thee michelle gun elephant 来歴

thee michelle gun elephant

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/11/20 05:55 UTC 版)

来歴

1991年明治学院大学のサークル「ソング・ライツ」内にて結成。結成時のメンバーは現行メンバーとほとんど異なっており、一致するのはチバのみである。

同学の学園祭で行われたライブを観覧していたクハラがチバに「おまえの後ろでたたかせてほしい」と申し出たため、当時のドラムス担当をクビにした上で[4]メンバーに加入することとなった。その後、ベース担当のメンバーが脱退し、クハラと親交の深かった[4]ウエノが後任のベーシストに選ばれた。

1991年4月3日下北沢屋根裏にて初ライブハウス公演[3]。以後、東京内を中心にライブ活動を開始。

1993年11月25日、初音源となるライブアルバム『MAXIMUM! MAXIMUM!! MAXIMUM!!!』をUKプロジェクトからリリース。ライブを重ねるごとに徐々に動員を増やしていくなか、シガがメンバーから脱退、一時は解散の危機を迎えた。以後しばらくは3人編成のままライヴ活動を継続した。

1994年1月24日、メンバーが敬愛するドクター・フィールグッドの元ギタリストであるウィルコ・ジョンソン渋谷クラブクアトロでのライブにて、オープニング・アクトを務める。6月25日[3]、知人の仲介によりアベが加入し現行メンバーが揃う。

1996年日本コロムビア内のレーベルであるトライアドよりシングル「世界の終わり」にてメジャー・デビュー。以降作品を次々リリースし、1997年にリリースしたシングル「バードメン」が、テレビ番組のオープニングテーマに起用されヒット。

1998年東京豊洲で行われたフジ・ロック・フェスティバルに出演。激しいモッシュが巻き起こり安全のために何度か演奏が中断されるほどの白熱したライヴを披露した。同年、4thアルバム『ギヤ・ブルーズ』をリリース。直後、ホール・アリーナクラスでありながらオールスタンディング仕様で行われたツアー『WORLD PSYCHO BLUES TOUR』を実施。このツアーのファイナルの会場は横浜アリーナが選ばれ、横浜アリーナとしては前代未聞のオール・スタンディング・ライブを開催。チケットは即完売となり、観客の動員人数は延べ1万5000人であるとされている。当日観客席にいたロッキング・オン社長の渋谷陽一はこの光景を見て「音楽評論家を始めて30年、いつか日本にもこういう日が来るのではと夢見てきたが、本当に来た、と思わず涙ぐみそうになった」と心情を表した[5]。また、その後数か月間、ファンがペットボトルをステージ上に投げ入れることによってライブが中断するなどの妨害がしばらく続いていた。

2001年3月1日、ザ・パイレーツのメンバーであるミック・グリーンの来日時にアベ、ウエノ、クハラの3人がセッション。その際にレコーディングした曲をMICK GREEN with THEE MICHELLE GUN ELEPHANT名義にてシングル「KWACKER」としてリリースした。また、同年にリリースされた6thアルバム『ロデオ・タンデム・ビート・スペクター』の発売日である5月23日に東京代々木公園にてフリーライブ『TMGE YOYOGI RIOT 2001523』を開催。当日の午前0時から会場の情報が解禁されたが、朝から体育館前には長蛇の列ができ、雨天の中2万人を動員しライブを成功させた。その後、一時的に活動が休止され、ライブや作品発表が途絶える。

2003年、所属レコード会社ユニバーサルミュージック内のレーベルであるユニバーサルシグマに移籍し活動が再開された。7thアルバム『SABRINA HEAVEN』と8thアルバム『SABRINA NO HEAVEN』を連続リリースし、皮切りに6月27日ミュージックステーション』に出演。『SABRINA NO HEAVEN』収録曲の「デッドマンズ・ギャラクシー・デイズ」を演奏した。その際、この日共演したゲスト、t.A.T.u.が生放送中に出演を放棄するというハプニングが発生。既に演奏を終えていたTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTは埋め合わせとして急遽「ミッドナイト・クラクション・ベイビー」を番組の最後に追加で演奏した。

8月31日、ファンクラブ会員へ向けた封書で解散を通知。9月1日には自身の公式ウェブサイトにて正式に発表される。ラストツアー『LAST HEAVEN TOUR』の最終日である10月11日、15thシングル「エレクトリック・サーカス」の発表と同時に幕張メッセで約37000人を動員したライブをもって活動に幕を下ろした[6]。解散後は、メンバーそれぞれが様々なバンド、ユニットにて音楽活動を継続した。

2009年7月22日、アベが急性硬膜外血腫のため急死。これを受けて2009年末から2010年初頭にかけて、アベフトシ追悼プロジェクト「FOREVER MICHELLE -Final works of rockin' blues-」が始動。ベストアルバム、DVD-BOXの発売に加え、ラストライブを編集した映画公開、ラストツアーでのステージショットの上映が行われた[7]




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  1. ^ 1997年5月6日放送「ミュージックスクエア (NHK-FM)」ゲスト出演時におけるウエノの発言より。
  2. ^ チバユウスケ『ROCKIN'ON JAPAN』1998年2月号、ロッキング・オン、1998年2月。
  3. ^ a b c rockin' blues.com. “rockin' blues.com” (日本語). THEE MICHELLE GUN ELEPHANT公式ウェブサイト. 2008年2月1日閲覧。
  4. ^ a b J-ROCKmagazine編集部「Web版バックナンバー・アーカイブ」『J-ROCKmagazine』1997年12月号、株式会社ジェイロックマガジン社、1997年。
  5. ^ 渋谷陽一 (2001年6月16日). “風格とクールな自覚 ミッシェル・ガン・エレファント公演” (日本語). 渋谷陽一の部屋. ロッキング・オン. 2003年6月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年10月11日閲覧。
    横浜アリーナライブの模様はライブビデオ『WORLD PSYCHO BLUES』にて鑑賞することが可能である。
  6. ^ BARKS (2003年10月14日). “ミッシェルガンエレファント、幕張で解散ライヴ” (日本語). BARKS. アイティメディア株式会社. 2010年10月11日閲覧。
  7. ^ プロジェクト特設サイト
  8. ^ [1]2009年9月2日付の日記より
  9. ^ 後藤正文 『ゴッチ語録 GOTCH GO ROCK』 ぴあ、2006年3月17日。ISBN 978-4835616131
  10. ^ 椎名宗之、9mm Parabellum BulletWeb版バックナンバー」『Rooftop』2007年5月号、有限会社ルーフトップ、2007年5月、2010年10月11日閲覧。
  11. ^ 梶原有紀子; the pillows (2004年11月4日). “勢いとポップセンスが同居!『GOOD DREAMS』特集【インタヴュー】” (日本語). BARKS. アイティメディア株式会社. 2010年10月11日閲覧。
  12. ^ [2]ランクヘッドBLOG 2010年10月25日
  13. ^ [3]公式サイトのプロフィール欄より
  14. ^ [4]9mm Parabellum Bulletブログ 2009年7月22日
  15. ^ [5]
  16. ^ [6] 公式サイトの「DIARY」より 2003年10月14日
  17. ^ マキシマムザホルモン. “マキシマムザ亮君”. マキシマムザホルモン公式ウェブサイト. 2010年10月11日閲覧。
  18. ^ Base Ball Bear; 湯浅将平. “メンバー詳細プロフィール”. Base Ball Bear公式ウェブサイト. 2007年12月15日閲覧。



THEE MICHELLE GUN ELEPHANT

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/14 06:09 UTC 版)

来歴

アマチュア時代

明治学院大学のバンドサークル「ソング・ライツ」内にて結成される。結成時のメンバーは現行メンバーとほとんど異なっており、一致するのはチバのみである。クハラとウエノは学内にあった「世界民族音楽研究会」という別のバンドサークルに所属していた。

1990年11月、明治学院大学の学園祭「白金祭」で行われたライブを観覧していたクハラがチバに「おまえの後ろで叩かせてほしい」と申し出たため、当時のドラムス担当をクビにした上で[6]メンバーに加入することとなった。その後、ベース担当のメンバーが脱退し、親交の深かった[6]ウエノが後任のベーシストに選ばれた。当時ウエノは広告代理店への就職が内定していたが、これを辞退して音楽の道を選んだ。

1991年4月3日、下北沢屋根裏にて初ライブハウス公演[4]。以後、下北沢や渋谷のライブハウスを中心に本格的な活動を開始。多くの資料は、この1991年をバンドの結成年としている。同年11月3日、相模女子大学の学園祭で初の野外ライブを行う。1992年8月23日、「NTTテレフォンフェスティバル」というイベントに参加。

インディーズ時代

1993年UKプロジェクトに所属する。同年11月25日、初音源となるライブ・アルバム『MAXIMUM! MAXIMUM!! MAXIMUM!!!』を同レーベルからリリース。ライブを重ねるごとに徐々に動員を増やしていく中、シガがメンバーから脱退、一時は解散の危機を迎えた。以後しばらく3人編成のままライブ活動を継続した。

1994年1月24日、メンバーが敬愛するドクター・フィールグッドの元ギタリストであるウィルコ・ジョンソン渋谷クラブクアトロでのライブにて、オープニング・アクトを務める[7]

しかし、その年の春にクハラが就職のため帰郷。6月に知人の仲介によりギタリストアベフトシが加入。この時期のクハラは週末に北海道から上京し、在京メンバーと合流してライブに出演していた。

1995年1月、クハラが北見市役所を10ヶ月で退職し東京に戻ってくる。この頃にマネージャーと出会い、ようやくメジャー・デビューへの足掛かりを掴む。10月21日にインディーズレーベルからミニアルバム『wonder style』をリリースした後、ロンドンで1stアルバムのレコーディングを行う。またミニアルバム発売記念として、8都市10公演の「wonder style tour」を開催した。

日本コロムビア時代

1996年2月1日、日本コロムビア内のレーベルであるトライアドよりシングル世界の終わり」にてメジャー・デビュー。1か月後の3月1日にメジャー初のアルバム『cult grass stars』をリリースした。1997年10月21日、シングル「バードメン」をリリース。「ぷらちなロンドンブーツ」のオープニングテーマにも使われヒットする。

1998年8月には東京豊洲で行われたフジロックフェスティバルに出演。激しいモッシュが巻き起こり安全のために何度か演奏が中断されるほどに白熱したライヴを披露した[8]。同年11月に4thアルバム『ギヤ・ブルーズ』をリリース。直後、ホール・アリーナクラスでありながらオールスタンディング仕様で行われたツアー『WORLD PSYCHO BLUES TOUR』を実施。このツアーのファイナルの会場は横浜アリーナが選ばれ、横浜アリーナとしては前代未聞のオール・スタンディング・ライブを開催。チケットは即完売となり、観客の動員人数は延べ1万5000人であるとされている。当日観客席にいたロッキング・オン社長の渋谷陽一はこの光景を見て「音楽評論家を始めて30年、いつか日本にもこういう日が来るのではと夢見てきたが、本当に来た、と思わず涙ぐみそうになった」と心情を表した[9]

1999年、ツアーを終えたバンドは国内のみならずイギリスやアメリカも廻る『WORLD GEAR BLUES TOUR』を実施。その間にもライジング・サン・ロックフェスティバルおよび各種イベントに参加し精力的なライブ活動を展開した。2000年にはシングル『GT400』、アルバム『カサノバ・スネイク』のリリースを経て、ヨーロッパを廻る『TMGE EUROPE TOUR 2000』を実施。帰国後『WORLD CASANOVA SNAKE TOUR』を開催したが、ファンがペットボトルをステージ上に投げ入れるなどの妨害でにライブが中断するという逆境に数ヶ月間見舞われた。しかしツアー終了後の『FUJI ROCK FESTIVAL』では、二日目のグリーンステージのトリを飾る。その後、シングル『ベイビー・スターダスト』をリリース。

2001年3月1日、ザ・パイレーツのメンバーであるミック・グリーンの来日時にアベ、ウエノ、クハラの3人がセッション。その際にレコーディングした曲を「MICK GREEN with THEE MICHELLE GUN ELEPHANT」名義のシングル「KWACKER」としてリリースした。5月23日、6thアルバム『ロデオ・タンデム・ビート・スペクター』発売と同時に代々木公園にてフリーライブ『TMGE YOYOGI RIOT 2001523』を開催。当日の午前0時から会場の情報が解禁されたが、朝から体育館前には長蛇の列ができ、雨天の中2万人を動員しライブを成功させた。その後アルバムを引っさげて行われた全国ツアー『RODEO TANDEM BEAT SPECTER TOUR』は6月から11月までの間、国内32ヶ所で43公演をこなす長いツアーとなった。また、7月から8月にかけてはツアーと並行して全国のロックフェスにも出演。ツアー終了後は一時的に活動が休止され、ライブや作品発表が途絶える。休止中の2002年3月1日、DVD「GOD JAZZ TIME」がリリースされた。

ユニバーサルミュージック時代

2002年7月1日付でユニバーサルミュージック内のレーベルであるユニバーサルシグマに移籍し活動再開。フェス等に出演後、9月6日から「Where is Susie? TOUR」がスタート。12月25日、トライアドからのベスト・アルバム『THEE MICHELLE GUN ELEPHANT GRATEFUL TRIAD YEARS』をリリース。同日、ユニバーサルミュージック移籍後初のシングル『太陽をつかんでしまった』をリリース。

2003年、7thアルバム『SABRINA HEAVEN』と8thアルバム『SABRINA NO HEAVEN』を連続リリースし、4月からは『WILD WILD SABRINA HEAVEN TOUR』を実施。『SABRINA NO HEAVEN』はリリース前であったが、収録曲はツアーで演奏された。6月27日ミュージックステーションに初出演し、『SABRINA NO HEAVEN』収録曲の「デッドマンズ・ギャラクシー・デイズ」を演奏。その際の別のゲスト、t.A.T.u.が生放送中に出演を放棄するというハプニングが発生。既に演奏を終えていたTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTが埋め合わせとして急遽「ミッドナイト・クラクション・ベイビー」を番組の最後に追加で演奏した[10]。しかし人気絶頂と思われた矢先の同年8月31日、ファンクラブ会員へ向けた封書で解散を通知。翌9月1日には自身の公式ウェブサイトにて正式に発表される。発表後の9月5日、ミュージックステーションに再び出演し「エレクトリック・サーカス」を演奏したが、これが最後のテレビ出演となった。

ラストツアー『LAST HEAVEN TOUR』の最終日である10月11日、16thシングル「エレクトリック・サーカス」の発表と同時に幕張メッセで約37000人を動員したライブをもって、バンドはその活動に幕を下ろした[11]

解散後の動き

解散後は各々が様々なバンド・ユニットにて活動を継続していたが、2009年7月22日にアベが急性硬膜外血腫のため急死。これを受け2009年末から2010年初頭にかけて、アベフトシ追悼プロジェクト「FOREVER MICHELLE -Final works of rockin' blues-」が始動。ベストアルバム、DVD-BOXの発売に加え、2003年、幕張メッセでのラストライブを編集した映画、『ミッシェル・ガン・エレファント "THEE MOVIE" -LAST HEAVEN 031011-』とラストツアーでのステージショットの上映が行われた[12]

2013年4月27日ARABAKI ROCK FESTルースターズのドラマー池畑潤二が主宰するユニット「BIG BEAT CARNIVAL A GO GO produced by JUNZI IKEHATA」にてチバ、ウエノ、クハラが揃って同じステージに立つ。(他に大江慎也百々和宏etcも参加)同年、9月25日、10年前の同日に行われた解散ツアー・京都磔磔でのライブ映像を完全収録したDVD&Blu-ray「BURNING MOTORS GO LAST HEAVEN Ⅱ LAST HEAVEN TOUR 2003.09.25 at Kyoto TAKUTAKU」をリリース。映像は再編集、音源は再トラックダウンが施されている。また、このリリースに合わせて発売日当日には京都磔磔でスクリーン・ライブ「磔磔再見」が行われた。

2015年5月、ラストツアー『LAST HEAVEN TOUR』で撮影された写真、全400ページの写真集『THEE MICHELLE GUN ELEPHANT −LAST HEAVEN−』(赤々舎)が刊行された。

2016年7月、解散以来初めて、チバがTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTの楽曲を歌唱。Midnight Bankrobbersとして、猪苗代湖畔で行われる音楽フェス「オハラ☆ブレイク」に出演し、『GT400』を約13年ぶりに歌唱した[13]

2023年11月26日、同年4月に食道がんを公表し、以降音楽活動を休止し療養していたチバが死去。これを受け、映画『ミッシェル・ガン・エレファント "THEE MOVIE" -LAST HEAVEN 031011-』が再び全国で上映された[14]

2024年4月27日に開催されたARABAKI ROCK FESTの「BIG BEAT CARNIVAL 〜ロックンロールの夢〜」にて、ウエノ、クハラが同じステージに立つ。The Birthdayフジイケンジがギター、奥田民生がボーカルを担当し、『世界の終わり』を演奏した[15]


  1. ^ a b c d e THEE MICHELLE GUN ELEPHANT(ザ・ミッシェル・ガン・エレファント)の情報まとめ”. OKMusic. ジャパンミュージックネットワーク株式会社. 2021年6月14日閲覧。
  2. ^ a b c d Spano, Charles. Thee Michelle Gun Elephant | Biography & History - オールミュージック. 2021年6月14日閲覧。
  3. ^ ミッシェル・ガン・エレファント - プロフィール”. CDJournal. 株式会社シーディージャーナル. 2021年6月14日閲覧。
  4. ^ a b rockin' blues.com. “rockin' blues.com”. THEE MICHELLE GUN ELEPHANT公式ウェブサイト. 2008年2月1日閲覧。
  5. ^ 【訃報】モッズスーツ「洋服の並木」店主が逝去”. FASHIONSNAP [ファッションスナップ] (2011年5月14日). 2016年8月23日閲覧。
  6. ^ a b J-ROCKmagazine編集部「Web版バックナンバー・アーカイブ」『J-ROCKmagazine』1997年12月号、株式会社ジェイロックマガジン社、1997年。 
  7. ^ 『ミッシェル・ガン・エレファント』ロッキング・オン、2000年4月28日、395頁。ISBN 4947599812 
  8. ^ 『ミッシェル・ガン・エレファント』ロッキング・オン、2000年4月28日、188-190頁。ISBN 4947599812 
  9. ^ 渋谷陽一 (2001年6月16日). “風格とクールな自覚 ミッシェル・ガン・エレファント公演”. 渋谷陽一の部屋. ロッキング・オン. 2003年6月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年10月11日閲覧。
    横浜アリーナライブの模様はライブビデオ『WORLD PSYCHO BLUES』にて鑑賞することが可能である。
  10. ^ 「出たくねえ」t.A.T.u.がボイコットした伝説のMステ”. エキサイトニュース (2015年7月23日). 2023年3月8日閲覧。
  11. ^ BARKS (2003年10月14日). “ミッシェルガンエレファント、幕張で解散ライヴ”. BARKS. アイティメディア株式会社. 2010年10月11日閲覧。
  12. ^ THEE MICHELLE GUN ELEPHANT SEASON LIMITED WEB SITE”. thee.asia. 2023年3月8日閲覧。
  13. ^ 【オハラ☆ブレイク'16夏】ドキュメンタリー映像”. Youtube (2022年6月29日). 2024年5月14日閲覧。
  14. ^ チバユウスケさん追悼 ドキュメンタリー映画「ミッシェル・ガン・エレファント“THEE MOVIE” LAST HEAVEN 031011」上映決定”. 映画.com (2023年12月14日). 2024年1月19日閲覧。
  15. ^ ARABAKIROCKFESTの2024年04月29日のツイート2024年4月30日閲覧。
  16. ^ 『ミッシェル・ガン・エレファント』ロッキング・オン、2000年4月28日、388頁。ISBN 4947599812 
  17. ^ チバユウスケ『ROCKIN'ON JAPAN』1998年2月号、ロッキング・オン、1998年2月。 
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  20. ^ 禁断!〈歌番組の放送事故〉一挙公開!<Mステ、その他篇>タモリが「あいつら逃げやがった」憤慨コンビ”. アサ芸プラス. 徳間書店 (2021年5月23日). 2021年10月1日閲覧。
  21. ^ ミュージックステーション 2020/08/21(金)20:00 の放送内容”. TVでた蔵. 株式会社ワイヤーアクション. 2021年10月1日閲覧。
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  25. ^ 三浦春馬さんが金髪を披露...主題歌も歌った映画『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』を無料配信中”. トレンドニュース (2021年5月7日). 2023年1月23日閲覧。
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  32. ^ 【ACIDMAN】Relaxing, and Reminding|MUSICSHELF at Archive.is (archived 2013-07-02)
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  35. ^ 2009/7/22*卓郎”. 9mm Parabellum Bullet | Blog. 2023年3月8日閲覧。
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  37. ^ [1]WWD JAPANのインタビューより2019年2月5日
  38. ^ THANK YOU ROCKERS - WORDS - STRAIGHTENER.NET at the Wayback Machine (archived 2007-08-17)
  39. ^ マキシマムザホルモン. “マキシマムザ亮君”. マキシマムザホルモン公式ウェブサイト. 2010年10月11日閲覧。
  40. ^ Base Ball Bear; 湯浅将平. “メンバー詳細プロフィール”. Base Ball Bear公式ウェブサイト. 2007年12月15日閲覧。
  41. ^ 石井亮輔 Official Twitter”. 2015年6月27日閲覧。
  42. ^ まゆゆ、スペシャ特番第2弾で再びTMGEを熱く語る”. 2012年12月6日閲覧。






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