第二次エチオピア戦争とは? わかりやすく解説

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第二次エチオピア戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/07 05:18 UTC 版)

第二次エチオピア戦争(だいにじエチオピアせんそう)は、1935年から1936年にかけて起きたイタリア王国エチオピア帝国戦争である。


  1. ^ 田岡良一「連盟規約第16条の歴史と国際連合の将来」『法理学及び国際法論集(恒藤博士還暦記念)』(1949年、有斐閣)、336-337頁
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第二次エチオピア戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/05 02:16 UTC 版)

イタリアの軍事史」の記事における「第二次エチオピア戦争」の解説

詳細は「第二次エチオピア戦争」を参照 ファシスト政権下でまず最初に行われた戦争行為は、かつて苦渋を味わわされたエチオピア帝国対す植民地戦争再開であった同国取り巻外交状態は特に変化していなかったし、大義名分という点でも申し分無かった。しかし最大理由ファシスト政権により当初成功していた経済政策世界恐慌によって破綻しつつあった事で、対外的な行動民衆歓心得ようとする政治的判断でもあった。地理的に隣国エリトリア植民地化していた点で兵の展開も容易であった両国ワルワル事件契機武力衝突へと突入し1935年10月3日正規軍数個師団植民地軍国防義勇軍黒シャツ隊からなる遠征軍派遣された。対すエチオピア軍は80名近い大軍召集この内少なくとも半数ライフル銃軍服武装した正規兵で、残りアスカリ呼ばれる民兵であった戦いから3日後にイタリア王国軍は因縁土地であるアドワを攻め落とし順調に進軍続けていった。慎重な用兵を好むエミリオ・デ・ボーノが更迭された後、新司令官にはピエトロ・バドリオ元帥着任したエチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世僅かな望み賭けて大攻勢計画したが、エリトリア植民地兵に僅かな損害与えただけに終わりアドワの戦い再現とはならなかった。メイチュウ戦いでエチオピア主力イタリア王国軍に殲滅されると、セラシエは国外亡命しエチオピア帝国降伏したイタリア王国周辺領地統合して東アフリカ帝国樹立イタリア王ヴィットリオ・エマヌエーレ3世皇帝兼務する同君連合となった

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第二次エチオピア戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 02:33 UTC 版)

ベニート・ムッソリーニ」の記事における「第二次エチオピア戦争」の解説

詳細は「第二次エチオピア戦争」、「イタリア帝国」、および「ファシズム・イタリアにおける帝国主義英語版)」を参照 1934年12月5日エチオピア帝国イタリア領エリトリア・ソマリランドの国境問題巡りイタリアエチオピアとの間で武力衝突発生したワルワル事件)。青年時代から第一次エチオピア戦争復讐望んでいたムッソリーニはこれを契機エチオピアへの植民地戦争再開しエリトリア及びソマリランド駐屯軍遠征準備命じた戦争にあたってムッソリーニ英仏交渉重ねて調整進めていたが、左派労働党国民平和主義運動突き上げられ英仏曖昧な態度取り最終的にリベラル寄りスタンリー・ボールドウィン英首相と、反ファシストであった外務副大臣アンソニー・イーデンの強い主張通ってエチオピア側に立ったイーデン外交姿勢ストレーザ戦線主導するなど旧協商国寄りであったムッソリーニドイツへ接近させる結果生み出し、この点において親ファシストであった外相サミュエル・ホーア、ウィンストン・チャーチルイギリス王エドワード8世考えとは対照的だった。特にイーデンの上位となる英外相ホーアファシスト運動初期段階から後援していたムッソリーニ旧友であり、「仮に経済制裁が行われても決し石油禁輸行わない」と約束していた。 1935年10月2日ムッソリーニ外交交渉切り上げることを決意しヴェネツィア宮からエチオピア帝国への宣戦布告演説行った。 この数ヶ月間というもの、運命歯車は常に我々の澄み切った判断動かされ、本来それが目指すべき所へ向かってきた。…エチオピア帝国に対して我々は40年忍耐重ねてきたが、それはもう沢山だ経済制裁に対してイタリア規律節約犠牲持ってうだろう軍事制裁に対して兵力持って戦争には戦争をもってうだろう1935年10月11日国際連盟イタリア対す経済制裁求め決議行い反対票を投じたオーストリアハンガリーアルバニアパラグアイを除く加盟国賛成可決されたが、石油制裁から外すという譲歩示された。イーデン石油禁輸主張して国内キャンペーン展開するなど侵略反対貫いたが、ファシズム好意的だったフランスピエール・ラヴァル政権禁輸反対した。そもそも国際連盟にはアメリカ加盟していないので、貿易路が封鎖されなければいくらでも物資輸入可能だった。それでも経済制裁イタリア経済市民生活については少なくない悪影響与え自給率上げるアウタルキア(自給自足経済)の構築進められた。 イタリアとの和解目指す外相ホーアと仏首相ラヴァルは、エチオピアに対してイタリアへ大幅な領土割譲要求するホーア・ラヴァル協定纏めボールドウィン英首相も一旦はこれを受け入れた。だが労働党国民猛烈な政府批判繰り広げ総選挙控えていたボールドウィン協定破棄してホーア辞任追い込まれた。代わって外相昇格したのがイーデンであり、外相となってからは石油禁輸どころかスエズ運河封鎖まで主張する至っている。イタリア国内ではボーア戦争戦争犯罪取り上げた報道が行われるなど反英主義的が隆盛して、紅茶など「イギリス的な物」はアウタルキアの一環として禁止された。「イタリアで最も憎まれた男」であるイーデン至ってイタリア中から悪罵され、イーデンEden)と同じ綴りとなる全ての地名変更された。こうした排外主義イタリア国民の愛国心継戦意思強め結果もたらし戦争止める上で逆効果だった。「52カ国の包囲」と呼ばれた国際的な孤立ヴェルサイユ条約以来国際外交反感持っていたイタリア国民からは「国益を守る戦い」と受け取られ国家への忠誠心が最も高まったローマ帝国最大領域イタリア帝国主義主張していた領域 前線戦いエミーリオ・デ・ボーノ陸軍元帥ピエトロ・バドリオ陸軍元帥ロドルフォ・グラツィアーニ陸軍大将らが指揮執り開戦からすぐに因縁土地アドワを占領している。冬の時期迎えると一時的に進軍停滞したが、1936年春に行軍再開される同年中にエチオピア全土制圧した1936年5月2日敗北したエチオピア皇帝ハイレ・セラシエ特別列車ジブチ逃亡図り、これを空軍部隊補足したグラツィアーニ列車攻撃する予定だったが、ムッソリーニ提案却下したイタリア側の死傷者本国兵士2500名、植民地兵(アスカリ)が1600名と軽微であった戦闘ではピエトロ・バドリオ元帥主張によって毒ガス使用されたが軍事的な効果限定的で、元よりハーグ陸戦条約違反ダムダム弾使用兵士遺体損壊)への報復として使用している。併合されエチオピア帝国帝位宣言通りエマヌエーレ3世兼任し、後に旧エチオピア帝国領は周辺イタリア植民地合同されてイタリア領東アフリカ再編された。 1936年5月5日ヨーロッパ系植民者達から歓声を受けつつ、白馬乗ったバドリオ元帥首都アディスアベバ入城し戦争終結した同日夜、ヴェネツィア宮大広場集まった国民向けてムッソリーニは「エチオピア帝国への戦勝」と「サヴォイア家皇帝称号を得る」という二つ輝かし出来事報告した熱狂する国民前に諸君らはそれに値するか?』とムッソリーニ問いかけると、『そうだ!』(Si、スィ)との大歓声何度も上がった続いて自らの主君であるヴィットーリオ・エマヌエーレ3世今日持って王から皇帝となり、ローマ帝国以来となる「イタリアにおける帝国復活」も宣言したイタリア帝国、Impero Italiano)。 戦争反対論を掲げていたイギリスボールドウィンイーデン戦い長期化するという読み外れて面目を失い保守党政権イタリア支持してきたネヴィル・チェンバレンウィンストン・チャーチルらが力を持ち始めたチャーチルイーデンスエズ運河封鎖計画反対し、ボールドウィン後継首相に考えていたチェンバレン制裁解除求め演説行っている。また戦争終結直前駐英大使ディーノ・グランディ謁見したエドワード8世も、「イタリア戦勝対す心から喜び」を示したという。周囲意見屈したイーデン国際連盟で「もはやいかなる有用性もない」として制裁解除求め7月15日国際連盟経済制裁解除した国家ファシスト党初期段階から唱えていた拡張主義生存圏理論である不可欠領域イタリア語版)を求め動きは、ローマ帝国時代思い出させるイタリア帝国」の成立によって勢い増した。ただしイタリア帝国主義目標地中海圏の統合ではなくエジプトから西アフリカバルカン半島西部東地中海島々現状飛び地を結ぶ構想であった1938年3月30日には帝国全体統帥権として帝国元帥首席Primo maresciallo dell'Impero)が創設された。ムッソリーニ帝国元帥首席ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世共同就任することで実質的に統帥権分与されている。またヴィットーリオ・エマヌエーレ3世からは公爵への叙任提案されたが、「私は今迄通りベニート・ムッソリーニであります陛下」と返答して爵位辞退し代わりに帝国創設者イタリア語: Fondatore dell'Impero、フォンダトーレ・デッリンペーロ)」の名誉称号与えられている。

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第二次エチオピア戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/13 15:14 UTC 版)

ロドルフォ・グラツィアーニ」の記事における「第二次エチオピア戦争」の解説

1935年10月3日、第二次エチオピア戦争が発生した時点グラツィアーニソマリランド総督任期中であった為、そのままエリトリア・ソマリランド方面軍司令官兼務してエミーリオ・デ・ボーノ陸軍元帥指揮下でエチオピア帝国西方からの侵攻担当したグラツィアーニオガデン州への進軍行いドイツ軍ヒンデンブルク線参考トルコ軍援助建設され要塞線「ヒンデンブルク壁」立て篭もるエチオピア帝国軍と対峙した。開始されオガデン戦い英語版)ではエチオピア帝国軍の抵抗退けて要塞線を突破オガデン州を制圧し首都アディスアベバへの追撃開始した同年12月過度に慎重なデ・ボーノ元帥更迭されバドリオ元帥後任遠征軍総司令官となり、デ・ボーノ元帥とは正反対に積極的な攻勢命じバドリオ元帥毒ガス戦略爆撃厭わない強行軍で軍を進ませ、メイチュウ戦いでエチオピア帝国主力殲滅した。1936年5月5日オガデン制圧後は北方進んでいたグラツィアーニ一足先に首都アディスアベババドリオ元帥入城し戦争終結したとの報告受けた。既に元帥就任時に侯爵位を与えられていたバドリオ元帥アディスアベバ公(duca di Addis Abeba)に昇爵する名誉に与ったが、手柄横取りされた形となるグラツィアーニに対してサヴォイア家からネゲッリ侯(Marchese di Neghelli)の爵位与えられた。1936年5月9日、伊領ソマリランドと伊領エリトリア、旧エチオピア帝国領を統合して伊領東アフリカ帝国建国されソマリランド総督任務終えたグラツィアーニ陸軍元帥昇格これまで上官であったバドリオ元帥やデ・ボーノ元帥らと並ぶ地位得た

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第二次エチオピア戦争(1935-1936)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 08:13 UTC 版)

軍用売春宿」の記事における「第二次エチオピア戦争(1935-1936)」の解説

イタリアエチオピア併合すると(第二次エチオピア戦争)、進駐するイタリア軍兵士イタリア人労働者為に売春宿各地作られた。軍が売春宿運営していたという報告もある。 イタリア人労働者向けに、移動売春宿「ビーナスカー」を設け計画もあったが、こちらは実現しなかった。

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第二次エチオピア戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 08:28 UTC 版)

エチオピアの歴史」の記事における「第二次エチオピア戦争」の解説

エリトリアイタリア軍エミーリオ・デ・ボーノ元帥指揮の下、1935年10月3日エチオピア国境侵犯し領内突入したそのうち一軍はアドワに向かい爆撃駆使してそこを占拠する。この時、エチオピア国際社会に対してイタリア仕掛けた戦争印象づけるために防衛行動行わず、アドワから南方へと移動していた。イタリア軍エチオピア軍が駐屯するマクァレに向けてさらに前進する。しかし、デ・ボーノの北イタリア軍は現地傭兵である不正規兵用いていたために練度低く指揮官性格もあって慎重な攻防戦続いた。この遅滞は、国際連盟石油輸出制裁可決される前に戦争を終わらせたいムッソリーニにとってはもどかしく感じられエチオピア軍のダムダム弾使用乗じて1925年ジュネーブ協定禁止され毒ガス使用促す。だが、デ・ボーノは毒ガス使用難色示し、かつ補給線延びきっている危険性から作戦変更求めたため、名誉を損なわない形で前線から外される代わりに司令官となったピエトロ・バドリオ航空機毒ガス広く散布し兵士のみならず一般市民大きな打撃与えた上でマクァレを占領しティグレ勢力圏組み入れたまた、アドワとマクァレの中間地点のタンベン・テンビエンにおいてイタリア軍エチオピア陸相ムルゲタの軍との戦いとなり、エチオピアから三方面を包囲されかけたが、毒ガスによって相手足止めし、ムルゲタの本隊集中的に狙いうつことでこれを撃破した。さらに追撃最中にムルゲタを殺害してアドワにおける敗戦溜飲を下げる双方決戦となったのは、マイチャウの町における攻防戦だった。この戦いにおけるイタリア軍攻撃は、ほぼ虐殺等しかった上空からマスタードガス撒きちらされ、肌が爛れる激痛抗戦力を失ったマイチャウの町に、イタリア軍執拗に爆撃銃撃加える。兵士市民次々と倒れていき、生き残った者には爆風舞い上がって液化したマスタードガス降り注いだ。その上マイチャウ近くのデシェの病院重点的に爆撃された。これが後にハイレ・セラシエが「最大悲劇」と語る殲滅戦だった。エチオピア北部展開したエチオピア軍は壊滅しタナ湖畔に逃れたハイレ・セラシエ兵力はすでに5,000人を切っていた。これは首都アディスアベバ防衛どころか皇帝ハイレ・セラシエの安全すら保障できない兵力であり、アディスアベバ議会皇帝イタリア軍から離れるように懇願したハイレ・セラシエ4月30日アディスアベバに戻ると、一族側近連れて5月2日首都を後にした。皇帝フランス領ソマリランド逃げ込むと、ロンドンへ向けて出航するハイレ・セラシエには、毒ガス使用戦争不当さ国際世論直接訴えかける方法での抵抗選んだのだが、エチオピア国内残って敵を迎え撃つ将兵諸侯一部にとって、それは祖国放棄に他ならなかった。そのため、ハイレ・セラシエ対する不満は諸侯の間に暗い影後々まで落とすことになる。また、軍隊指導者消滅アディスアベバ混沌落としいれ、統制失ったエチオピア兵士市民によって大規模な略奪暴動発生した5月5日イタリア軍アディスアベバ入城を果たす。まずイタリア軍がしたことは、武力抵抗したもの、皇帝保護優遇されたもの、暴動加わったもの、武器捨てないものを捕らえて処刑することだった。 このパドリオ北部戦線対しソマリアから西に進んでいたグラツィアーニの軍は近代化されイタリア本国部隊中心であったため、通常の戦術エチオピア軍を圧倒していた。エチオピア東部に住むオロモ人からも協力得て5月8日にはハラール占領しイタリア初期軍事目標であるエチオピア3分の1該当する北部東部制圧達成した。しかし、未だ各所には抵抗するエチオピア軍と諸侯存在し、そのためにエチオピア当初の目的であった移民活動について遅々として進まなかった。 アディスアベバハラール制圧と時をおかず、5月9日イタリアエリトリアイタリア領ソマリランドエチオピアの三か国にわたるイタリア領東アフリカ帝国建国宣言した。その皇帝にはイタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世即位しエチオピア皇帝習ってネグサ・ナガスト(諸王の王)を名乗った

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第二次エチオピア戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 02:23 UTC 版)

エチオピア軍事史」の記事における「第二次エチオピア戦争」の解説

1935年10月3日ファシストイタリア王国イタリア領エリトリアイタリア領ソマリランドからエチオピア帝国侵攻したエチオピア人は禁止されダムダム弾使用し捕虜兵士切り刻んだが、イタリア人多く戦闘化学兵器使用した。 第二次エチオピア戦争、スペイン内戦満州事変は、しばしば第二次世界大戦前触れとして、国際連盟無力さを示すものとして見られている。1941年には、数年占領の後皇帝ハイレ・セラシエ1世は、現在イタリア領東アフリカ呼ばれているものに戻ってきた。イギリス助け借りて皇帝ゲリラ戦の後、イタリア軍を国から追い出すための反抗導いた

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第二次エチオピア戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/12 15:25 UTC 版)

エチオピア戦争」の記事における「第二次エチオピア戦争」の解説

詳細は「第二次エチオピア戦争」を参照 領土拡大を図るイタリアはドゥーチェ・ムッソリーニの指導の下、国境紛争口実に再びエチオピア侵攻した数十年の間に近代的装備失いつつあったエチオピア軍に圧勝し皇帝ハイレ・セラシエ1世亡命しイタリア国王エチオピア皇帝兼任した1941年イギリス軍イタリア軍駆逐するハイレ・セラシエ帰国し、軍の近代化進めることとなる。

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第二次エチオピア戦争

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イタリア領東アフリカ」の記事における「第二次エチオピア戦争」の解説

しかし、イタリアアフリカにおいてイタリアソマリアエリトリアリビアの3ヶ所しか植民地保有していなかったため、再度エチオピア獲得目指した。1934年エリトリアエチオピア国境発生した銃撃戦は、いったん和平交渉の形をとったものの、1935年10月2日ベニート・ムッソリーニエチオピア侵略開始。これを第二次エチオピア戦争という。エリトリアソマリランドから進入し1936年5月5日にはエチオピア首都アディスアベバ陥落5月9日にはイタリアソマリアエリトリア併せ東アフリカ帝国エチオピア帝国)が建国されイタリア国王であったヴィットーリオ・エマヌエーレ3世がその皇帝(ネグサ・ナガスト Nəgusä nägäst, 王の中の王意味するとなったまた、エチオピア侵攻の際総司令官だったピエトロ・バドリオ副王イタリア語で「Viceré」イタリア領東アフリカ6州連合最高位植民地高官意味しエチオピア占領した1936年5月5日から、最後イタリア人行政官連合国降伏した1941年11月27日まで「高等弁務官ではなく副王及び総督」と呼ばれた)、次いでアディスアベバ公爵任じられた。 エチオピア1923年国際連盟加入していたため、エチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世連盟援助要請した。しかし、連盟加盟国間での意見一致しなかった。ソビエト連邦イタリア行為侵略認めたが、当時共産主義国であったソ連対立していたイギリスフランスイタリアとの戦争恐れイタリア行為承認結局連盟採決イタリア処罰しないというものになったその後イタリア人移住する入植推進が始まる。イタリアアディスアベバの町をイタリア領東アフリカ首都とし、道路網の建設農業プランテーション育成軽工業中心とした工場建設進めた銀行制度や独自通貨発行郵便制度なども整備したしかしながら、特にエチオピア地域反発強く植民地経営中々上手くいかなかった。

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