おう‐しょう〔‐セウ〕【応召】
おう‐しょう〔‐シヤウ〕【応唱】
おう‐しょう【応鐘】
おう‐しょう〔ワウシヤウ〕【王将】
読み方:おうしょう
1 将棋の駒(こま)の一。大将に相当する駒で、上下左右と斜めの八方に1間(けん)ずつ動ける。この駒が攻められて動けなくなったとき負けとなる。ひと組の駒には王将と玉将(ぎょくしょう)があり、王将は上手(うわて)または後手(ごて)が用いる。王。
おうしょう〔ワウシヤウ〕【王将】
読み方:おうしょう
北条秀司の戯曲。明治から昭和初期に活躍した将棋棋士、坂田三吉の半生を描く。伊藤大輔監督によって映画化されており、昭和23年(1948)公開の阪東妻三郎主演版と、昭和37年(1962)公開の三国連太郎主演によるリメーク版がある。
おう‐しょう〔アウシヤウ〕【×鞅掌】
王商
王象
オウショウ | ||
幼くして父を失い、奴隷として幷州に売り飛ばされた。十七・八歳まで羊飼いとしてこき使われていたが、人の目を盗んでは書物を読み、見つかっては笞で打たれていた《楊俊伝》。同郡の楊俊は彼を見るなり才能と性質を褒め、すぐさま身請けしてやり、住む家と嫁とを用立ててやってから立ち去った《楊俊伝》。 のちに幷州刺史梁習が王象・楊俊・荀緯らを推挙したので、曹操は彼らを県長に取り立てた《常林伝》。荀緯らとともに曹丕の礼遇を受け、王粲・陳琳・阮瑀・路粋らの没後では、後進のうち王象の才覚が抜群であった《楊俊伝》。 魏が天下を領有すると散騎侍郎に任じられ、散騎常侍に昇進して列侯に封ぜられる。詔勅によって『皇覧』を編纂することになり、秘書監を兼務した。延康元年(二二〇)に着手して数年で完成したが、都合四十部余り数十篇となり、秘書府に所蔵された《楊俊伝》。王象は温厚な性質であったうえ、さらに優雅な文彩も兼ね備えており、京師の人々は「儒宗」と称賛した《楊俊伝》。その文才は尚書衛覬と並び称される《衛覬伝》。 黄初三年(二二二)、文帝曹丕は南陽の宛に巡幸し、あらかじめ「百官は郡県に干渉せぬよう」と詔勅を出しておいた。宛の県令は詔勅を誤解し、市場の門を閉ざし(市民の往来を禁じ)た。御車が宛に到達すると、ひっそりと静まりかえっている。文帝は「吾(わたし)は盗賊なのかね!」と激怒し、南陽太守楊俊を県令とともに逮捕した《楊俊伝》。 楊俊が罪を免れないと思い、王象は司馬懿・荀緯とともに罪一等の減免を請願し、土下座して床に頭を叩き付け、顔中を血に染めた。帝は答えず、放っておいて禁中に入ろうとしたので、王象は帝の御服を引っ張った。帝は振り返って言った。「我(わたし)は楊俊と卿(あなた)との一部始終を知っておる。いま卿の言う通りにすれば、我が存在しないことになろう。卿は楊俊を無視するのか、我を無視するのか!」、と。帝の言葉の激しさに、王象は手を引いてしまった《楊俊伝》。 裁決が下り、楊俊は処刑された。王象は楊俊を救うことができなかったことから自分を責め、とうとう病気になって死んでしまった《楊俊伝》。 【参照】衛覬 / 王粲 / 阮瑀 / 司馬懿 / 荀緯 / 曹操 / 曹丕 / 陳琳 / 楊俊 / 梁習 / 路粋 / 宛県 / 河内郡 / 魏 / 南陽郡 / 幷州 / 県長 / 散騎常侍 / 散騎侍郎 / 刺史 / 尚書 / 太守 / 秘書監 / 列侯 / 皇覧 / 儒宗 / 領(兼務) |
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