ソ連訪問と黄埔軍官学校校長就任とは? わかりやすく解説

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ソ連訪問と黄埔軍官学校校長就任

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 04:28 UTC 版)

蔣介石」の記事における「ソ連訪問と黄埔軍官学校校長就任」の解説

陳炯明によって政権追われていた孫文は、1923年1月ソビエト連邦代表として中国訪問していたアドリフ・ヨッフェ上海会談し、「孫文ヨッフェ宣言」を発表した。これは、中国における共産主義可能性排除しながらもソ連提携し、連ソ・容共に基づく中国国民党中国共産党の「合作」(国共合作)を正式に宣言するものであったその後第三次広東軍政府組織した孫文は、ソ連とのさらなる連携求めて同年8月ソ連に「孫逸仙博士代表団」を送った中国社会主義的思潮勃興した1919年以降ロシア語学び、『共産党宣言』や『マルクス学説概要』などを読んでいた蔣介石孫文の連ソ方針賛同しており、「赤い将軍」「中国トロツキー」とまで呼ばれており、この代表団一員としてソ連渡ってソ連赤軍軍制視察することになったモスクワではレフ・トロツキーから赤軍組織原理学びソ連軍隊における軍事思想教育分離関心持ったという。このソ連訪問蔣介石にとって軍事面政党組織作りといった面では大い参考となるものであったが、一方でソ連への不信感抱かせるものであった11月25日コミンテルン席上、蔣が国民党代表して行った演説に対して公然と批判された。この演説で蔣は孫文三民主義語り中国革命意義説いたのだが、ソ連では孫文三民主義対す評価決して高いものではなかったのである。これに衝撃受けた蔣はソ連への不信共産党対す警戒感強くして中国帰国していった。蔣が帰国したとき、国民党改組進んでおり、中国共産党員が国民党中央執行委員加わっていたり、コミンテルンの代表であるミハイル・ボロディン国民党最高顧問となっていたりしていた。これに怒った蔣はまたもや渓口鎮に引きこもった汪兆銘廖仲愷、そして孫文からは広東戻って視察報告をせよと何度も督促されたが、蔣は結局1923年年末から翌年正月にかけて故郷過ごした1924年1月広州において中国国民党第1回全国代表大会党大会)が開催された。この党大会では国民政府樹立目標とされるとともにその手段として「連ソ・容共扶助工農」があらため打ち出されソ連共産党の組織原理基づいて組織改組正式に実行された。党内には委員会制民主集中制導入され中央執行委員会が最高意思決定機関として設置された。孫文国民党総理として、存命中は自動的に中央執行委員会の長となることが保障されたが、その他の委員選挙選ばれることになった。この第1期党中央執行委員会には国共合作によって共産党員選出されており、後に中国共産党中央委員会主席中華人民共和国主席となり、蔣介石終生ライバルとなる毛沢東共産党籍を持ったまま国民党中央執行委員候補選ばれている。一方蔣介石党大会出席したものの、中央執行委員には選出されなかった。しかし、この党大会国民党による政治指導受けた革命軍すなわち国民党の党軍の組織と、その将校教育機関である軍官学校設立決議され蔣介石軍官学校設立準備委員委員長および陸軍軍官学校校長広東総司令部参謀長任命された。 蔣介石はさっそく軍官学校設立準備取り掛かったが、設立資金の不足と党内事情対する不満から二週間ほどで辞表出し廖仲愷軍官学校設立事業託してまたもや上海戻った孫文さすがに怒った再三にわたり蔣に復帰要請し、蔣も結局これを受け入れた。この繰り返される辞職騒動は、蔣介石の「人的関係についての異常な鋭敏さ事物対す極端な好悪」、「すべてが軍隊のように、きちんとしてなければ承知できなかった」性格大きく影響しているものとみられる孫文による蔣への黄埔軍官学校校長任命黄埔軍官学校入学式後の国民党要人記念撮影中央の椅子腰掛け人物孫文その後蔣介石。蔣と並ぶのは教官何応欽(左)と王齢(右)。 黄埔軍官学校校長時代 紆余曲折はあったものの、かくして1924年5月3日蔣介石広州設立され黄埔軍官学校校長就任し6月10日入学式迎えた蔣介石新入生に対して三民主義命をかける幹部養成、軍の規律説く講話行った黄埔軍官学校では、組織訓練面ではソ連式が採用されたが、日常的な軍隊生活規律蔣介石東京振武学校新潟での日本陸軍第13師団での体験基礎となっていた。また、清朝末期改革派大官蔣介石尊敬する曽国藩説いた儒学人生訓処世訓教育反映されていた。蔣介石将校教育熱心に取り組む一方で兵士養成にも力を注いだ。特に自分出身地である浙江省中心に兵士募集していった。黄埔軍官学校学んだ将校兵士たちは後の北伐軍中華民国軍中核をなしていく。科挙時代中国では自分合格した試験監督生涯にわたって師匠と仰ぐ習慣があったが、黄埔軍官学校卒業生もまた校長である蔣介石特別な存在として仰いだ。彼らとの師弟関係は、この後蔣介石にとって大きな政治的資源となっていくのである黄埔軍官学校ソ連支援の下につくられたため、共産党員教官となった。後に西安事件監禁され蔣介石説得して第二次国共合作成立させ、中華人民共和国の建国後に国務院総理首相となった周恩来政治部副主任(後、主任昇格)に、中華人民共和国元帥となった葉剣英教授副主任任命された。黄埔軍官学校正式名称中国国民党陸軍軍官学校というこの士官学校では、国民党総理孫文唱える三民主義同時にマルクス主義教えられていたのであるこの頃国民党内部では、共産党との合作第一義考え左派共産党との対立姿勢隠さない右派分かれて対立生じ始めていた。左派代表格汪兆銘であったが、右派領袖として蔣介石擬せられるようになっていった。黄埔軍官学校校長として蔣介石共産党員教官とともに軍人養成に当たらねばならない立場にあったが、黄埔軍官学校内部でも国民党共産党対立芽生えていく。 1924年8月から10月にかけて商団事件勃発した。これは孫文広東政府が「赤化」したとして危機感覚えたイギリスなどが、広東にあるイギリス系銀行代表者である陳廉伯働きかけ商人団に武装させて広東政府転覆図ったのである陳炯明残党手を結んだ商人団が武装蜂起するや、孫文蔣介石鎮圧命じた蔣介石黄埔軍官学校学生中核とする国民党軍直接率いて事件鎮圧した。 商団事件最中9月北京では第二次奉直戦争発生し、これを契機捉えた孫文は「北伐宣言」を発した。ところが、商団事件により出陣準備手間取っていたため、第二次奉直戦争収束した。しかし、北京政府実権握った馮玉祥張作霖から善後策協議したいとの招請を受け、孫文北上することになった孫文はこの時、商人団の反乱など広東でのクーデター危惧する側近対し、「大丈夫だ広東には腹心蔣介石がいるから」と語ったという。11月12日広東を船で出発した孫文は、北京への途上黄埔軍官学校訪れ蔣介石面会した孫文蔣介石短期間黄埔軍官学校充実させ、軍の育成進んでいることを高く評価したその上で今回北上では広東戻れないことを覚悟しているとも語った蔣介石が「何故そのように弱気になっているのですか」と訝り尋ねると、孫文は「私の説いた三民主義は、この学校学生たちに実行してもらいたい。私は死に場所得ればそれでいい黄埔軍官学校教育見て、彼らにこそ私の命を継いでもらいたい思った」と語ったという。孫文この後香港上海へ渡り日本経由して北京入った。このときが蔣介石孫文今生の別れとなった

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