百済
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/23 08:32 UTC 版)
王号
『周書』百済伝によれば、王は「於羅瑕」を号しており、これを民衆は「鞬吉支」と呼んでいた[153]。また、王妃は「於陸」と呼ばれていたという[153]。『釈日本紀』の秘訓では君「キシ」、王「コキシ」、大王「コニキシ」という訓みが伝えられており、「鞬吉支」はこの「コニキシ」に対応するかもしれない[154]。また、同じく『釈日本紀』秘訓には高句麗の王に対して「ヲリコケ」、夫人に「オリクク」の訓みがあてられており、於羅瑕、於陸と関係がある可能性がある[154]。李基文は、於羅瑕に「*eraka」、鞬吉支に「*kenkilci」の推定音を与えている[155]。
官制
『三国史記』によれば、始祖温祚王の時代から左輔・右輔の官名が見られる。これは高句麗における最高官位と同名だが、高句麗では新大王のときから国相が最高官位となった。
佐平制
百済では第8代の古尓王の27年(260年)に、一品官の六佐平(各種事務の担当長官)とそれに続く15階の官、あわせて16階からなる官制が整備されたと伝わるが[156]、実際に佐平制の雛形が整ったのは6世紀頃と考えられている[157]。第18代の腆支王の4年(407年)には六佐平の上に上佐平の官位を置いている。上佐平は軍事統帥権と国内行政権を総括するもので「宰相」に相当し[158]、また伝説時代の「左輔・右輔」にも相当する[159]。『日本書紀』には大佐平[160]、上佐平[161]、中佐平[161]、下佐平[161]も見え、上・中・下の佐平を総称して「三佐平」といった[161]。
『周書』百済伝には百済の官位には十六等級があり、佐平(左平)が最上位の一品であり定員は5名であったこと、六品以上の冠には銀製の花飾りがついていたこと、各官職の帯の色は、七品が紫、八品が皁、九品が赤、十品が青、十一品・十二品が黄、十三品以下は白だったこと、三品以下は定員がなかったことなどを伝えている[71]。
- 官位
- 佐平(さへい)- 一品官。その担当する職務によって、6種類に種別されている[156]。
- 達率(たつそつ)- 二品官[156]
- 恩率(おんそつ)- 三品官[156]
- 徳率(とくそつ)- 四品官[156]
- 扞率(かんそつ)- 五品官[156]
- 奈率(なそつ)- 六品官[156]
- 将徳(しょうとく)- 七品官[156]
- 施徳(しとく)- 八品官[156]
- 固徳(ことく)- 九品官[156]
- 季徳(きとく)- 十品官[156]
- 対徳(たいとく)- 十一品官[156]
- 文督(ぶんとく)- 十二品官[156]
- 武督(ぶとく)- 十三品官[156]
- 佐軍(さぐん)- 十四品官[156]
- 振武(しんぶ)- 十五品官[156]
- 克虞(こくぐ)- 十六品官[156]
- 官庁
文化
墓制
旧百済の領域にある墳墓は非常に多様であり、この多様性は同時期の新羅・伽耶や高句麗と比べ特殊である[163]。また、百済における墓制のもう一つの特徴は、隣接する他の諸国、高句麗や新羅、そして倭国等と比べてその規模が小さいことであり、百済人が墳墓に記念的な外観を求めなかった事を示していると考えられる[164]。
百済を含む朝鮮半島南部、いわゆる三韓(馬韓・弁韓・辰韓)の地域では、三国時代以前から木棺を埋葬主体とする木棺墓が主流であり、百済の初期の墓制もこうした馬韓以来の伝統の中から成長したものであると考えられる[163]。馬韓地域では特に埋葬設備の周りに口の字型、またはコの字型に溝を張り巡らせた周溝墓という形態が主流であった[165][163]。これを基礎として発達した墓制には、他に明瞭な墳丘を構築せずに地下に埋葬を行った土壙木棺墓や[163]、楽浪郡の影響で形成されたとも考えられる、木棺の周りに木槨(棺を納めるための枠)を組んだ木槨墓[165][164]、葺石を持った円形の墳丘に木棺を修める木棺封土墳(葺石封土墳)などの形式がある[164]。このような旧来の墓制から発達したものとは異質なものとして、現在のソウル市の江南地方にある石村洞古墳群には多数の積石塚が残されている[166][167]。このうち石村洞3号墳は東西49.6メートル、南北43.7メートル、高さ4メートルの規模を持ち、古墳群最大級の大きさを誇ることから、近肖古王の墓に比定する意見もある[168]。考古学者の山本孝文は、このような積石塚は墳墓にあまり視覚効果を要求しなかった百済地域における古墳としては例外的な大型墳丘であり、初期百済の墓制の代表的なものであるかのような印象を受けるが、漢江流域以外では旧百済地域で他に類例がなく、その築造時期も4世紀後半から5世紀前半に限定されることから、特殊な状況下で造営された形態であることは確実であるとしている[167][168]。この建築様式は一般に高句麗の影響を受けて成立したものと考えられており、この墓制を百済の建国や王室の交代と結び付けようとする様々な説が提案されている[169][168][167]。横穴式石室も中国や高句麗など多様なルートから導入された[170]。横穴式石室はその後、百済の主墓制として完全に定着し、形態や社会的性格の変化を経ながら百済時代の終焉まで存続した[170]。

熊津時代の墳墓としては、最も有名な宋山里古墳群の武寧王陵を始めとした塼築墳(塼室墳)が見られる[171]。これは塼と呼ばれる粘土を焼いた煉瓦によって構築された墳墓であり、これもまた外来の形式を導入した墓形式である[171]。朝鮮半島では楽浪郡で既に3世紀以前に塼築墳が造営されていたが、200年もの時間的隔たりがあり、技術的にも断絶していることから、6世紀前半に新たに中国の南朝(梁)から導入されたものであると考えられている[171]。
一方、百済の周縁部の墓としては、まず公州(かつての熊津)の東北35キロメートル程に位置する新鳳洞古墳群があり、4世紀から6世紀にかけて造営された土壙墓や竪穴式石室墓、横穴式石室墓等、多数の墳墓が残されている[172]。そこから発見された出土品には、漢城や熊津のような百済の中心部とは毛色の異なる、伽耶地方と関係の深い土器などが発見されており、百済における一地方の特色を示している[172]。
同じく公州の北6キロメートルにある水村里古墳群では、熊津への遷都が行われる以前からこの地方に勢力を持っていた地方集団の墓域が発見されており、木槨墓や竪穴式石室墓、横穴式石室墓が発見されている[173]。最南部にあたる全羅南道は5世紀末から6世紀に新たに百済の支配下に入った地域であり、百済の勢力拡張に伴い墓形式が変化した。
この地域では元来甕棺墓が墓制の中心であった[174]。5世紀には甕棺も大型化し、金銅冠や刀剣、鉄器、勾玉などを含む豊かな副葬品を持つ墓が多数造営されていたことが確認されている[174]。百済の勢力の拡張と共に、その影響を受けこの地でも横穴式石室が広がった[174]。この地域にある伏岩里3号墳では、同一の墳丘の中に長期に渡り埋葬が行われ続け、埋葬形式が古来からの甕棺墓から、百済中期式(または九州式)の横穴式石室へ、そして百済後期式の横穴式石室に変化していったことが発見されており、甕棺墓を中心とした墓制から横穴式石室墓への過渡期を見ることができる[175][176]。全羅南道にある横穴式石室を持つ古墳の中には、日本列島で見られる前方後円墳と類似した墳丘を持つもの(前方後円形墳、長鼓墳とも)が栄山江流域を中心とした地域で造営されている[175][176]。2017年現在で10数基(確定できない物を含むため、数は不定である。)が発見されており、当時の朝鮮半島の墳墓としては例外的に巨大な物が含まれる[177]。石室構造や副葬品から見て5世紀後半から特に6世紀前半に建造されたものと見られる[175][152]。栄山江流域周辺では、前方後円墳に加え、日本列島系の馬具や甲冑、勾玉などが在地の文物と共に副葬品として出土することなどから、これらの墓の造営者が倭と特に密接な関係を持っていたと推定されている[178][176]。その被葬者を巡っては倭人説、倭系百済官僚説、在地首長説など様々な説が出されているが、文献史料が存在しない事と相まって未だ論争の中にある[179][注釈 15]。
仏教

百済の仏教公伝は、『三国史記』『三国遺事』『海東高僧伝』などの記述に基づき、枕流王元年(384年)に東晋から胡僧の摩羅難陀を迎えたことで伝えられたとする見解が一般的である[181][182]。その翌年には漢山に寺を創建したとされる[182]。摩羅難陀の到来に際し、王自らが迎え入れ翌年には彼のために漢山に寺院を建立して僧10人を住まわせた[182]とあることから、既にこれ以前に私伝の形で仏教が伝わっていた可能性も推測されている[181]。一方で、この仏教公伝記録については、漢城時代の百済で発見されている仏教の痕跡が希薄であることや、長期に渡り仏教関係の記事が見られないことから疑問視する意見も根強い[181]。いずれの見解も史料的制約により結論を出すことが難しい状況にあり、今後さらなる研究が必要とされる[183]。先述の通り、漢城時代における百済での仏教の痕跡は極僅かであるが、1959年にソウル市で小さな金銅如来坐像が発見されている[184]。これは当初中国製と考えられていたが、当時の中国の仏像と比較して技術的に稚拙な点が見られることから、中国製の仏像を模倣して朝鮮半島で造られたものと見られるようになり、5世紀頃に作られた百済仏像の原型を示すものと認識されている[184]。

熊津時代に入ると武寧王陵の華文装飾塼などに仏教美術の影響が見られることや、各地の古墳から発見される副葬品から仏教と関連する物品が発見されるようになるなど、その痕跡は増大する[185]。仏教寺院跡が確認できるようになるのもこの時代からで、公州(熊津)付近に立地し熊津時代創建とされる寺院遺跡が複数個所存在する[186][187]。527年に造営された大通寺は、現在確認できる百済最古の本格的な伽藍を持つ寺院である。この寺は南から塔・金堂・講堂が一直線に並ぶ、日本における四天王寺式伽藍配置と同様の伽藍配置を取る寺院であり[188]、南朝の梁の武帝のために聖王の時代に建立されたと伝えられている[186]。現存する遺構は大部分統一新羅時代の物であることがわかっているが、瓦などに百済時代の痕跡が見られる[186][188]。他にも複数の寺院跡候補があるが、熊津時代の百済の寺院であると確定することは困難である[189][187]。このように遺物の分析から当時の百済で仏教が普及していたことは明白であるが、関連物品が墳墓などの個人的空間から発見され、割合も少ないことから、その普及は未だ限定的であったと考えられる[190]。高句麗に漢城を奪われ、大きく国力を損なった熊津時代の百済は、大規模な寺院を造営する事が困難であったであろうことは容易に推察され、寺院に限らず大規模な土木事業の実施は低調であったことが知られている[190]。そして、仏教信仰が継続していることが確実なのに対して、実際に発見される寺院の少なさなどから、この時代の百済仏教は王族や有力者の自宅を改築して作る捨宅寺院の形態をとっていたことが強く予想される[190]。
泗沘時代には、百済の国力回復を背景に多数の仏教寺院が建立された[191]。『周書』「百済伝」には「僧尼寺塔甚だ多し」とあるが、これはこの時代の泗沘の様子を描写したものであると考えられている[191]。遷都直後から寺院建設が始まったと見られ、そのほとんどが大通寺と同じく四天王寺式伽藍配置の寺院であるが、講堂を持たない扶蘇山西腹寺跡、仏塔を持たない東南里寺跡などもある[191]。7世紀に入って大規模な建設事業が行われた全羅北道の益山では、帝釈寺や弥勒寺のような百済史上屈指の規模を持つ寺院が造営された[191][192]。この時代の地方寺院としては、泗沘の北西にあった金剛寺跡や烏含寺跡や瑞山や泰安の摩崖仏のような石仏があるが、それ以外には本格的な伽藍を持つ寺院は無く、中心部を除けば大規模な仏教寺院を建立する状況にはなっていなかったと考えられる[193]。
百済の仏教の教義については一般に律蔵仏教の伝統を受け継いでいると言われている[194]。仏教公伝の当初から出家を認める戒壇と律法が伝わっていたと推定されることや、日本の『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』に百済における僧侶出家の際の受戒作法の詳細が記録されていること、526年にインドから帰国した僧侶譲益が梵本律蔵を訳したとする記録、そして『日本書紀』に百済から倭国への律師派遣や、戒法修学のために百済へ留学僧を派遣した記録が見られることなどから、百済が律学を重視し発展させていたことが概ね認められる[194]。また、泗沘への遷都に際しては、中国の南朝へ『涅槃経』を始めとした経典、工匠、画師などの造寺工を求めていることが多数中国の正史の記録に残されていることから、泗沘造営には南朝の技術と仏教思想が深く関わっていたと推定される[195]。
注釈
- ^ 浜田耕策は山尾幸久の分析を踏まえたうえで、裏面では百済王が東晋皇帝を奉じていることから、369年に東晋の朝廷工房で造られた原七支刀があり、百済が372年正月に東晋に朝貢して、同年6月には東晋から百済王に原七支刀が下賜されると、百済では同年にこれを複製して倭王に贈ったと解釈し、この外交は当時百済が高句麗と軍事対立にあったため、まず東晋と冊封関係を結び、次いで倭国と友好関係を構築するためだったとしている[13]。
- ^ 広開土王碑を巡っては、特に倭国関係記事が集中する第1面を巡り、その信憑性を巡って長い議論が続けられてきた。現在では『三国史記』『日本書紀』にも対応する記述があり、高句麗からの百済の離脱、百済から倭への人質や、それによる百済と倭の同盟など大筋で一致していることから、碑文の史料的価値は高いとされる[18]。これを巡る主要な議論については武田幸男「その後の広開土王碑研究」(1993)にまとめられている[19]。
- ^ 上哆唎(おこしたり)、下哆唎(あるしたり)、娑陀(さた)、牟婁(むろ)の四県。これが現代のどの地方に当たるかについては、全羅南道にほぼ相当するという説と、全羅南道の南東部であるという二つの有力な説が存在する[31]。
- ^ a b 『日本書紀』は日本から百済への「割譲」とするが、『三国史記』に対応する記述はない。一方で、この地域では現代の考古学的調査によって日本列島に見られるものと類似する前方後円墳が発見される。 研究動向としては、この時代に倭がこの地方に実質的な支配権を持っていたとする学者は少ない。武田幸男は百済がこれらの地域を掌握するにあたって倭側の了解を取り付けたものであろうとする[30]。また、朝鮮古代史研究者の田中俊明はこの地域を百済が実力で確保していったものと見、四県割譲記事は「日本書紀の筆法」と見る[32]。
- ^ いわゆる「任那の調」はかつて任那が倭に献上していた(とされる)調を、その地を支配する新羅に対して代納することを倭が要求したもので、百済のみならず高句麗との対立も深まっていた新羅側が「任那使」を建ててこれを「献上」することで倭国との関係悪化を防ごうとしたものと解される。一般に当時「任那復興」を国策の一つとしていたが、現実的にそれを実現することが不可能であった倭国と、外交的孤立を避けようとした新羅の間で成立した政治的妥協の産物と見做される[44]。
- ^ ここでいう百姓は「農民」の意味ではなく、家臣または有力者の意[66]。百姓#漢語としての語義と日本での変遷
- ^ 李成市は、高句麗の神話と夫余の神話は類似点はあるものの、神話学的な類型では重要な相違点があり、夫余と高句麗を同族と見做す根拠として見ることはできないと指摘する。それによれば、高句麗の神話は外来王神話の一種であり、高句麗王権の権威と正統性を強めるため、東夷の中でも国家形成が古く名族として知られた夫余との同源性を強調すべく政治戦略的に採用されたと見られ、しかも時代が進むにつれその夫余神話と高句麗神話の習合が進むという。また、初期の中国人たちによって記録された夫余と高句麗の同源神話が、伝聞以上に憶測に基づいており信憑性に乏しいことなどを指摘している[94]。
- ^ 5世紀半ばに高句麗が新羅に対する巨大な影響力を行使していたという見解に対しては、高句麗軍の新羅駐留を確認すべきであるという指摘があった。しかし、『広開土王碑文』以来の高句麗、新羅間の関係から容易に想定が可能であり、更に『中原高句麗碑』の発見によって、新羅に高句麗が派遣した新羅土内幢主が存在していたことや、それが新羅の支配層をしばしば軍営に召集したこと、新羅に高句麗の服制が導入されたことなどが確認されたことから、現在ではその影響力は非常に実質的なものであったと考えられている[99]。
- ^ 『日本書紀』の紀年は特に雄略紀以前の年次が中国・朝鮮の歴史書と一致しない場合が多い。これは現代では『日本書紀』の編纂時に、4世紀に始まった中国・百済・伽耶との交渉開始を、干支を二運(120年)古く設定することで3世紀に引き上げる年次操作が行われていることがわかっている。神宮皇后46年を366年とするのはこの年次操作を修正した後の推定年次である。詳細は日本書紀の記事を参照。なお、神功皇后の実在は一般に疑わしいとされるが、ここでは本論から離れるため神功皇后の実在可能性の問題には触れない。これについての詳細は神功皇后の記事を参照。
- ^ 多くの学者によって5世紀の百済と倭国の関係についての『広開土王碑文』や『日本書紀』『三国史記』の記録の重要性は高く評価されるが、百済と倭との関係に上下関係を設定することには慎重な表現を用いることが一般的であり、しばしば倭と百済の「連盟[115]」や倭による「救援[114]」のような表現をされる。
- ^ 倭の五王による百済地域における軍権を含む称号の除正をめぐっては長く議論が行われている。坂元義種の理解によると、東夷の諸王に正式に除正された地位では、常に高句麗を最上位とし、続いて百済、最後に倭という南朝の序列は南北朝時代を通じて変わることがなかった[118][85]ただし、坂元義種は、南朝が倭王の百済に対する軍事的支配権を承認しなかったのは、北魏を封じ込めるために国際政策上百済を重視したからであり、「南朝が、最強の敵国北魏を締めつける国際的封鎖連環のなかに百済をがっちりとはめこんで、その弱化を認めまいとする、南朝の国際政策」と指摘する[119]。坂元義種の主張について石井正敏は、倭王が百済王よりも下位であるなら、上位である鎮東(大)将軍である百済の軍事的支配権を、下位である安東(大)将軍である倭王が執拗に要求しているのは何故かという素朴な疑問が付きまとうことを指摘している[120]。南朝から冊封され、希望する官爵を自称し、除正を求めるだけでなく、部下にも南朝の将軍号を仮授した上で除正を求めている倭王が、南朝の官爵制度を理解していないとは考えられないことから[120]、百済の軍事的支配権を主張した倭王は安東(大)将軍でも「都督百済諸軍事」号要求は可能であると認識していたと考えざるを得ず、何故なら倭王が、自らの安東(大)将軍という地位では「都督百済諸軍事」要求が不当なであると認識していたなら、さらに上位の称号を、除正を承認されないことを承知の上でも自称するはずであり、それは高句麗との対決を明確にした倭王武が、高句麗王と同等の待遇である「開府儀同三司」を自称し、除正を求めていることからも裏付けられる[121]。
- ^ 倭国の朝鮮半島における出先機関とされる、いわゆる「任那日本府」は、かつて朝鮮半島における倭国の統治機関と見做されたが現在ではこの考えを取る朝鮮史学者はほとんど存在しない。任那日本府は、任那(狭義においては加羅国)が新羅に制圧された後、百済・伽耶諸国との連携の下で「任那復興」を画策するという歴史的文脈の中で、『日本書紀』「欽明紀」にのみ登場する[130]。この任那日本府は「在安羅諸倭臣」とも記され、独自の利害に基づいて倭本国とは異なる行動(新羅や高句麗との通謀など)をとっていることがわかっている。また、日本府を交えた任那復興を巡る諸会議についての『日本書紀』の記録は概ね「百済本記」に拠って記述されていると考えられる[129][130]。その実態を巡っては諸説入り乱れているが、この任那復興会議自体が百済の主導によるものであったとし、任那日本府を自立性の強い勢力と見て倭王権と直接の繋がりを持たないとする見解や[129]、統治機関としての性質は持たない物の、元々は倭王権が任那における勢力回復を目指して6世紀に新たに設置した出先機関であるとする見解などがある[130]。詳細は任那日本府を参照。
- ^ 『日本書紀』における百済系史料の史料的価値の確認とその使用箇所を字音仮名の分析から行った木下礼仁は、稲荷山鉄剣銘に代表される5世紀から6世紀にかけての倭国の金石文の用字法が、推古朝遺文や、『日本書紀』に引用される『百済三書』等の用字法と類似しており、これらが百済文化との関連性で捉えられるとしている。一方で、『釈日本紀』に新羅に使者を出して文字を習ったとする記録がある事や、朝鮮半島に残る新羅の金石文もまた同様の字音体系を持つことから、稲荷山鉄剣銘や江田船山古墳大刀銘の表記法体系が広く朝鮮半島の文化要素を受容したものであることを指摘している[142]。
- ^ 倭国において彼ら百済系の渡来氏族は、倭王権に仕える諸蕃として「保存」され、異国人として歌舞の上奏などを行った。これによって諸蕃を支配するという倭王権の体裁を整える役割を果たし、一方では倭国における課役の免除や官吏としての任用などにおける特殊な地位を維持した。このことに意識的であった百済王氏や、百済系氏族の津氏は、延暦9年(790年)の段階の上奏においてなお日本を「貴国」と呼称したことが『続日本紀』に記録されており、百済出自であるという自己認識を維持し続けたことが確認できる[143]。
- ^ 全羅南道に複数ある前方後円墳が倭との密接な関係の中で造営されたことは疑いが無い[175]。しかし、様式が倭系の物であることをもって直ちに被葬者が倭人であるとすることには慎重を要する。 朝鮮古代史研究者の山本孝文は、その形態や副葬品の系譜が殆ど中国式と言って良く、他に類例の少ない様式である武寧王陵の被葬者が百済王である武寧王であると判別できたのは、ひとえにその墓から墓誌が発見されたからに他ならないと言う。 そして、もしこの墓から墓誌が発見されていなかったならば、その被葬者は百済支配層に含まれる中国系有力者や、中国で仕官した経験のある百済人、或いは中国系百済官僚などと解釈されていたであろうと述べ、墓形式や副葬品から考古学的に被葬者を割り出すことは極めて困難なことなので、結論には慎重であるべきであると指摘している[180]。
出典
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