保科正賢とは? わかりやすく解説

保科正賢

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/12 08:13 UTC 版)

 
保科正賢
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 寛文5年10月8日1665年11月14日
死没 正徳4年12月22日1715年1月27日
改名 喜三郎(幼名)、正祥(初名)→正賢
墓所 東京都杉並区和泉大円寺
官位 従五位下、兵部少輔
幕府 江戸幕府
上総飯野藩
氏族 保科氏
父母 父:保科正景、母:藤井松平忠国の娘・翠松院
兄弟 兄3名、正賢、女子
正室:阿部正春の娘・図妙院
継室:森長俊の養女(森長継の娘)・瑞光院
側室:高木幾右衛門の娘・春覚院
正殷、次男、正寿、娘(水野忠富正室)、娘(正殷養女、青山幸覃正室)、娘(正殷養女、保科正勝室)
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保科 正賢(ほしな まさかた)は、上総飯野藩の第3代藩主。

寛文5年(1665年)10月8日、第2代藩主・保科正景の四男として生まれる。初名は正祥。兄たちが早世したため、世子となる。延宝7年(1679年)に従五位下、兵部少輔に叙位・任官される。貞享3年(1686年)10月25日、父の隠居により家督を継ぐ。

元禄元年(1688年)に大坂加番に任じられ、元禄3年(1690年)8月には奥詰に任じられて元禄5年(1692年)5月まで務めた。元禄12年(1699年)には再び大坂加番に任じられている。その他にも日光祭礼奉行を4度も務めるなど、諸役を歴任した。元禄15年(1702年)に正賢と改名する。

正徳4年(1714年)12月22日に江戸で死去した。享年50。跡を長男の正殷が継いだ。

系譜

父母

正室、継室

側室

  • 春覚院 ー 高木幾右衛門の娘

子女






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