第二次エチオピア戦争 両軍の装備

第二次エチオピア戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/07 05:18 UTC 版)

両軍の装備

エチオピア

開戦時エチオピア軍は35万人の兵力を召集したが、訓練を受けていたのはその4分の1で、装備していたライフル19世紀のものだった。

エチオピア軍は旧式の火砲200門を保有し、馬車によって運搬された。また、エリコン20mm機関砲ヴィッカース重機関銃など対空砲50門、第一次世界大戦で使用されたルノー FT-17 軽戦車の改良型であるFIAT3000軽戦車をごく少数、保有していた。

空軍の稼動兵力は旧式のポテーズ 25複葉戦闘機など13機であった。

イタリア

1935年4月イタリアは東アフリカの植民地における兵力を強化し始め、エリトリアに正規軍5個師団と黒シャツ隊5個師団が、ソマリランドに正規軍1個師団と黒シャツ隊数個大隊がそれぞれ到着した。

元駐留軍や現地人兵士を除き、これらの部隊は士官7千人と兵士20万人[要出典]によって構成され、機関銃6千丁、火砲700門、豆戦車150両、航空機150機を装備していた。また現地の傭兵や反乱部族(アスカリ)も多数戦列に並んだが、極めて後進的な装備で忠誠度も低かった現地兵は信頼に足る戦力にはならなかった。

戦争の経過

イタリアの進撃と経済制裁

1935年10月2日、ムッソリーニはローマにおいてエチオピアへの侵攻を宣言し、ラジオ放送によって全土に伝えられた[28]10月3日エミーリオ・デ・ボーノ将軍を総司令官とするイタリア軍部隊10万人とエリトリア軍部隊2万5千人が宣戦布告なしにエリトリアから侵攻を開始した。イタリア軍部隊の大半は、前述のアスカリと呼ばれる土着民の傭兵が占めていた。同時にソマリランドからロドルフォ・グラツィアーニ将軍の支援軍が攻勢を開始、こちらはデ・ボーノ将軍の戦力より実数は少なかったが、本国兵で編成された機械化部隊が中核を占めていた。イタリア軍は各地で快進撃を続け、10月6日にアドワ、15日にアクスムを占領し、アクスムにおいて歴史的建造物であるオベリスクを略奪した。

10月7日、国際連盟理事会はイタリアを侵略者として制裁を準備する採択を可決し、10月11日にイタリアの撤退がなければ国際連盟規約第16条に基づく制裁を発動することを51カ国の投票で決定、11月18日に経済制裁が実施されたが、石油などの重要な戦略物資には適用されることはなかった。これは、たとえ禁止したとしても、イタリアは国際連盟に加盟していないアメリカから購入することが可能であるから意味がないとする英仏の宥和政策に基づく主張が背景にあった。また、英仏によって和平案(ホーア・ラヴァル案)が立案されたが、基本的にイタリアによるエチオピアの植民地化を容認する内容で、あまりにイタリア寄りの内容であったため、エチオピアはこの受諾を拒絶した。

司令官の交代

戦勝を報じるイタリアの新聞、1935年12月27日

12月中旬、用心深い性格で進軍が捗らないボーノ将軍は更迭され、新たにピエトロ・バドリオが総司令官に就任した。部隊の増派を得たバドリオは早期占領を目指すべく積極的な進軍を続け、防御戦で一々立ち止まる手間を惜しんで条約で禁止されていた毒ガスによる鎮圧すら用いた。毒ガス攻撃によって国際社会から更なる非難を呼び込むことになったが、『ムッソリーニの毒ガス』でその効果を検証したアンジェロ・デル・ボカは、同戦争における毒ガス使用にさしたる軍事的効果はなく、仮にこれを用いなくとも(通常兵器のみでも)代わらぬ勝利を得られたであろうと述べている。むしろ効果を挙げたのはグラツィアーニが行った戦略爆撃の方で、翌1936年3月29日、グラツィアーニ麾下の空軍部隊がエチオピア東部の都市ハラール焼夷弾による爆撃で壊滅させている。またエチオピア軍はハーグ陸戦条約で軍事利用が禁止されたダムダム弾を使用しており、エチオピア側の戦争犯罪に対する報復という側面が強かった[29]

3月31日、最後の主要な戦闘であるメイチュウの戦いでイタリア陸軍はエチオピア帝国親衛隊と会敵、この戦いはイタリア軍の勝利に終わった。帝国親衛隊は壊滅し、近代的な精鋭部隊を喪失したハイレ・セラシエは5月2日に国外へ脱出して後にイギリスに亡命した。5月5日、イタリア軍が首都アディスアベバを占領して戦争は終結したが、その後もエチオピア貴族を中心とした抵抗活動は長く続いた。

戦後処理

5月7日、イタリアはエチオピアを併合したと宣言し、5月9日、イタリア領のエリトリア、ソマリランドを合わせた東アフリカ帝国の樹立と、その皇帝にイタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世の就任を宣言した。 6月30日、ジュネーブで国際連盟総会が行われ、イタリアへの制裁撤回が話し合われた。総会にはハイレ・セラシエも出席してイタリアおよび支持する国を非難したが、既にイギリスとフランスは制裁撤回を反対しない状況となっており[30]、7月4日、制裁撤廃の決議は賛成44票、反対1票、棄権4票の大差で可決された[31]。その後、1937年にはイタリアは国際連盟から脱退した。

植民地を手にしたイタリアであったが、当初の目的であった移住・植民活動は振るわず、内実から言えば芳しくなかった。

その後もイタリアとイギリスの関係は冷却化していたが、ドイツの伸張を見たネヴィル・チェンバレン首相はイタリアと連携を取ろうと考え、1938年4月16日復活祭協定英語版によってエチオピアに対するイタリアの支配権は事実上のもの(デ・ファクト)として認められた。

第二次世界大戦勃発後の連合国軍の侵攻により、1941年5月24日にアディスアベバが陥落、11月27日には東アフリカ帝国の全版図はイギリスに占拠された(東アフリカ戦線 (第二次世界大戦))。エチオピア帝国は連合国の一員となり、故地に帰還した。しかしイタリア王国の降伏まで一部のイタリア軍将兵がゲリラ活動を行っている(エチオピアにおけるイタリアゲリラ英語版)。

国際社会との関連

アフリカ系アメリカ人によって、アディスアベバに荷揚げされた医薬品などの物資

アメリカでは、アフリカ系アメリカ人アメリカ共産党ハーレム支部などを中心に、エチオピアに対して医薬品を購入するための資金を集めたり義勇兵を組織するなどの支援を行い、西アフリカでは、黒人知識層などがエチオピアを応援した。

日本では、日露戦争時代から親エチオピア感情があり、対して対伊関係では東京オリンピック時の「イタリーの裏切り」以来の反伊感情が残っていた。またエチオピア側も日本の支援を期待していたが、日本側の対応は冷淡であった[32]。新聞は、人種差別的な白人社会に対する有色人種の挑戦とみなし、エチオピアへの支援を呼びかけた[33]。1935年6月には、頭山満や議員などが「エチオピア問題懇談会」を立ち上げ、イタリアに侵略の停止を求める決議案を送付し[34]、7月24日には大日本生産党内田良平がムッソリーニに対する抗議電報を送付した[34]。7月16日には杉村陽太郎駐伊大使がムッソリーニとの会見で「エチオピア問題に政治的関心無し」という発言を行ったが、7月19日には広田弘毅外相がエチオピア問題に関心があるという発言を行ったため、イタリアでは日本に対する不信感が生まれた[35]。しかし日本政府側は「いずれにせよ、イタリアに対して好意的態度をとり続ける」こととし、イタリア側も「アジア人とアフリカの『未開人』を同一視しない」と述べ、日伊間の友好関係を保とうとした[36]。しかしイギリスがイタリアに対して圧力をかけ始めると、満州事変でのイギリスの対応にいらだっていた日本政界にはイタリアに対する同情心が広がった[37]。これは後のイタリアとの同盟関係構築につながった[38]

ナチス・ドイツはイタリアの目をヨーロッパからこの戦争に逸らさせるためにイデオロギーには相容れないエチオピアに武器を輸出し長引かせようとした。ベルリンの駐在員であったウィリアム・シャイラーは1935年10月4日の日記にこう記している[39]

10月4日、ベルリン。ムッソリーニがアビシニアの征服を開始した。―どっちにしても勝つのはヒトラーだ。


  1. ^ 田岡良一「連盟規約第16条の歴史と国際連合の将来」『法理学及び国際法論集(恒藤博士還暦記念)』(1949年、有斐閣)、336-337頁
  2. ^ a b c d e ニコラス・ファレル & 下巻(2011), p. 15.
  3. ^ ニコラス・ファレル & 下巻(2011), p. 144.
  4. ^ ニコラス・ファレル & 下巻(2011), p. 114.
  5. ^ a b c d ニコラス・ファレル & 下巻(2011), p. 17.
  6. ^ a b c ニコラス・ファレル & 下巻(2011), p. 18.
  7. ^ ロマノ・ヴルピッタ & (2000), p. 214-215.
  8. ^ 岡俊孝 & 1986-3, pp. 13.
  9. ^ 岡俊孝 & 1986-3, pp. 8.
  10. ^ 岡俊孝 & 1986-3, pp. 82.
  11. ^ a b 岡俊孝 & 1986-3, pp. 9–10.
  12. ^ a b 岡俊孝 & 1986-3, pp. 12.
  13. ^ 岡俊孝 & 1986-3, pp. 10–11.
  14. ^ a b c ニコラス・ファレル & 下巻(2011), p. 20.
  15. ^ a b c d ニコラス・ファレル & 下巻(2011), p. 19.
  16. ^ a b ニコラス・ファレル & 下巻(2011), p. 21.
  17. ^ a b ニコラス・ファレル & 下巻(2011), p. 22.
  18. ^ 岡俊孝 & 1986-3, pp. 20.
  19. ^ 岡俊孝 1986, pp. 82.
  20. ^ 岡俊孝 1989, pp. 153–154.
  21. ^ 岡俊孝 1986, pp. 94–96.
  22. ^ 岡俊孝 1986, pp. 104.
  23. ^ 岡俊孝 1986, pp. 105.
  24. ^ 岡俊孝 1986, pp. 110–111.
  25. ^ a b 岡俊孝 1987, pp. 65.
  26. ^ 岡俊孝 1987, pp. 98.
  27. ^ 岡俊孝 1987, pp. 69–74.
  28. ^ 岡俊孝 1987, pp. 74–75.
  29. ^ ニコラス・ファレル & 下巻(2011), p. 50.
  30. ^ エチオピア皇帝、総会で悲憤の演説『大阪毎日新聞』昭和11年7月2日夕刊(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p179 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  31. ^ エチオピアを見殺し、臨時総会閉幕『東京朝日新聞』昭和11年7月6日(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p180)
  32. ^ 岡俊孝 1989, pp. 140.
  33. ^ 白人の戦慄 全世界の黒人は日本に何を期待せんとするか神戸新聞、 1935.9.29-1935.10.1(昭和10)
  34. ^ a b 岡俊孝 1989, pp. 145–146.
  35. ^ 岡俊孝 1989, pp. 148.
  36. ^ 岡俊孝 1989, pp. 150.
  37. ^ 岡俊孝 1989, pp. 155.
  38. ^ 岡俊孝 1989, pp. 164–165.
  39. ^ 岡俊孝 1987, pp. 100.






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