ソ連訪問
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/09 17:19 UTC 版)
1934年、これまでの活動を党指導部に評価されてソビエト連邦へ派遣され、妻アンリエットと子ども(6歳のアンヌ=マリー、4歳のパトリック)とともに約1年間にわたってモスクワ、レニングラード、ウラル、中央アジア(主にタジキスタン)に滞在した。モスクワではマルクス=エンゲルス研究所を訪れ、『国際文学』誌のフランス語版を編集してソビエト連邦作家同盟の第1回大会(1934年8月)への参加を呼びかけた。大会に参加したジャン=リシャール・ブロック、アンドレ・マルローとはこの後生涯にわたって親交を深めることになった。また、この間の経験については後に『ユーロープ』、『ヴァンドルディ』に随筆や紀行を発表した。 ニザンがソ連に滞在した時期は、同国が対外政策を大きく転換させた時期に相当する。1933年にヒトラー内閣が成立すると、ソ連は日独のファシズム国家との戦いのために英米資本家や社会主義者と協力して統一戦線を結成する方針に転じ、1934年に国際連盟に加盟、1935年のコミンテルン第7回大会で反ファシズム統一戦線の結成を提案することになったからである。ニザンは帰国後に新しいソ連のイメージを伝えるために記事の執筆や講演会の開催に奔走し、『リュマニテ』紙の国際政治欄では米国、ベルギー、アイルランド、ギリシア、ブラジル、日本、ポーランド、アルバニア、ヒトラー内閣、ドイツのラインラント進駐、第二次エチオピア戦争、スペイン内戦など多岐にわたる問題を取り上げ、さらに1935年8月から文学評論欄も担当した。このほか、ニザンは上述の文芸雑誌以外に主に共産党系のグラフ雑誌『ルガール(フランス語版)(まなざし)』、国際政治については『国際通信(Correspondance internationale)』や『現代ロシア(Russie d'aujourd'hui)』などに寄稿し、また、1960年代にマルロー文化相の「文化の民主化」の中核事業となる文化の家(フランス語版)は、当初、革命作家芸術家協会の本部であり、アラゴンが事務総局を務めていたため、ニザンはクルヴェルらとともにアラゴンが企画する文化活動に参加し、講演を行った。
※この「ソ連訪問」の解説は、「ポール・ニザン」の解説の一部です。
「ソ連訪問」を含む「ポール・ニザン」の記事については、「ポール・ニザン」の概要を参照ください。
ソ連訪問
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/23 14:10 UTC 版)
この手紙を受けて、メディアの過熱報道が勃発した。サマンサはテッド・コペルやジョニー・カーソンといった米国の大物ニュースキャスターや司会者からインタビューされ、アメリカの看板ニュース番組に連日登場した。 1983年7月7日にサマンサと両親はモスクワへ旅立ち、アンドロポフの招待客として2週間を過ごした。滞在期間中はモスクワ、レニングラード、及びクリミア半島のグルズフ(英語版)にあるソ連の先駆的な年少者向けキャンプであるアルテク(英語版)を訪問した。 サマンサは後の著書にて、自分と両親はレニングラードでの友好的な歓迎や人々から贈られたプレゼントに感激したと書いている。モスクワの記者会見で彼女はロシア人が「我々と変わらない」 と話している。 アルテクキャンプでは、予め用意されていた高級な部屋で宿泊するのを断り、他のソ連の子供たちと同じ部屋に滞在することを選択した。意思疎通をしやすいように英語が上手な先生や子供たちが彼女と同じ宿泊棟に移るといった配慮がなされた。サマンサは9人の女子部屋に宿泊し、水泳、ロシア語講座、ロシア民謡や踊り等を楽しんだ。この間に彼女は英語が達者でレニングラード出身のナターシャ・カシリーナをはじめ、多くの友人を得ることができた。 しかし、アンドロポフ本人はサマンサと直接会うことができず、代わりに電話で直接言葉を交わした。当時アンドロポフは体調を著しく崩しており、暫く公の場に登場していなかったことが、後に判明した。 また、サマンサはロシア人で世界初の女性宇宙飛行士ワレンチナ・テレシコワとも電話で会話した。しかし、その時のサマンサは相手が誰だかよく理解しておらず、簡単な会話だけですぐに電話を切ってしまった。 メディアはサマンサに密着取材し、彼女の滞在期間中と後まで、彼女の写真や記事はソ連の主要新聞/雑誌によってと連日取り上げられた。このため、サマンサはソ連市民からも広く知られるようになり、その認知も好感的なものに終始した。他方、アメリカではイベントの真偽に対し疑いが浮上し、人々の中には「アメリカ流のやらせ広報活動」と捉える動きもあった。 1983年7月22日に帰国したサマンサは、メイン州の人々から薔薇にレッドカーペットとリムジンで迎えられるほど、彼女の人気は祖国で熱狂的なものとなっていた。一方で批判的な人々は、サマンサ本人にその意思がなくとも、知らずのうちにソ連のプロパガンダの道具(レーニンはかつて、彼女らのような広告塔的存在を「役に立つ愚か者」と評したことがある)として利用されていると主張していた。 1983年12月には、引き続き「最年少親善大使」としてサマンサは日本に招待され、日本の中曽根康弘総理(当時)と会い、神戸で開催された国際子供シンポジウムに参加した。同シンポジウムのスピーチの中でサマンサは、毎年2週間ずつ米ソの代表者が孫を交換することを提案し、そうすれば大統領が「孫が訪問している国を攻撃したくなくなるだろう」と主張した。 彼女のソ連訪問は他の子供親善大使を誘発し、ソ連から11歳のカーチャ・リチョワがアメリカを訪問した。 この後、サマンサは『ソビエト連邦への冒険』という本を著した。 サマンサは引き続き有名人としての役割を果たしていった。1984年にはディズニー・チャンネルの子供向け特別番組『サマンサ・スミスがワシントンへ行く~大統領選挙84~』のホストを務めた。この番組で彼女はジョージ・マクガバーンやジェッシー・ジャクソンといった1984年大統領選挙の候補者にインタビューを実施した。しかしながら、彼女の名声は同時にストーカーを引きつけてしまった。後に女優レベッカ・シェイファーを殺害するに至ったストーカーのロバート・ジョン・バルドは一時スミスをストーキングしていた。 1985年には、サマンサはテレビ連続ドラマ「ライム・ストリート」に俳優ロバート・ワグナーと共に主演した。
※この「ソ連訪問」の解説は、「サマンサ・スミス」の解説の一部です。
「ソ連訪問」を含む「サマンサ・スミス」の記事については、「サマンサ・スミス」の概要を参照ください。
- ソ連訪問のページへのリンク