飯野藩
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歴史
前史
藩祖・保科正貞の来歴
藩祖・保科正貞は、高遠城主であった保科正直の三男で[4][5]、母は徳川家康の異父妹・多劫姫[5]。文禄3年(1594年)、7歳の時に徳川家康・秀忠の意向によって[6]長兄(異母兄)である保科正光の養子[注釈 4]となる。幼少時より徳川家康の側近くに仕えた[5][4]。
大坂の陣後に保科正光のもとを去り、母方の叔父である松平定勝のもとに身を寄せた[7]。これについては、正光が2代将軍・徳川秀忠の落胤(後の保科正之)を秘かに養子として迎えることになったために廃嫡されたという事情がある。
寛永6年(1629年)に江戸幕府に再出仕[7]。この際に俸禄として蔵米3000俵を与えられた[7]。その後、蔵米を知行に改められ、上総国周准郡、下総国香取郡内に3000石の知行地を与えられた[7]。再出仕の翌年である寛永7年(1630年)には大番頭に就任[7]。寛永10年(1633年)に上総国望陀郡、安房国長狭郡、近江国伊香郡の3郡内で4000石を加増され、知行は合計7000石となった。
なお、保科家の家督は寛永8年(1631年)に保科正之が継いでいたが、寛永14年(1637年)に徳川家光の意向によって保科正之から保科家累代の宝物などが正貞に譲られ[7]、正貞が保科家を継承した[5]。
立藩
慶安元年(1648年)6月26日、正貞は大坂定番に任じられた[5][7]。この際、摂津国有馬郡・川辺郡・能勢郡・豊嶋郡内において1万石を加増され、石高1万7000石の大名となった[5][7][8]。正貞は飯野を居所とし[7]、飯野陣屋を築いた[9][10](陣屋建設時期についての諸説については飯野陣屋#歴史参照)。これにより飯野藩が立藩した[11]。
2代・保科正景
寛文元年(1661年)11月1日に正貞は死去し、跡を実子の保科正景が継いだ[7]。この際、正貞の生前の意向により、正貞の甥で養子であった
延宝5年(1677年)7月7日、正景は大坂定番に任じられ、丹波国天田郡内に5000石を加増された[7]。これにより飯野藩の石高は2万石となった[7]。
正景は藩政の上でも大きな治績があったとされる[15]。正景は上総国周准郡青木村(現在の富津市青木)の浄信寺を再建し、元禄9年(1696年)に一対の石灯籠(富津市指定文化財)を寄進した[16]。正景は元禄13年(1700年)5月16日に飯野において没し[7]、浄信寺に葬られている[15][7]。堀田家の菩提寺は江戸の大円寺[注釈 6]で、歴代藩主の墓は大円寺にあるが、居所のあった飯野近傍に葬られているのは正景のみであり[15]、その墓は富津市史跡に指定されている[15]。
3代から9代藩主
飯野藩保科家では正景以降幕末までの間に、5代・
天明5年(1785年)、保科正率の時に上総国望陀郡・安房国長狭両郡内の領地が上総国周淮郡・武射郡内に移された[11]。文化8年(1811年)、保科正徳の時に、上総国周淮郡内の領地が上総国山辺郡および下総国内に移された[11]。
弘化2年(1845年)、9代・正丕の時代には、周准郡青木村に外国船の見張番所(青木浦見張番所)を設け、警備に当たっている[23][24]。
幕末の飯野藩
10代・保科正益
幕末・維新期の藩主は、10代・
飯野藩と会津藩
保科正之を藩祖とする会津藩とは深い関係があった[24]。正丕の三女(正益の姉[26])である照姫(系譜では「熈」[26])は、会津藩主・松平容敬の養女となった[24][26]。幕末の会津藩主である松平容保は容敬の婿養子であり、照姫は容保の「義理の姉」となる[26]。照姫はのちの会津戦争において、若松城内の女子の総指揮を執ったことで知られる[24][26]。
慶応4年/明治元年(1868年)に戊辰戦争が発生する。3月、正益は青木浦から出発して上洛の途に就く[27](「勤王のため」[27]とも、徳川慶喜の助命嘆願のためともいう)。しかし、会津藩が徹底抗戦の構えを取ったため、4月に正益も連座し、京都北野で謹慎処分を受けた[24]。飯野藩内では会津藩に対する親近感が強く、会津藩を敵視する明治新政府に対する反発も強かった[28]。飯野藩では大出鋠之助[27]・野間銀次郎ら藩士20名が脱藩し[28]、請西藩主林忠崇の軍勢に加わって新政府軍に抗戦している[27]。また、剣術指南役の森要蔵も飯野藩内の門弟らとともに、総勢28名が会津に赴いて会津藩側で戦っている(後述)[27]。
6月、正益は幕府側に与した家臣(野間銀次郎、および家老の樋口盛秀(弥一郎))を処刑して罪を許された[24][29]。
会津開城後、新政府から会津藩への伝達の多くは、飯野藩主・保科正益を通じて行われた[26]。明治2年(1869年)5月18日、会津藩家老・萱野長修(権兵衛)が藩の戦争責任を一身に負うかたちで、飯野藩下屋敷で処刑される[26]。斬首刑とされたところ飯野藩の配慮により切腹の形式がとられた[24]。
明治初年の藩政
明治元年(1868年)に領地替えが行われる。房総沿岸防備の任を解かれた前橋藩の領地が飯野藩領とされる一方[27]、駿遠諸藩の房総移転(小久保藩・桜井藩、および藩領の付け替えが行われた伊勢長島藩)にともない領地が移されるなど、領地は大幅に入れ替わった(#領地節参照)。
明治2年(1869年)6月、版籍奉還により正益は知藩事となった。また、明治初年には藩校として「明新館」が開校し[11]、明治2年(1869年)に織本東岳が明新館の校長となっている[27]。
明治3年(1870年)10月には、大規模な領地替えが行われている[11]、摂津・丹波・近江の飛び地領を上地させ、上総国周淮郡で69か村を代地とするというもので、飯野藩の管轄地は上総国周淮郡に集約された(#領地節参照)。
明治4年(1881年)1月28日に飯野藩は、さきに摂津・丹波・近江の管轄地の代地として引き渡された周淮郡諸村の現石(実際に徴税可能な石高)が1363石不足しているとして、不足分の代地を給付するよう政府に願い出ている[30]。政府からの沙汰は遅れ、藩はその後3度にわたって同じ願い出を行い、早急な対応を求めている[31]。5月22日付で太政官は弁官を通じて現在取り調べ中との返答を行っており[32]、これに対して藩は5月28日付で不足分のうち1000石に相当する米・金の借用を願い出ている[32]。
飯野県
明治4年(1871年)7月の廃藩置県で飯野藩は廃されて飯野県となる。同年11月に飯野県は木更津県に統合された[24]。
歴代藩主
- 保科家
注釈
- ^ 飯野村は、江戸時代の史料で「飯野村」として扱われる場合と、「上飯野村」「下飯野村」の2村に分けられて扱われることがある。江戸時代中期以降に「上飯野村」と「下飯野村」に分けられたとされる[1][2][3]。
- ^ 1677年以後。
- ^ 赤丸は本文内で藩領として言及する土地。青丸はそれ以外。
- ^ 『寛政譜』によれば猶子[6]。
- ^ 『寛政重修諸家譜』が記すところによれば、正貞が保科家を出たのち、正景は母(上原氏)とともに行方不明になった[7]。正貞が幕府に再出仕した際に、実子の正景の消息がわからなかったために、小出吉英の三男(母の貞松院が保科正直の娘)の正英を養子に迎えて将軍徳川家光への御目見も行った[13]。その後、民間で成長していた正景が名乗り出、保科正之のもとに身を寄せた[7]。正貞が大坂定番になった際、実子である正景のことが知られ、家光の意向として召し出されることとなった[7]。
- ^ 『寛政譜』当時は伊皿子に所在していた[7]。現在は東京都杉並区に所在する[15]。
- ^ 「旧高旧領取調帳」では両総二国4,360石、関西三国1万6,298石。
- ^ 丹波国天田郡については、明治4年(1871年)7月の廃藩置県後に飯野県に属し、11月に豊岡県に統合された地域があることを記す事典がある[37]。
- ^ 「飯野県」を記載するものはない。
- ^ 人見村、冨津村、新井村、西川村、篠部村、川名村。
- ^ 人見村、本郷村、中野村、下湯江村。
- ^ 八幡村、杉谷村
- ^ 原村、大鷲新田村
- ^ 飯野村、二間塚村、前久保村、平井村、大久保村
- ^ 飯野村、二間塚村、前久保村、平井村
出典
- ^ “飯野村(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2024年4月10日閲覧。
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