RCA
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/13 19:37 UTC 版)
エレクトロニクス部門
エレクトロニクス部門では、真空管・半導体技術に優れ、真空管のメーカーとしては古くから世界的な名門であった。半導体時代に入ってからもGEの特許によるサイリスタなどのパワーデバイス、世界標準となったCMOSロジックIC4000シリーズ、同じくCMOS技術による最初のCPUとされるCOSMACシリーズ(CDP1801/CDP1802)などで知られた。CMOSの省電力性に優れた特徴から、CDP1802はボイジャー探査機にも搭載された。
設立以前のGE時代よりテレビ受像器の開発に着手し、世界初のカラーテレビの市販化を手がけた。日本においてテレビ開発が行われていた時期、電気回路に関する特許の使用を日本法人(アールシーエー技術研究所)を通じて容認し、その後のテレビ開発を支える土台になった事や、「RCA端子」とも呼ばれるAV端子の規格を作った事でも知られる。
1940年代から1950年代にかけて、テレビの開発とアメリカ軍のための先進的な電子機器の開発で繁盛したが、コンピュータの創成期においては限定的な関与に留まった。プリンストンの研究所の小規模なチームは大型のアナログ計算機であるTyphoonを海軍の航空研究のために製造したが、それ以上の開発はしなかった。
コンピュータ事業
初期の重要な業績は記憶技術だった。先進的な電子機器の工場で、アメリカ陸軍が支援していたENIACとランド研究所のJOHNNIACのような複数の初期のコンピュータの開発で潜在的な記憶素子の技術の相談をした。これらの計画のためにジャン・A・ライクマンのチームが、テレビの発明で知られるウラジミール・ツヴォルキンの指揮下でセレクトロン管を開発した[2]。これは先進的で高度に複雑な電子管記憶素子だった。しかしながら、マンチェスターからのウィリアムス管は大幅に単純で廉価で入手が容易となり、JOHNNIACと、それまでのシステムを除くすべての機械に備えられることとなり、2,000本の真空管を多様な計画のために製造した。1950年代初頭には不揮発性メモリである磁気コアメモリを開発[2]し、1970年代半ばまで標準的なコンピュータの記憶装置になった。開発者をめぐり、マサチューセッツ工科大学のジェイ・フォレスターによる論争があった。フォレスターの素子はSAGE防空計画で使用された[2]。 当時、Camden機構での開発で先進開発グループ(ADG)のみが軍用と民生用の両方を支援した。そのため、それはこのグループにとってデジタル技術を民生用と軍用の両方のために対応する事は自然ななりゆきだった[2]。
最初の4年間においてADGの努力の大半は民生品の用途に焦点があてられた。1954年から軍用の開発が増加して1958年に西海岸のミサイルと対空レーダー部門になった。ADGはいかに電子工学工場が彼らの製品開発のための能力と経済的な見通しを活用するかの典型的な事例だった[2]。
ADGとBIZMAC商業コンピュータ
計算機システム部門の創設はADGの最初の計画だった。1950年にADGはBIZMACの開発に着手した[2]。これは実質的に大型のデータベースを並べ替えるために設計されたコンピュータで、磁気コアメモリとランダムアクセス磁気ドラムメモリが使用された。しかしながら、データに接続するための主要な機能はデータベースを構成する100台の廉価な磁気テープドライブだった。重量は250トンで占有面積は18000平方フィートでアメリカ陸軍の兵器廠との契約で大部分はRCAで製造され、装甲部門と工場で戦車の予備部品の管理のために使用された[2]。契約額は$450万ドルで、当社はアメリカ陸軍の兵站管理の主要な供給会社として存続した。
1954年にBIZMACを引き継いだ商業電子工学計画グループは、それを原型にした機種を販売することを決定した。しかしながら、機械は多くは売れず、6台の製造に留まった。利用者は大型の通信販売業者と大型のデータベースの問題を抱えるニューヨークの2社だった。このような初期の世代の大きなコンピュータは驚くに値せず、BIZMACは低信頼性の問題には粘り強かったが、失敗に終わった。大型で高価なシステムは1955年から1958年にかけて1,000万から2,000万ドルの利益をもたらし、市場を開拓するための知見を得た。それは少数ではあったものの、真に彼らは最初にコンピュータの市場で成功したといえる[2]。 BIZMACを開発したADGのメンバーはわずか30人でこのような大規模なシステムを開発するには小規模過ぎた。さらに開発をするためにシステムを継承した商業電子機器製品グループは100人で構成されるBIZMAC技術グループになった。このグループは電子データ処理部門から拡張してコンピュータシステム部門になり、最終的には情報システムグループになった。BIZMAC技術グループは開発を継続してADGは他の計画に開放された。当初、複数の防衛システムを開発する予定だったが、後に新しく開発されたコンピュータの運用に充当された[2]。
CEDビデオディスク
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同社は、民生用において繰り返し録画再生が出来るビデオカセットレコーダー(VCR)よりも、“絵の出るレコード”と言われたビデオディスクの開発に注力しており、1960年代から着手した静電容量方式のCED開発に50億ドルの開発費用を費やし、1981年に「セレクタビジョン」の商標で北米(NTSC)およびイギリス向けのPAL版が発売された。
RCA及び日立や三洋、東芝などの日本の家電メーカーが製造販売し、OEM供給を請けた米国ゼニス(現在はLGの別ブランド)、映写機メーカーのエルモ、シアーズ、J.C.ペニー、タンディー・ラジオシャック(リアリスティック)などのストアブランド、PBブランド他から大量に流通された。[要検証 ]
日本においては、日立製作所(当時VHSビデオデッキをRCAへOEM供給(松下に継いで2代目)していた)に市販化を要請したものの、VHDとレーザーディスク間での規格競争が繰り広げられ、1978年にゼネラルから先行して市販されたTeD方式(独・テレフンケン(ディスク形状はソノシートに近く、収録時間は10分程度)は失敗に終り、コレクター向けの直輸入品を除き、市販されることは無かった。
なお、VHDはCEDと同様にキャディーごと再生機に投入してディスクの出し入れを行うが、VHDはディスク上に溝が無いなど、規格は全く別物である。
1984年4月にCED事業撤退が報じられる。莫大な開発費用の回収に見合う収益が見込めないためとされる。1985年まで供給は続けられた。
終焉
1984年に表面化したCEDビデオディスクの商業的な大失敗により経営が悪化し、1986年12月にかつての親会社GEへ買収・吸収された。翌1987年にジャック・ウェルチの方針により、旧RCAの家電部門はトムソンに、子会社であったRCAレコードはドイツのメディア・コングロマリットのベルテルスマンに売却された。
日本でのRCAレコードは、当初は日本ビクター(現・JVCケンウッド)の音楽レコード事業部を経てビクター音楽産業(現・JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント)が担っていたが、1975年に日本ビクターと米RCAレコードの合弁によりRVC株式会社が設立され移管された。その後、親会社の資本構成の変遷(ソニーBMGの発足)により、現在は株式会社ソニー・ミュージックエンタテインメントへ吸収されている。
RCAと同じ種類の言葉
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