熊本藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/10 05:04 UTC 版)
江戸および熊本での菩提寺
- 江戸での菩提寺は品川大徳寺派の寺院、東海寺の内にあった妙解院であった。熊本新田藩も妙解院を菩提寺としていた一方、宇土藩は同じく東海寺内の清光院を菩提寺としていた。
- 熊本での菩提寺は妙解寺と泰勝寺。両寺は「熊本藩主細川家墓所」の名称で史跡に指定されている[11]。2023年(令和5年)2月2日、同史跡の細川家墓に、何者かが液体をかけたような跡が見つかった。熊本市は県警に被害届を提出。水で除去できないことから、人為的に汚された可能性が高いとみている[12]。
歴代藩主
加藤家
外様 52万石 (1600年 - 1632年)
代 | 氏名 | 肖像 | 官位 | 在職期間 | 享年 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 加藤清正 かとう きよまさ |
従四位下 肥後守 |
慶長5年 - 慶長16年 1600年 - 1611年 |
49 | ||
2 | 加藤忠広 かとう ただひろ |
従四位下 侍従 |
慶長16年 - 寛永9年 1611年 - 1632年 |
52 |
細川家
外様 54万石 (1632年 - 1871年)
代 | 氏名 | 肖像 | 官位 | 在職期間 | 享年 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 細川忠利 ほそかわ ただとし |
従四位下 左近衛権少将 |
寛永9年 - 寛永18年 1632年 - 1641年 |
54 | 豊前小倉藩から転封 | |
2 | 細川光尚 ほそかわ みつなお |
従四位下 肥後守 |
寛永18年 - 慶安2年 1641年 - 1649年 |
30 | ||
3 | 細川綱利 ほそかわ つなとし |
従四位下 左近衛権少将 |
慶安2年 - 正徳2年 1649年 - 1712年 |
71 | ||
4 | 細川宣紀 ほそかわ のぶのり |
従四位下 越中守 |
正徳2年 - 享保17年 1712年 - 1732年 |
55 | 肥後新田藩主・細川利重の子、綱利の甥 | |
5 | 細川宗孝 ほそかわ むねたか |
従四位下 越中守 |
享保17年 - 延享4年 1732年 - 1747年 |
31 | ||
6 | 細川重賢 ほそかわ しげかた |
従四位下 侍従 |
延享4年 - 天明5年 1747年 - 1785年 |
66 | ||
7 | 細川治年 ほそかわ はるとし |
従四位下 越中守 |
天明5年 - 天明7年 1785年 - 1787年 |
29 | ||
8 | 細川斉茲 ほそかわ なりしげ |
従四位下 越中守 |
天明7年 - 文化7年 1787年 - 1810年 |
80 | 宇土藩主・細川興文の子 | |
9 | 細川斉樹 ほそかわ なりたつ |
従四位下 越中守 |
文化7年 - 文政9年 1810年 - 1826年 |
29 | ||
10 | 細川斉護 ほそかわ なりもり |
従四位下 侍従 |
文政9年 - 万延元年 1826年 - 1860年 |
55 | 宇土藩主・細川立之の子 | |
11 | 細川慶順 ほそかわ よしゆき |
正四位 左近衛権中将 |
万延元年 - 明治3年 1860年 - 1870年 |
41 | ||
12 | 細川喜廷 ほそかわ のぶたか |
従四位下 右京大夫 |
明治3年 - 明治4年 1870年 - 1871年 |
44 |
支藩
注釈
- ^ 「鍋に細川と書いた紙を貼ると金気(金属特有のにおいや味)が無くなる」は人口に膾炙するも、巷説や後世の創作ともされる。
- ^ 伊達村豊(宗春)は浅野長矩の刃傷後に、梶川頼照らと共に長矩を捕獲した。田村建顕は長矩を罪人として厳しく扱っている。赤穂義士引き上げでも、伊達綱村は愛宕下で、仙台藩邸前に兵を待機させ義士一行の通行を阻止した。[『伊達治家記録』(だてじけきろく)]
- ^ 旧細川藩邸の義士切腹場所には、墓の台座部分(四角い芝台石)と供養塔の残滓(角が丸くなって銘が全く読めなくなった石)と思われる石の集まりが残る。21世紀に入り、遺構と思われる出土品(破損した供物用の皿)が石の下から発掘されている。
- ^ 『堀内伝右衛門覚書』真筆も同時期に散佚し、現存するのは安永7年写しである。
- ^ 危篤状態ということにして後に死亡を届けたのは直弼の場合と同じ(これで改易を回避している)。
- ^ 旧高旧領取調帳データベースでは、誤って熊本藩領の野津原村以下19村が臼杵藩領に分類されている。
出典
- ^ 山田貴司「加藤清正論の現在地」(山田貴司 編著『シリーズ・織豊大名の研究 第二巻 加藤清正』(戒光祥出版、2014年)ISBN 978-4-86403-139-4)
- ^ 蓑田勝彦『肥後藩の百姓一揆』より3~10ページ「肥後藩の百姓一揆年表」(熊本大学)
- ^ 青木虹児『百姓一揆の年次的研究』
- ^ 熊本藩史料集成「肥後藩の政治」十四(89ページ)
- ^ 明治3年(1870年)に熊本藩に復帰
- ^ 細川護熙『細川家の700年』(2008年、新潮社)83ページ
- ^ 大谷木醇堂『醇堂叢稿』、『旗本御家人』(200~210頁)。など
- ^ 菊地明『幕末証言 史談会速記録を読む』(2017年)
- ^ 嘉永三(1850)年の尾張屋「高輪辺絵図」の絵図中に「細川越中守中屋敷」の表記
- ^ 「肥後文献叢書」第一巻に「正保元(1644)年に白金の地を増上寺南にあった下屋敷の代地として拝領し、正保三(1646)年に転居した」と記されている。また「その後、延享二(1745)年に火災でこの白金下屋敷が焼失した」とあり。
- ^ 文化遺産データベース 熊本藩主細川家墓所、2023年2月13日閲覧。
- ^ 「熊本藩主細川家の墓に赤い液体 熊本市の国史跡「四つ御廟」 市は被害届を提出へ」熊本日日新聞(熊本日日新聞社)ニュース・話題(2023年2月9日)
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