豊田佐吉
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経歴
幼少期
慶応3年2月14日(1867年3月19日)、遠江国敷知郡山口村(現在の静岡県湖西市山口)に生まれた[3]。父は豊田伊吉、母はゑいであり、佐吉は3男1女の長男だった[4]。山口村は三河吉田藩領であり、豊田家は伊吉が百姓のかたわら大工で生計を立てていた。
豊田家は裕福ではなかったが、とても貧しいということはなかった。幼い頃には坊瀬の妙源寺の寺子屋に通い、1875年(明治8年)には寺子屋から代わった川尻学校に入学した。佐吉は身体がやや弱かったが、在学中の1878年(明治11年)春、愛知県額田郡岡崎町の岩津天満宮に徒歩で参拝した[5]。まだ学校に行けない子供の方が多い時代だったが、佐吉の弟たちも小学校に通っている。豊田家では一人の子供も奉公に出ず、山口村ではやや生活に余裕のある家庭であった[6]。
青年期
1878年(明治11年)12月には吉津村川尻小学校を卒業し、父のもとで大工の修業を始めた。だが18歳のころ、「教育も金もない自分は、発明で社会に役立とう」と決心し、手近な手機織機の改良を始めた[7]。1885年(明治18年)には二俣紡績(遠州紡績会社)への就職を希望したが、父の反対で断念した。1886年(明治19年)2月からは山口観音堂で青年らによる山口夜学会を主導した[8]。
- 1886年(明治19年)春 - 佐吉は朋輩の佐原五郎作と無断で東京方面へ出奔。
- 1887年(明治20年)春 - 徴兵検査を受けるが、抽選のがれで入隊できず。
- 1887年(明治20年)暮 - 豊橋中八丁の大工・岡田波平のもとで修行。
- 1889年(明治22年)正月 - 再度家を出る。神奈川県横須賀の佐原谷蔵宅に寄寓。
- 1889年(明治22年)春 - 愛知県知多郡岡田村へ織機の研究。
- 1890年(明治23年)4月 - 東京上野で開催の第3回内国勧業博覧会を見る。
- 1890年(明治23年)11月11日 - 豊田式木製人力織機を発明、特許申請。
- 1891年(明治24年)5月14日 - 豊田式木製人力織機の特許を得る。
- 1891年(明治24年)頃 - 織機研究のため盛んに尾張各地を訪れる。
- 1892年(明治25年)10月 - 東京浅草外千束に住む。
- 1892年(明治25年) - 織機研究のため埼玉県北足立郡蕨町在住の高橋新五郎を訪ねる。
- 1893年(明治26年)3月26日 - 佐原豊作の三女たみと結婚(初婚)、東京で暮す。
- 1893年(明治26年)年末 - 東京を引き揚げ、妻たみと山口村へ帰る。
- 1894年(明治27年)正月 - 家出。豊橋曲尺手町の叔父・森重治郎宅へ。妻は取り残される。
- 1894年(明治27年) - 「豊田代理店伊藤商店」で糸繰返機の販売(名古屋市東区朝日町)。
- 1894年(明治27年)6月11日 - 長男・喜一郎誕生(母たみ)。
- 1895年(明治28年)2月14日 - 糸繰返機の特許を取得。
- 1895年(明治28年) - 豊田式木鉄混製力織機設計完成(名古屋市東区宝町、豊田商店)。
- 1895年(明治28年) - 7代目石川藤八の援助により、愛知県知多郡乙川村(現 半田市乙川高良町)にて力織機の試験運転。
- 1896年(明治29年)11月15日 - 豊田式木鉄混製力織機の発明・完成。
- 1897年(明治30年)2月25日 - 豊田式木鉄混製力織機の特許出願。
- 1897年(明治30年)7月9日 - 同郷の林政吉の長女・浅子と郷里で結婚式を挙げる(再婚)。
- 1897年(明治30年) - 名古屋市東区武平町の工場にて力織機を製作。
- 1897年(明治30年)秋 - 7代目石川藤八と豊田佐吉が共同で乙川綿布合資会社を設立。
- 1898年(明治31年)春 - 乙川綿布合資会社工場操業開始、初出荷。
- 1898年(明治31年)8月1日 - 「豊田式木鉄混製力織機」の特許を取得。
- 1899年(明治32年)4月13日 - 長女・愛子誕生。
- 1899年(明治32年) - 大隈重信、井上馨ら明治の顕官が武平町工場を訪れる。
- 1899年(明治32年)12月 - 三井物産が井桁商会設立、佐吉は技師長。
- 1901年(明治34年)10月 - たて糸送り出し装置を発明。
- 1902年(明治35年) - 井桁商会の技師長を辞任。
- 1902年(明治35年) - 豊田商会を設立(名古屋市東区武平町)。
- 1904年(明治37年)11月 - 管換え式自動織機を発明。
- 1905年(明治38年)7月 - 島崎町工場設立。
- 1906年(明治39年)12月 - 豊田式織機株式会社(現 豊和工業)が設立される。佐吉は常務取締役。
- 1908年(明治41年)豊田織布工場設立(菊井町)。
- 1909年(明治42年)6月、自動杼換装置を発明。
- 1910年(明治43年)4月5日、豊田式織機株式会社の常務取締役を解任。
- 1910年(明治43年)5月8日、日本郵船の因幡丸で、西川秋次を伴い渡米する。
- 1910年(明治43年)10月1日、高峰譲吉博士にニューヨークで会う。
- 1911年(明治44年)1月1日、欧州を回った後、下関へ帰国。
- 1912年(明治45年)5月18日、藍綬褒章を受章。
- 1912年(大正元年)10月、豊田自働織布工場を設立(現、名古屋市西区則武新町)。
- 1913年(大正2年)11月、大正天皇御駐輩所名古屋離宮に御召出し(陸軍特別大演習)。
- 1914年(大正3年)1月、7代目石川藤八の葬儀に参列[9]。
- 1915年(大正4年)10月8日、児玉利三郎、長女愛子の婿養子となる。11月18日入籍。
- 1918年(大正7年)1月、豊田紡織株式会社に改組。
- 1918年(大正7年)10月、単身、上海に渡航。
- 1919年(大正8年)2月、西川秋次を伴い中国に渡航、上海に滞在。
- 1920年(大正9年)三井物産の支援で上海に建坪約1万坪の紡織工場完成。
- 1920年(大正 9年)佐吉、上海に私邸(旧ドイツ人住宅)を購入。
- 1921年(大正10年)11月、豊田紡織廠に改組
- 1922年(大正11年)12月4日、長男喜一郎、(飯田)二十子と結婚。
- 1923年(大正12年)愛知県碧海郡刈谷町に豊田自動織機試験工場設置
- 1924年(大正13年)2月、2度目の藍綬褒章(飾版)を受章。
- 1925年(大正14年)8月10日、「無停止杼換式自動織機G型」を完成・特許取得[10]。
- 1925年(大正14年)10月、佐吉、帝国発明協会へ蓄電池の発明懸賞金100万円を寄附。
- 1926年(大正15年)11月、株式会社豊田自動織機製作所を設立。
- 1926年(大正15年)帝国発明協会から恩賜記念賞を受賞。
- 1927年(昭和2年)11月12日 勳三等瑞宝章を受章。
- 1927年(昭和2年)11月、陸軍特別大演習の折に、名古屋離宮で昭和天皇に単独拝謁。
- 1929年(昭和4年)12月、豊田・プラット協定(自動織機の特許権譲渡契約締結10万ポンド)[11]。
- 1930年(昭和5年)10月30日、覚王山の自邸にて死去、満63歳。死因は脳溢血からの急性肺炎。
- 1930年(昭和5年)11月4日、従五位に叙せられる。
- 1935年(昭和10年)10月30日、佐吉の六回忌の命日に、豊田綱領を発表。
- 1985年(昭和60年)4月18日、工業所有権制度100周年を記念し、「日本の偉大なる発明者10人」に選ばれ、政府から特別顕彰される。
- ^ 豊田佐吉 トヨタ産業技術記念館
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- ^ はんだ郷土史研究会 2011, pp. 62–63.
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- ^ a b c 楫西光速 1962, p. 29.
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- ^ “第1項 豊田式織機株式会社における挫折”. 文章で読む75年の歩み. トヨタ自動車. 2019年11月13日閲覧。
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- ^ 「佐吉が紡いだ日中友好 上海に世界のトヨタの礎」『中日新聞』、2017年11月24日。2017年11月24日閲覧。[リンク切れ]
- ^ 田中忠治 1933, pp. 1–6.
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- ^ 「トヨタ系幹部の豊田家御曹司、女子大生に内定と引き換えに肉体関係を強要…卑劣な手口」『ビジネス・ジャーナル』、2015年11月27日。2015年11月29日閲覧。
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- ^ 安保邦彦 2008, pp. 302–305.
- ^ 原田晃 1931, pp. 86–89.
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