禁中並公家諸法度 各条の内容

禁中並公家諸法度

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/22 13:27 UTC 版)

各条の内容

参照:禁中並公家諸法度 - ウィキソース

全文は17条からなる。1条から12条が皇室および公家が厳守すべき諸規定、13条以下がの官位についての諸規定となっている。原本は万治4年1月15日1661年2月14日)の御所火災で焼失し、その後副本を元にして復元された。また、公家などの写本もいくつも存在するものの、現存する本によって細かい語句などで違いがある。

法条 主な内容 原文・現代語訳[注釈 6]
第1条 天皇の主務 一 天子諸藝能之事、第一御學問也。不學則不明古道、而能政致太平者末之有也。貞觀政要明文也。寛平遺誡、雖不窮經史、可誦習群書治要云々。和歌光孝天皇未絶、雖爲綺語、我國習俗也。不可棄置云々。所載禁秘抄御習學専要候事。
(天子が身に付けなければならない学問・芸術の中で、第一は御学問である[注釈 7]。学ばなければ昔からの古来の道義・学問・文化にくらくなり、それで政治を手落ちなく行い太平をもたらした事は、いまだかつてない。このことは『貞観政要』に明確に書かれている。『寛平遺誡』に、古典儒学の書や歴史書は窮めずとも、『群書治要』を読み習うべきだと記されている。和歌は、光孝天皇からいまだ絶えていない。美しく飾った言葉に過ぎないとはいえ、わが国の習俗であり捨て置いてはならないと書いてある。『禁秘抄』に書き載せられていることを学ばなければならない。)
第2条 三公(太政大臣左大臣右大臣)の座次 一 三公之下親王。(以下略)(現役の三公の席次は、親王より上である。)
第3条 清華家の大臣辞任後の座次 一 淸花之大臣、辭表之後座位、可爲諸親王之次座事。

(辞任後の三公の席次は、親王より下である。)

第4条 摂関の任免 一 雖爲攝家、無其器用者、不可被任三公攝關。況其外乎。
摂関家の生まれであっても、才能のない者が三公(太政大臣左大臣右大臣)・摂政関白に任命されることがあってはならない。ましてや、摂関家以外の者の任官など論外である。)
第5条 一 器用之御仁躰、雖被及老年、三公攝關不可有辭表。但雖有辭表、可有再任事。
(能力のある三公・摂政・関白が高齢だといえども辞めてはならない。ただし、辞任したとしても、再任は有るべきである。)
第6条 養子 一 養子者連綿。但、可被用同姓。女縁其家家督相續、古今一切無之事。

(養子は(父親と)同姓から取らねばならない。女縁の養子が家督を相続してはいけない。)

第7条 武家官位 一 武家之官位者、可爲公家當官之外事。
(武家の官位は、公家の官位とは別のものとする 。)
第8条 改元 一 改元、漢朝年號之内、以吉例可相定。但、重而於習禮相熟者、可爲本朝光規之作法事。
(改元は、の年号から良いものを選ぶべきである。ただし、今後(担当者が)習礼を重ねて相熟むようになれば、日本の先例によるべきである。)
第9条 天子以下諸臣の衣服 一 天子禮服、大袖、小袖、裳、御紋十二象(以下略)
第10条 諸家昇進の次第 一 諸家昇進之次第、其家々守舊例可申上。(以下略)
第11条 関白武家伝奏などの申渡違背者への罰則 一 關白傳奏、并奉行職事等申渡儀、堂上地下輩、於相背者、可爲流罪事。
関白武家伝奏・奉行職が申し渡した命令に堂上家地下家公家が従わないことがあれば流罪にするべきである。)
第12条 罪の軽重の名例律准拠 一 罪輕重可被守名例律事。
第13条 摂家門跡の座次 一 攝家門跡者、可爲親王門跡之次座。(以下略)
第14条 僧正門跡院家の任命叙任 一 僧正大、正、權、門跡院家可守先例。至平民者、器用卓抜之仁希有雖任之、可爲准僧正也。但、國王大臣之師範者各別事。
第15条 一 門跡者、僧都大、正、少法印任叙之事。院家者、僧都大、正、少、權律師法印法眼、任先例任叙勿論。但、平人者、本寺推擧之上、猶以相選器用、可申沙汰事。
第16条 紫衣の寺住持職 一 紫衣之寺住持職、先規希有之事也。近年猥勅許之事、且亂臈次、且汚官寺、甚不可然。於向後者、撰其器用、戒臈相積、有智者聞者、入院之儀可有申沙汰事。
紫衣を許される住職は以前は少なかった。しかし、近年はみだりに勅許が行われて(紫衣の)席次を乱しており、ひいては寺院の名を汚すこととなり、大変よろしくない。今後は(当人の能力をもって)紫衣を与えるべきかどうかを良く選別し、その住職が紫衣を与えるに相応しい住職であることを確かめた上で、紫衣を与えるべきである。)
 第17条  上人 一 上人號之事、碩學之輩者、本寺撰正權之差別於申上者、可被成勅許。但、其仁躰、佛法修行及廿箇年者可爲正、年序未滿者、可爲權。猥競望之儀於有之者、可被行流罪事。
  末文、作成年月日、署名花押 右可被相守此旨者也。
(このむねをあいまもらるべきものなり)

慶長廿年乙卯七月日
(慶長20年7月)

昭 實花押
秀 忠(花押)
家 康(花押)

注釈

  1. ^ 「公家諸法度」は発布当初の名称でもある。
  2. ^ ただし、当時宮中の席次や紫衣の手続を巡って論争があり、朝廷からその仲裁を要請されていた事情も背景にあった。実際に大坂冬の陣の最中の慶長19年12月以降、家康は戦時中にもかかわらず側近の日野輝資や武家伝奏である広橋兼勝三条西実条を大坂の陣中に呼んで「古今礼義式法之相違」に諸公家の意見を集約するように度々促しており、公布直前の5月16日には二条城滞在中の家康から有力公家に原案が提示されてその意見をもとに修正が加えられている[1]
  3. ^ 実際にはこの法度の発布される4日前の7月13日に「慶長」から「元和」に改元されているが、現存する法度の写本は「慶長廿年七月」の日付が記載されている。まさにこの改元において、当法度第8条に規定されている改元権を巡り、朝幕間で諍いがあった。詳細は元和(年号)を参照。
  4. ^ 当時の関白は鷹司信尚であるが、「国家安康」の鐘銘で問題になった方広寺の大仏供養に参列しようとした件を巡って家康に忌避され、慶長19年11月1日の摂関家による家康への挨拶の際に家康から会見を拒否されて以降は謹慎状態となり、大坂の役後に辞表提出に追い込まれており、法度公布直前の7月10日二条昭実に次期関白の内示が出され、同28日に正式に任命されている。つまり、昭実は事実上の現関白の立場として法度に署名している[2]
  5. ^ 法度の内容自体は幕末まで変更されなかったものの、細かい字句については万治4年(1661年)の原本焼失による復元の際に変更された可能性もあるとされる[3]
  6. ^ 原文には、適宜句読点を付した。
  7. ^ ここで言う「学問」は政治の参考になる書や天皇としての心得や作法を記した書である。条文の続きには具体的な書物の名が挙げられているがいずれもの『貞観政要』『群書治要』や宇多天皇が記した『寛平御遺誡』といったものであり、名目上の存在とはいえ天皇は君主であり、あくまでも君主として必要なことを学ぶよう求めている[4]
  8. ^ これには徳川氏が豊臣政権下で豊臣氏宗家の下に位置づけられ、かつ前田・上杉・毛利といった現存外様大名を含む他大名と同格とされた事実の否定・隠蔽を含む。

出典

  1. ^ 橋本、2002年、P540-554
  2. ^ 橋本、2002年、P551-555
  3. ^ 橋本、2002年、P556-565
  4. ^ 藤田覚『江戸時代の天皇』p.16-19
  5. ^ 藤田覚 2018, p. 14‐18.
  6. ^ 橋本、2002年、P590
  7. ^ 橋本、2002年、P590-594
  8. ^ 橋本、2002年、P565-595
  9. ^ 田中暁龍「禁中并公家中諸法度第一条について」『近世朝廷の法制と秩序』(山川出版社、2012年) ISBN 978-4-634-52015-8 P33-43
  10. ^ 矢部健太郎「豊臣「武家清華家」の創出」2001年(『歴史学研究』746号)、後に矢部『豊臣政権の支配秩序と朝廷』(吉川弘文館、2011年)所収
  11. ^ (日本語) 徳川家広さん 禁中並公家諸法度に絡めて日本憲法を語る。ノーカット版。解りやすい歴史の教科書リンクフリー, https://www.youtube.com/watch?v=VTEYGsghtJA 2023年12月22日閲覧。 (リンク映像4m22sから)






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