百済 国際関係

百済

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国際関係

中国との関係

唐で描かれた百済の使者

百済が勃興した土地である漢城周辺は、馬韓諸国中楽浪郡帯方郡に最も近い位置にある地域の1つであり、その立地が百済の成長に寄与したであろう。帯方郡に近接した伯済国は帯方郡の強い影響下で発展し、高句麗が楽浪郡を排撃したころ、伯済国を中心とする馬韓も帯方郡を攻撃したが、これにより、この地域一帯で土着化した楽浪遺民・帯方遺民や新たな中国系流民が4世紀の百済の発展に寄与したことが推察される[81]369年371年の対高句麗戦勝利後に、百済は東晋及び倭国との外交を展開したが、東晋との外交にはこれらの楽浪遺民・帯方遺民などの中国系人士の関与が指摘され、倭国との外交樹立を記念して製作された七支刀は、これらの楽浪遺民・帯方遺民などの中国系人士の手になることが推定されている[15]

百済と中国王朝の通交を記す記録の中で最も古い出来事に触れている記事は372年東晋への朝貢記事である[82]。これは同時に百済について記した最初の確実な国外記録でもある。当時の王である近肖古王は前年に高句麗から平壌を奪い高句麗王を戦死させて一躍有力勢力として台頭しはじめており、それを背景に東晋への遣使を行った[82]。この遣使により鎮東将軍領楽浪太守として冊封された。以後、百済は南朝を中心に歴代の中国王朝への朝貢を行い、その国際的地位の向上を目指した[82]387年には太子余暉が東晋から冊封を受け、416年には東晋に取って代わったから、腆支王が使持節・百済諸軍事・鎮東将軍・百済王とされ、間もなく鎮東大将軍に進号した[82]

これら、最初の朝貢記録のある372年から、漢城が高句麗に奪われ一時滅亡する475年までの漢城時代において、百済と中国王朝の通交は記録に残るものだけで20回にも及び[83]、また当時の百済領内の遺跡からは弁韓や辰韓諸国に比べ遥かに多くの中国製陶磁器が出土している。中国製陶磁器は王城や祭祀遺跡、生活跡などから満遍なく発見されており、百済では広く中国製陶磁器が受容されていたことがわかる[84]。これらの中国製陶磁器は中央権力によりある程度まとめて搬入され、その後地方に伝達された可能性もあり、その場合には中央権力の地位を強化する威信財の役割を果たした可能性もある[84]。南朝への継続的な入朝と冊封は、国内における権威付けにおいても重要であったと考えられる[85]

漢城が陥落した後熊津で再興した後も変わらず活発な交渉が行われていた[86]。熊津時代は中国からの正式な冊封が行われる頻度が高くなり、考古学的にも最も中国(南朝)の影響が強く見られる時期となる[86]。この時期の百済における中国文化の影響を顕著に示すのが武寧王陵であり、墓形式や副葬品など、南朝文化の要素が色濃く見られるものとなっている[87][88]

589年に隋が統一王朝を築き、南北朝時代が終焉を迎えると、朝鮮半島情勢も大きな影響を受けた。百済(および高句麗)は隋が統一事業を達成する前から新羅や倭国に先んじて隋への入朝を開始しており、隋がを滅ぼした際には、済州島に漂着した軍艦からこの情報を得て、すぐさま祝賀使を送り、隋側の好感情を引き出すことに成功した[89]。その後、長年対立を続けてきた高句麗に対する遠征を隋に繰り返し要請し、実際に隋が高句麗征討に乗り出した際には協力を申し出てそれを支援した[89]

3度にわたる高句麗遠征が失敗に終わった後、中国では隋が倒れ新たに唐が成立した(618年)。百済は624年には高句麗、新羅などと同じく唐に入朝した[90]。唐は当初三国へ自制と和解を求め圧力をかけたが、645年頃には対高句麗で積極策に転じ、高句麗への遠征を繰り返した[91]。百済はその間に新羅に大勝し、その領土を大きく削ったが、数次にわたる対高句麗戦が不首尾に終わった唐が、状況の打開策として新羅からの救援要請を入れて百済への遠征を決定したことが、最終的に百済の滅亡へと繋がることになった[91]

略譜
  • 384年(百済枕流王1年)、中国南朝の東晋より摩羅難陀が百済に仏教を伝える。
  • 385年(百済枕流王2年)、王都漢山に仏寺を創建して僧侶10人を度す。
  • 526年(百済聖王4年)、百済僧謙益がインドより天竺僧と帰国する。『五分律』を翻訳する。
  • 541年(聖王19年)、百済が梁に毛詩博士、経義、工匠や画師を求める。

高句麗との関係

夫余同源神話

建国神話節において触れたように、百済はその出自が夫余(扶余)であり、高句麗と同族であるという神話を持っていた。『三国史記』の、そして歴代中国王朝の史書に記録された百済の起源神話は、様々なバリエーションがあるが、夫余から出て、高句麗と同族であるという枠組みを持つ点では共通している。また、蓋鹵王北魏に対して自らが夫余の出自であり、高句麗と同源であると上表している[92]。ただし、古代史研究者の李成市は、考古学的に百済が高句麗から大きな影響を受けており、高句麗系の人々の流入があった可能性を指摘するが、夫余との類似は見られず、夫余族の一派が南下して百済を建国したという神話を史実とする見解には従い難いという[81]。また、こうした百済の神話は、元来政治性を強く帯びたもので、高句麗との対立が激化する中で、後進の百済が高句麗と同源であることを内外に標榜することで、百済王権の正統性を訴えようとした可能性を指摘する[81]

同様に高句麗も夫余との同源神話を持っており、多数の記録が残されている。しかし、これをそのまま信ずるのは単純に過ぎるという指摘は多い[93][94][注釈 7]。このため、百済・高句麗の夫余起源神話によって、単純に百済(またはその王族)が高句麗と出自を同じくする夫余の同族であるということはできない。

政治的関係

百済にとって、北方で強勢を誇る高句麗は建国以来軍事上の脅威であり、その存在は百済の外交政策を強く規定した。高句麗の南下による馬韓への圧力は、それに対抗する形での「伯済国」による統合を促し、百済の飛躍的な発展をもたらした要素の一つであると考えられる[15]。更に369年の対高句麗戦の勝利と、371年に故国原王を討ち取った時期と、百済が直接国際舞台に登場する時期が同時期であることには留意されるべきである[15]

391年に広開土王が高句麗で即位すると、彼は周辺諸国へ積極的な拡張政策を取り、百済もその攻勢を受けることとなった。広開土王碑文の記述ではその展開は次のようなものであった。太古の昔より百済は高句麗に朝貢する「属民」であったが、391年に倭がこれを臣民としたため、高句麗は396年に百済を破り、これを「奴客」とした[17][95]。そして高句麗は百済から58の城邑の700村を奪い、百済王に忠誠を誓わせ、王子らを人質としたが[17]、百済は倭国と「和通」して高句麗に対抗しようとした。400年には高句麗が新羅へ進軍し、新羅王都を占領していた倭軍を撃破し、新羅が高句麗に服属した。この時、高句麗軍は朝鮮半島南部の任那加羅にまで進撃したという[17]。高句麗は404年の帯方地方への倭軍の攻撃も退け、407年には再び50,000の大軍をもって百済を攻撃した[17]。高句麗はこの時、百済から7城を奪った[17]

この広開土王碑文の記述は、『三国史記』や『日本書紀』に対応する記述が見られ、信頼性が高いと見られる(倭国との関係節を参照)。ただし、『広開土王碑文』における「奴客」という表現や、古の昔から高句麗の「属民」であったという記録は、高句麗が認識していたあるべき過去に基づいて増幅された誇張であるという指摘がある[96]。事実として、上記の碑文の記述を信ずるならば、「古より高句麗の属民であった百済」は391年に倭によって高句麗から離脱し、396年に再び高句麗の「奴客」となったものの、翌397年には再び高句麗から離れ、その後数度に渡り領土を削られつつも、広開土王の治世中、遂に高句麗の勢力圏に収まることはなかったことが読み取れるためである[96]

高句麗は同時期に中国方面で後燕北燕とも衝突を繰り返していたが、北魏が華北で勢力を拡大すると、426年の初の朝貢以後、これと安定した関係を構築した[17][97]。そして427年、高句麗の長寿王はそれ以前から南方における重要拠点であった平壌に遷都し[20]、北魏との関係安定および北燕の滅亡に伴い盛んに南進の姿勢を示した[21][98]。この時期、高句麗は新羅の王都に軍を駐留させ、その王の廃立にまで影響力を振るうほど勢力を拡張させていた[21][99]。高句麗の圧力を受ける百済は支配からの離脱を目指す新羅と連携してこれに対抗した[21][99][注釈 8]。しかし、長寿王は455年以後繰り返し百済に侵攻した。百済側も高句麗領の一部に侵入を行ったものの、475年には百済の王都漢城が占領され、百済は一時実質的に滅亡する事態に陥った[21][24]。その後、百済は熊津で復興し、南方の伽耶へ活路を見出すとともに、新羅との連携によって高句麗に対抗した[100]

6世紀の武寧王代には高句麗との関係はやや小康状態にあったが[101]、聖王代には538年に高句麗と大規模な軍事衝突が発生し敗れている[102]。百済は550年頃に国境の城の奪い合いによって始まった紛争では、翌551年に新羅との連合軍によって旧都漢城の奪回に成功した[35][103]。しかし、翌年には漢城からの退却に追い込まれ、この都市を新羅に掠め取られる形となった[35][103][38]。勢力を拡張する新羅が脅威となる中でも、百済の高句麗との敵対関係は基本的に変わらず、589年に中国を隋が統一すると、これにいち早く遣使し、繰り返し高句麗征討を要請するとともに、それへの協力を申し出ている[89][104]。隋が倒れ、唐が成立した後も、百済は対新羅戦においては高句麗と結託しつつ、唐に対しては高句麗が朝貢路を塞いでいることを訴えていた[89][105]

642年に至り、権力を掌握した義慈王は長年対立を続けてきた高句麗と和信し、対新羅戦に傾注した[106][107]。655年には百済は高句麗と協同して新羅を攻撃し、多くの領土を奪取することに成功した[108]。しかし、新羅から度重なる救援要請が唐へ出されると、陸上からの高句麗攻略が不首尾に終わっていた唐は海路百済を攻略し、高句麗を包囲する策に出た[109]。結局これによって百済は高句麗に先立ち滅亡するに至った。

主上欲呑滅高麗,先誅百濟。留兵鎮守,制其心腹
主上(高宗)は、高(句)麗を呑滅せんことを欲し、先ず百済を誅せり。兵を留めて鎮守し、その心腹を制す。
-『旧唐書』卷八十四/列伝第三十四/劉仁軌

倭国との関係

百済と倭国との関係については『日本書紀』を中心に多様な記録が存在する。『日本書紀』の記録によれば、百済と倭国の間で最初に通交が持たれたのは神功皇后の46年(246年⇒干支二運修正366年[注釈 9])、伽耶諸国の1つである卓淳国の王が、百済が倭国との通交を求めていることを倭国の使者に伝え、これを受けた倭側が百済へ使者を派遣したことから国交が始まったとされる[110]。これに続きいわゆる三韓征伐によって百済、高句麗、新羅が日本への朝貢を約したとされるが、現在では一般的に史実とは見なされない[111]。卓淳国を仲介にして百済との国交が始まったという記事についても、その史実性を正確に求めるのは困難である。ただし、その地理的関係から伽耶諸国を介して百済と倭国の関係が始まったことは概ね認めて良いとされる[111][112]

現在残る記録から、倭国は伝統的に朝鮮半島南部への勢力拡大を希求し、百済に対しても上位者として振る舞おうとしたことがわかる。この時代を描写する重要な同時代史料が広開土王碑文として知られる高句麗の記録であり、これによれば391年以来、倭は渡海して百済・新羅を「臣民」としたが、396年に高句麗が百済を破ってこれを「奴客」としたという。更に399年百済が再び倭と通じたが、翌400年には高句麗が新羅に駐留する倭軍を撃破し、404年には帯方に侵入した「倭寇」を高句麗が撃退したと伝える[95]。これに対応すると考えられる『三国史記』の記録が、百済から倭へ太子の腆支を人質に出して好を結んだという阿莘王6年(397年)の記事であり、『日本書紀』にも応神天皇8年(277年⇒干支二運修正397年)で引用されている『百済記』に百済から倭へ王子直支(腆支)を遣わして好を修めたという記述がある[113]。腆支王は即位時には倭国から派遣された100人の護衛に伴われて帰国したという[113]。このように複数の史料が相互に整合性の高い記録を残していることから、この一連の記録の信頼性は高いと考えられている[114][18][115][注釈 10]。また、倭国の姿勢を記録した今一つの記録が歴代南朝の史書である。438年倭王が「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍倭国王」の承認を要求し、451年に南朝は倭王に対して倭本国、新羅、任那秦韓、慕韓の軍事権を承認したが、南朝と国交のある百済だけは承認せず[116][117]倭王は百済に対する軍事的支配権の承認を繰り返し要求したことが記録されている[118][注釈 11]

倭の五王の最後である倭王武(雄略天皇)は、恐らく475年の高句麗による漢城の占領と百済の滅亡に関連して南朝の宋に高句麗の非道を訴える上奏文を送っており、『日本書紀』は熊津での百済の復興に当たって雄略天皇がこれを支援したことを記す[122][123]。当時倭国は独自の天下観念を発達させつつあり[124][125]、この倭王武(雄略天皇)の行動は百済の一時的な滅亡に伴う混乱の中で、百済を服属下に置き、独自の秩序の再構築を目指していたものであるかもしれない[124]

6世紀に入ると百済は先述した通り、南方に活路を求めて伽耶地方への勢力拡大を図った[126]。これに関連すると見られる倭側の記録が『日本書紀』「継体紀」にある512年の任那四県割譲の記録である[127]。『日本書紀』の記録では、この割譲に際しては現地の「哆唎国守」とされる穂積押山が、「任那四県は百済と密接な関わりがあり、百済と分離しておいたならば守りえない」という状況分析の下で積極的に百済への割譲に動いたことが記されている[128]。現代の学説においてはこの地域に倭国が実質的な支配権を及ぼしていたとは見なされない場合が多い[注釈 4]

6世紀に新羅が伽耶地方へ勢力を延ばし、金官国(加羅)が滅ぼされた後は、百済も伽耶地方への勢力拡大を目論み、その過程で安羅国に駐在していた任那日本府(在安羅諸倭臣)を交えて新羅への対抗を画策した[129][130]。しかし、倭本国、現地で独自の活動を行う「日本府」、百済への不信感を募らせる伽耶諸国など、各勢力の思惑により足並みがそろわず実質的な効果をあげることはなかった[129][130][注釈 12]

6世紀半ばには百済と高句麗の紛争が再燃すると、百済は倭国の軍事力を引き入れるための外交努力に努め、倭国はその見返りとして様々な文物や技術を要求した[131]。この当時の状況は切迫したものであったらしく、百済は倭国の要望に応じた。そして、倭国は百済に対して、548年に労働者の派遣、550年に武器兵糧の支援、551年に食料の支援を行った[131]。553年には百済は二度に渡り倭国に援軍を要請し、翌554年5月に佐伯連指揮下の倭軍が百済へと渡海した[131]。その後も倭国は百済への援兵として度々朝鮮半島に派兵を行ったが、570年代に入り新羅が「任那の調」を倭国へ送付するようになると、倭国は当面新羅に圧力をかけてそれを確保する外交方策に転じた[132]

660年に百済が唐によって滅ばされると、倭国は百済復興を全面的に支援することを決定し、倭国に人質として滞在していた百済王子・扶余豊璋を急遽帰国させるとともに阿倍比羅夫らからなる救援軍を派遣したが[56][55]663年白村江の戦いで完敗を喫して撤退した[56][55]

渡来人・帰化人

倭国の領域であった日本列島には数次にわたり朝鮮半島からの移住の波があった[133]。その主たる要因は朝鮮半島の戦乱であったと考えられ、大規模な倭国への移住の波は朝鮮半島における戦乱の時期と概ね一致している[134]。この中には、技術や知識の導入のため倭王権の掌握下で保有する技能を持って仕えた人々がその第一波からいたことが考古資料によって裏付けられている[134][61]。しかし、考古学的な調査結果からは、倭国での朝鮮半島系の移住者の痕跡は圧倒的に伽耶南部に関係するものの割合が高く、百済人の活動を導き出す事ができるものは限られる[135][136]。4世紀以前における百済系の系譜を持つ可能性がある日本列島の遺構としては大阪府松岳山古墳で発見された瓶型土器や兵庫県にある日本最古の須恵器窯跡である出合窯跡などがある[136]。5世紀前半では全羅南道系の土器の系譜を持つと見られる須恵器の器形が複数確認されている[136]。同じく5世紀前半から展開する北部九州型横穴式石室は、ソウル周辺の横穴石室と関係すると考えられ、大阪府では百済系の技術工人の長が被葬者であると考えられる高井田山古墳が発見されている[137]。6世紀には日本列島における百済系の痕跡はあまりはっきりしないが、7世紀では飛鳥酒船石遺跡の亀形石を始めとする花崗岩製の石造物が百済と密接な関わりを持つと考えられる[61]。これらの石造物は造形が百済の益山で発見された石造物と非常に類似しており、また当時の倭国において花崗岩製の石造物は極めて珍しいものであったことから、百済系工人によってこれらの石造物が造られた可能性がある[61]。これに関連するかもしれない記録が『日本書紀』「推古紀」の612年に百済から来た路子工(別名:芝耆摩呂)が須弥山の形や呉橋を作ったとあるものである[61]。また、西日本各地に残る朝鮮式山城は百済滅亡後に日本に亡命してきた百済人の指導で建設されたことが『日本書紀』「天智紀」に見える[61]。上記の通り、考古学的な痕跡は無いわけではないが、6世紀前半までは伽耶系のそれと比較して百済系の痕跡は限定的である[61]。7世紀に入る頃から伽耶系の史料が減少するのに伴い、百済系の史料が相対的に目立つようになり始める[61]

一方、『日本書紀』には6世紀に百済から倭国へ派遣された知識人や技術者についての記録が多数残る。彼らは古代の日本の学術・文化に大きな影響を残した。まず挙げられるのが『日本書紀』「応神紀」に登場する王仁(和邇吉師)であり、日本に『千字文』と『論語』を伝えたとされる[138]。また、6世紀に軍事支援の代償として派遣されたと見られる五経博士についての記録がある[139]。513年(継体天皇7年)に段楊爾が派遣されたのを始めとし、漢高安茂馬丁安王柳貴らの五経博士らが交代で百済から派遣され倭王権に仕えた[139]。また、彼らと共に医、易、暦の諸博士や曇慧などの僧侶、律師、比丘尼、造仏工、造寺工なども倭国へ贈られた[139]。船氏の祖とする王辰爾は百済に出自するという説話が残されている[140]。王仁については『千字文』が実際に編纂されたのは応神朝よりもかなり後の時代であるため[138]、その記録は伝説に過ぎないと見られるが、日本列島における初期の漢字の導入が百済系を中心とした渡来人を経由して行われたことが『日本書紀』に見え、また『日本書紀』や他の古い文献の用字法などからもほぼ確認されている[141][142][注釈 13]白村江の戦いの後の百済滅亡後には、多数の百済人が倭国へ亡命した。百済王子豊璋の弟・善光(または禅広)の子孫は倭国の朝廷から百済王(くだらのこにきし)の姓を賜り、日本の氏族としての百済王氏が形成された。彼らの中のある者はやはり知識人・技術者として倭王権に仕えたが、彼らは一定期間のみで交代する派遣技術者ではなく、その意味で倭国にとって極めて貴重な存在であった[60][61][注釈 14]

全体として、百済から倭国への人と技術の流れは文献史料に多数登場するのに対し考古学的な痕跡は薄い。これはや土器など生活文化に密着した関係性がはっきりと見られる伽耶系の要素とは好対照をなしている。これらのことから、百済と倭国との関係は、一般の人々の大規模な移住をもたらすような関係ではなく、国家間の、或いは支配階層間で行われる文物や技術面での関係が中心であり、考古資料としては残りづらいものであったと考えられる[61][144]


注釈

  1. ^ 浜田耕策山尾幸久の分析を踏まえたうえで、裏面では百済王が東晋皇帝を奉じていることから、369年に東晋の朝廷工房で造られた原七支刀があり、百済が372年正月に東晋に朝貢して、同年6月には東晋から百済王に原七支刀が下賜されると、百済では同年にこれを複製して倭王に贈ったと解釈し、この外交は当時百済が高句麗と軍事対立にあったため、まず東晋冊封関係を結び、次いで倭国と友好関係を構築するためだったとしている[13]
  2. ^ 広開土王碑を巡っては、特に倭国関係記事が集中する第1面を巡り、その信憑性を巡って長い議論が続けられてきた。現在では『三国史記』『日本書紀』にも対応する記述があり、高句麗からの百済の離脱、百済から倭への人質や、それによる百済と倭の同盟など大筋で一致していることから、碑文の史料的価値は高いとされる[18]。これを巡る主要な議論については武田幸男「その後の広開土王碑研究」(1993)にまとめられている[19]
  3. ^ 上哆唎(おこしたり)、下哆唎(あるしたり)、娑陀(さた)、牟婁(むろ)の四県。これが現代のどの地方に当たるかについては、全羅南道にほぼ相当するという説と、全羅南道の南東部であるという二つの有力な説が存在する[31]
  4. ^ a b 『日本書紀』は日本から百済への「割譲」とするが、『三国史記』に対応する記述はない。一方で、この地域では現代の考古学的調査によって日本列島に見られるものと類似する前方後円墳が発見される。 研究動向としては、この時代に倭がこの地方に実質的な支配権を持っていたとする学者は少ない。武田幸男は百済がこれらの地域を掌握するにあたって倭側の了解を取り付けたものであろうとする[30]。また、朝鮮古代史研究者の田中俊明はこの地域を百済が実力で確保していったものと見、四県割譲記事は「日本書紀の筆法」と見る[32]
  5. ^ いわゆる「任那の調」はかつて任那が倭に献上していた(とされる)調を、その地を支配する新羅に対して代納することを倭が要求したもので、百済のみならず高句麗との対立も深まっていた新羅側が「任那使」を建ててこれを「献上」することで倭国との関係悪化を防ごうとしたものと解される。一般に当時「任那復興」を国策の一つとしていたが、現実的にそれを実現することが不可能であった倭国と、外交的孤立を避けようとした新羅の間で成立した政治的妥協の産物と見做される[44]
  6. ^ ここでいう百姓は「農民」の意味ではなく、家臣または有力者の意[66]百姓#漢語としての語義と日本での変遷
  7. ^ 李成市は、高句麗の神話と夫余の神話は類似点はあるものの、神話学的な類型では重要な相違点があり、夫余と高句麗を同族と見做す根拠として見ることはできないと指摘する。それによれば、高句麗の神話は外来王神話の一種であり、高句麗王権の権威と正統性を強めるため、東夷の中でも国家形成が古く名族として知られた夫余との同源性を強調すべく政治戦略的に採用されたと見られ、しかも時代が進むにつれその夫余神話と高句麗神話の習合が進むという。また、初期の中国人たちによって記録された夫余と高句麗の同源神話が、伝聞以上に憶測に基づいており信憑性に乏しいことなどを指摘している[94]
  8. ^ 5世紀半ばに高句麗が新羅に対する巨大な影響力を行使していたという見解に対しては、高句麗軍の新羅駐留を確認すべきであるという指摘があった。しかし、『広開土王碑文』以来の高句麗、新羅間の関係から容易に想定が可能であり、更に『中原高句麗碑』の発見によって、新羅に高句麗が派遣した新羅土内幢主が存在していたことや、それが新羅の支配層をしばしば軍営に召集したこと、新羅に高句麗の服制が導入されたことなどが確認されたことから、現在ではその影響力は非常に実質的なものであったと考えられている[99]
  9. ^ 『日本書紀』の紀年は特に雄略紀以前の年次が中国・朝鮮の歴史書と一致しない場合が多い。これは現代では『日本書紀』の編纂時に、4世紀に始まった中国・百済・伽耶との交渉開始を、干支を二運(120年)古く設定することで3世紀に引き上げる年次操作が行われていることがわかっている。神宮皇后46年を366年とするのはこの年次操作を修正した後の推定年次である。詳細は日本書紀の記事を参照。なお、神功皇后の実在は一般に疑わしいとされるが、ここでは本論から離れるため神功皇后の実在可能性の問題には触れない。これについての詳細は神功皇后の記事を参照。
  10. ^ 多くの学者によって5世紀の百済と倭国の関係についての『広開土王碑文』や『日本書紀』『三国史記』の記録の重要性は高く評価されるが、百済と倭との関係に上下関係を設定することには慎重な表現を用いることが一般的であり、しばしば倭と百済の「連盟[115]」や倭による「救援[114]」のような表現をされる。
  11. ^ 倭の五王による百済地域における軍権を含む称号の除正をめぐっては長く議論が行われている。坂元義種の理解によると、東夷の諸王に正式に除正された地位では、常に高句麗を最上位とし、続いて百済、最後に倭という南朝の序列は南北朝時代を通じて変わることがなかった[118][85]ただし、坂元義種は、南朝が倭王の百済に対する軍事的支配権を承認しなかったのは、北魏を封じ込めるために国際政策上百済を重視したからであり、「南朝が、最強の敵国北魏を締めつける国際的封鎖連環のなかに百済をがっちりとはめこんで、その弱化を認めまいとする、南朝の国際政策」と指摘する[119]。坂元義種の主張について石井正敏は、倭王が百済王よりも下位であるなら、上位である鎮東(大)将軍である百済の軍事的支配権を、下位である安東(大)将軍である倭王が執拗に要求しているのは何故かという素朴な疑問が付きまとうことを指摘している[120]。南朝から冊封され、希望する官爵を自称し、除正を求めるだけでなく、部下にも南朝の将軍号を仮授した上で除正を求めている倭王が、南朝の官爵制度を理解していないとは考えられないことから[120]、百済の軍事的支配権を主張した倭王は安東(大)将軍でも「都督百済諸軍事」号要求は可能であると認識していたと考えざるを得ず、何故なら倭王が、自らの安東(大)将軍という地位では「都督百済諸軍事」要求が不当なであると認識していたなら、さらに上位の称号を、除正を承認されないことを承知の上でも自称するはずであり、それは高句麗との対決を明確にした倭王が、高句麗王と同等の待遇である「開府儀同三司」を自称し、除正を求めていることからも裏付けられる[121]
  12. ^ 倭国の朝鮮半島における出先機関とされる、いわゆる「任那日本府」は、かつて朝鮮半島における倭国の統治機関と見做されたが現在ではこの考えを取る朝鮮史学者はほとんど存在しない。任那日本府は、任那(狭義においては加羅国)が新羅に制圧された後、百済・伽耶諸国との連携の下で「任那復興」を画策するという歴史的文脈の中で、『日本書紀』「欽明紀」にのみ登場する[130]。この任那日本府は「在安羅諸倭臣」とも記され、独自の利害に基づいて倭本国とは異なる行動(新羅や高句麗との通謀など)をとっていることがわかっている。また、日本府を交えた任那復興を巡る諸会議についての『日本書紀』の記録は概ね「百済本記」に拠って記述されていると考えられる[129][130]。その実態を巡っては諸説入り乱れているが、この任那復興会議自体が百済の主導によるものであったとし、任那日本府を自立性の強い勢力と見て倭王権と直接の繋がりを持たないとする見解や[129]、統治機関としての性質は持たない物の、元々は倭王権が任那における勢力回復を目指して6世紀に新たに設置した出先機関であるとする見解などがある[130]。詳細は任那日本府を参照。
  13. ^ 『日本書紀』における百済系史料の史料的価値の確認とその使用箇所を字音仮名の分析から行った木下礼仁は、稲荷山鉄剣銘に代表される5世紀から6世紀にかけての倭国の金石文の用字法が、推古朝遺文や、『日本書紀』に引用される『百済三書』等の用字法と類似しており、これらが百済文化との関連性で捉えられるとしている。一方で、『釈日本紀』に新羅に使者を出して文字を習ったとする記録がある事や、朝鮮半島に残る新羅の金石文もまた同様の字音体系を持つことから、稲荷山鉄剣銘や江田船山古墳大刀銘の表記法体系が広く朝鮮半島の文化要素を受容したものであることを指摘している[142]
  14. ^ 倭国において彼ら百済系の渡来氏族は、倭王権に仕える諸蕃として「保存」され、異国人として歌舞の上奏などを行った。これによって諸蕃を支配するという倭王権の体裁を整える役割を果たし、一方では倭国における課役の免除や官吏としての任用などにおける特殊な地位を維持した。このことに意識的であった百済王氏や、百済系氏族の津氏は、延暦9年(790年)の段階の上奏においてなお日本を「貴国」と呼称したことが『続日本紀』に記録されており、百済出自であるという自己認識を維持し続けたことが確認できる[143]
  15. ^ 全羅南道に複数ある前方後円墳が倭との密接な関係の中で造営されたことは疑いが無い[175]。しかし、様式が倭系の物であることをもって直ちに被葬者が倭人であるとすることには慎重を要する。 朝鮮古代史研究者の山本孝文は、その形態や副葬品の系譜が殆ど中国式と言って良く、他に類例の少ない様式である武寧王陵の被葬者が百済王である武寧王であると判別できたのは、ひとえにその墓から墓誌が発見されたからに他ならないと言う。 そして、もしこの墓から墓誌が発見されていなかったならば、その被葬者は百済支配層に含まれる中国系有力者や、中国で仕官した経験のある百済人、或いは中国系百済官僚などと解釈されていたであろうと述べ、墓形式や副葬品から考古学的に被葬者を割り出すことは極めて困難なことなので、結論には慎重であるべきであると指摘している[180]

出典

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