保科正英
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/24 04:45 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動保科 正英(ほしな まさふさ、慶長16年(1611年) - 延宝6年5月23日(1678年7月11日))は、上総飯野藩主家保科氏の養子かつ最初の嫡子。旗本寄合席。飯野藩主家分家の旗本保科氏初代当主。諱は正英。通称は百助、主水。但馬国出石藩主・小出吉英の三男。母は貞松院。正室は井上庸名の娘。子は小出英勝、保科正静(主税)。
生涯
母方の叔父である保科正貞の養子となり、寛永16年12月26日(1640年)に徳川家光へ初お目見えする。しかしながらその後廃嫡され、飯野藩嫡子の座は、正貞長男の正景が就いた。正景が飯野藩主となると、安房国長狭郡2000石を分知されて旗本寄合席となる。
のちに長男・英勝は父の吉英の養子となって小出姓を名乗る。
延宝3年(1675年)に家督と知行は次男の正静に譲って隠居する。延宝6年(1678年)に死去。享年68。墓所は麻布の天眞寺で代々の葬地とする。法名は是即。
なお武鑑では使番や先手弓頭時代の正静の父を「保科主水」ではなく「小出修理」と掲載しているが、正英の兄が小出吉重(修理亮)ではあるものの、理由は不明である。
参考文献
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