社が発売したドライビールの売上で1988年は従来の新製品と比べると好調の部類に入り、1988年のドライビール市場は1億5000万ケースの規模となり全ビール市場における割合は前年の3%(アサヒのみ)から34%(全社合計)と急上昇した。一方でドライ以外の銘柄が売上低下する共食い現象も発生したり、前年に「ドライビール=スーパードライ」のイメージが消費者にて形成されていたことで、他社がドライビールを宣伝しても客は元祖の『スーパードライ』に流れる状況となっていた。 結果的に時代の新たな潮流を生むと確信してドライビールに取り組んだアサヒが圧倒的支持を受け、1988年の販売数量実績で7500万ケースを記録した『スーパードライ』の勝利でドライ戦争は終了した。この好影響を受け、同年のビール市場占有率でアサヒはサッポロを抜き2位に上昇した。 ドライ戦争は他にも影響を及ぼしており、亀田製菓の柿の種はビールに合うおつまみとして需要が拡大・定着するなどの要因で、同時期において売上は3倍弱の伸び率を記録した。
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ドライ戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 03:20 UTC 版)
1980年代中盤頃のアサヒビールは「夕日ビール」と揶揄されるくらいに業績が低迷していた。当時は苦味のあるラガースタイルが日本のビールの主流であったところに、アサヒは麦芽量を減らしコーンスターチなどの副原料の比重を増やすことで発酵度を高め、アルコール度数を高くした「アサヒスーパードライ」を開発、1987年に発売を開始する。従来のアサヒビールも「コクがあってキレもある」との評価だったが、その評価を更に推し進め「キレ」に徹した商品であった。地域限定で発売されたスーパードライは、すぐに全国展開される。スーパードライの初年度売上は、1350万箱とビールの新製品の売り上げ記録を更新することになった。スーパードライのヒットによって、アサヒビールの業績は回復する。また、1988年より他社もスーパードライに類似した商品を発売し、「ドライ戦争」と呼ばれることになる販売競争が始まった。 「ドライ戦争」の商戦の結果、ビール市場全体も拡大しており、スーパードライ発売前となる1986年と1990年を比較した場合、市場は32%拡大をした。 詳細は「ドライビール#ドライ戦争」を参照
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