新京特別市 国都建設概況

新京特別市

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/21 07:48 UTC 版)

国都建設概況

街路

新京の街路は、放射状、環状、方形式の街路を巧みに組み合わせたもので、大同広場や駅を基準に放射状道路を設け、それを囲むように環状道路を配した。また、大同大街、順天大街などのメインストリート沿いは二線直角を原則とした方形式の街路を配した。

また、街路方向の一般観念を示すため、南北方向を「街」、東西方向を「路」とし、幅員38m以上のものはそれぞれ「大街」「大路」と称した。また、補助道路は最寄りの街路を採って「胡同」と称した[36]。なお、斜路については、北東 - 南西方向を「街」、北西 - 南東方向を「路」としている。

新京の都市計画では、街路を幹線、支線、補助線の3つに区分し、幹線は24 - 80m、支線は10 - 18m、補助線はそれ以下の幅員(最低幅員4m)とした。幹線、支線はすべて車道歩道に分けられ、幹線道路の車道は、中央を自動車バス等の高速度車用、その両側を馬車人力車等の緩速車用に分離し、さらにその両端を安全な歩道とした。各道の間には街路樹が植えられて区切られている。

幅員60mの幹線の場合、中央部に幅16mの遊歩道が設けられ、その両外側に幅12m(3車線)の道路が併設され、更に両端に幅10mの歩道が設置されていた。また遊歩道と歩道は街路樹による緑地帯で車道と区切られていた。幅員45mの幹線の場合、幅16m(上下4車線)の中央高速車道の左右に、それぞれ幅2.5mの樹林帯、幅6mの緩速度車道、幅6mの歩道が設けられた。幅員26mの幹線の場合、幅18mの車線の両側に幅4mの歩道が設けられた。

幅員10m以上の道路は総て舗装され、交通の頻繁な主要道路は瀝青舗装(アスファルト及びタールマカダム舗装)、荷馬車専用道路は荷重に耐えられるよう小舗石又は硬質煉瓦舗装、歩道の主要部分はコンクリート板石張りとされた。幅員14m以上の街路は必ず街路樹で両側を飾り、同時に美観を保つために電信電話電灯用の電柱や架空線その他の一切の路上施設を禁じて地下配管とし(電線類地中化)、宅地の背後にある裏通り(背割道路)に電気・電話の架設線、上下水道管・ガス管を設置した。なお、市街地建設中の箇所については暫定的に架空線の設置を許可している。

これらの道路建設には、当時の日本でも珍しかったブルドーザーモーターグレーダーロードローラー、牽引式スクレイパー等の建設機械が投入されている。

環状道路

1933年(大同2年)に軍部の要請により、新京防衛のため外周部に環状道路が建設された(国務院国道局施工)。これにより匪賊及び抗日ゲリラの襲撃が激減し、治安状況が改善した。後に環状道路の沿道では植樹が行われ、新京のグリーンベルトを形成した。なお、新京北西部及び南部には、これとは別に環状緑地帯が設けられている。

上下水道

上水道

旧長春時代の水飢饉に鑑みて、新京の水源獲得は喫緊の課題だった。そのため国都建設局は満鉄の協力を得て水源調査を実施し、地下約100mに一大地下水層を発見した。1932年(大同元年)9月、大同公園内に深井戸を築造したのを始めとして、新京各地20箇所に水源井を設け、1日あたり11,000の涌水能力を保持したが、地下水による給水量にも限度があり、改めて新京全人口に対する水道計画樹立を認め、新京市街から南東12kmにある伊通河支流の小河台河を堰き止めて貯水池を設けた。堰提の長さ550m、貯水面積4.7km2、総工費350万圓、1933年(大同2年)10月に現地調査を開始し、1934年(康徳元年)5月着工、1935年(康徳2年)10月(附帯設備は11月)に完成した貯水池は「浄月潭」と命名された。

上水道は1937年(康徳4年)末の第一期建設事業の完成に伴い、市水道科に引き継ぎ施行された。1936年(康徳3年)1月に於ける1日の給水能力は32,000m³を保持したが、1939年(康徳6年)度より給水量の不足が感じられたため、1940年(康徳7年)に3ヵ年継続事業として工費713万円を投じて第2次拡張工事を実施した。浄月潭貯水池からの取水量を10,000m³増加し、更に伊通河地表水を1日20,000m³取水して合計30,000m³に増加、これに伴う浄化送配水設備を増設し、既存の分と併せて合計62,000m³を確保した。しかし、新京特別市の異常な発展により給水量の増加が著しく、計画給水量1日62,000m³を即に消費しつつあったため、抱擁人口100万人を目標に1942年(康徳9年)度より第3次拡張工事として飲馬河の流水採取を企画した。

なお、浄月潭貯水池の上流には水源林を目的とした植樹が行われ、現在では中国最大級の人工林とされている。1988年に「浄月潭国家森林公園」に指定され、浄月潭と併せて中国国家風景名勝区中国国家4A級旅游景区等に指定されている[38]

下水道

新京では、国都建設局顧問の佐野利器の強い要望により、新市街全域で水洗便所の普及を実施した。当時の中国大陸の各都市では一般的に便所が存在せず、井戸に汚物が流れ込むなど極めて不衛生だった。新市街においては建築規則に基づき強制的に実施して、100%の便所の水洗化が達成され、アジア初の水洗便所が全面普及した都市となった。汚水は伊通河河畔の汚水浄化施設で処理された後、河川に放流された。

下水道は新市街では汚水と雨水を分ける分流式が全面的に採用され、その他の地域では合流式が採用された[注釈 10]。雨水は新市街を流れる伊通河支流を堰き止めた人工湖(雨水調整池)に蓄えられ、非常水源として確保された。また、伊通河支流は総て親水緑地帯とされ、人工湖を利用した臨水公園が建設された。この結果、新京は世界最高水準の緑化・親水都市の様相を呈するに至った。

下水道は1937年(康徳4年)末の第一期建設事業の完成に伴い、土木科に引き継がれて管理経営すると同時に、新設も土木科で行う事とされた。下水道計画は地形に応じて9箇所の独立した排水区域に分割し、更に50余りの排水系統に分けて、分流式及び合流式により伊通河へ放流した。下水工事の完成区域は、1943年(康徳10年)時点で安民大路、至聖大路以北の殆ど全市にわたり、敷設延長は43万mに及んでいる。

市街地域

市街地域は住居商業工業の三地域に大別され、特に住居地域は住居専用地域を設定して工場の設置を厳重に制限した。商業地域(卸売地域、小売地域、商館地域)は原則として路線式を採用した。工業地域(準重工業、軽工業)は、伊通河の水流と風向きを考慮して市街地東北部に指定された。特に重工業地域は東方の伊通河沿岸を区画整地し、煤煙と騒音が市域に及ばないように配慮された。農村地域は郊外公園或いは生産緑地として緑化を助長し、農耕、山林、牧場等の指定により、無秩序な市街化の防止に考慮されている。

国都建設計画事業区域に於ける建築活動は、「国都建設局建築指示条項」(国都建設局指示第1号)により規制され、建築物の構造、形態、工事執行手続きが定められた。これにより建築物の高さは全市域に亘って20m以下(塔部を除く)とされ、オフィスビルと大型商業建築物は、道路との境界から10 - 15m後退(セットバック)して建設するよう指導した。その後「国都の目抜通りに高低の揃わない建物が歯の抜けた櫛のように並ぶのは都市美観上からも国都の面目にかけても面白くない」ため、広場及び主要道路に美観地区(甲種・乙種・丙種・丁種・戊種及び特殊の6区分)を指定して、主要道路に面した建築物の軒高を規制した。この他に風致地区も指定されている。

人口密度は住居地域に於いて、一平方キロメートルに付き第一級4000人(宅地875m2)、第二級5000人(宅地770m2)、第三級10,000人(宅地440m2)、第四級12,000人(宅地330m2)とされ、商業地域の密度は12,000人とされた。新京特別市全体では一人当り占有面積が約180平方メートル(約55坪)とされた[39]

大同大街

大同大街。中央は康徳会館、左手前は三中井百貨店。

新京の市街地を南北に縦断する全長7.5kmに達する大通り。新京駅前のロータリーから始まる中央通は、西公園(1938年(昭和13年)11月3日に児玉公園と改称)付近で幅員がそれまでの36mから54mに拡がり、「大同大街」と名前を変えて市街地南端の建国忠霊廟建国大学まで達していた。

大同大街には関東軍司令部兼在満洲国日本大使館[注釈 11]関東局・関東憲兵隊司令部[注釈 12]や、第三庁舎(財政部、後に建築局)、民生部、蒙政部(後に国務院官用需品局、水利電気建設局が使用)等の官庁の他、ニッケビル三菱康徳会館三中井百貨店大興ビル満洲興業銀行本店)、東京海上ビル[注釈 13]東洋拓殖ビル(満洲重工業開発本社が入居)等の商業ビルが建ち並び、新京のメインストリートを形成した。これらの建物は、前述の建築指示により軒高が揃うように建設されている。

大同広場

大同広場は新京駅の南2.5km(満鉄附属地南端から1km)に位置し、道路を含む直径300m、外周約1kmの大ロータリーで、中心部に直径200mの公園広場が設けられている。「特別市指定ニ関スル件」(大同2年教令第23号)で新京特別市の区域が明文化されているが、大同広場を基準に区域が指定されているように、大同広場は新京の都心に位置付けられている。また、満洲国の水準原点は大同広場の中央に設置されており、1934年(康徳元年)に、大連湾の中等海水面に基づいて標高が218.170mと定められている。

大同広場からは、放射状に長春大街(東北東方面)、興安大路(西北西方面)、建国路(西南西方面)、民康大路(東南東方面)の各幹線道路が延びており、大同広場の外側を天安路と煕光路が六角形に囲んでいた。これらの街路に囲まれた用地には、満洲中央銀行総行(本店)[注釈 14]満洲電信電話本社[注釈 15]、第一庁舎(国都建設局・文教部の後、新京特別市公署[注釈 16]、第二庁舎(司法部・外交部の後、首都警察庁[注釈 17]等の大型公共施設が建設された。

順天大街

帝宮造営地から順天広場を抜け、安民大街、至聖大路の交点にあたる安民広場まで一直線に南へ延びる順天大街(現在の新民大街)は、全長1.7km、幅員60mを誇る大通りで、満洲国政府各機関が建ち並ぶ官庁街として建設された。沿道には国務院や軍政部[注釈 18]、司法部、財政部[注釈 19]、交通部の庁舎が建設された。南端には安民広場と呼ばれる大ロータリー(道路を含む直径244m)が設けられ、広場に面して綜合法衙(そうごうほうが[注釈 20])が置かれた。これらの建築物は吉林大学の学舎や病院等として現在も使われており、「八大部」(満洲国の八大統治機構[注釈 21])として吉林省重点文物に指定されている。


注釈

  1. ^ 『満洲年鑑』等では「新京市政公署」の記述も見られる。
  2. ^ 吉長道伊公署の改称年等、幾つかの記述は実際と異なるが、前掲資料に基づいた。
  3. ^ それまでは住所表記等で、依然「長春」の名称が使用されていた。
  4. ^ 1941年(康徳8年)1月1日に双陽県と伊通県を廃止して通陽県が設置された。
  5. ^ 長春が特別市と称したため「新京」に改称後も特別市と称していた。1933年(大同2年)7月1日以前の哈爾濱特別市も同様。
  6. ^ 後に「首都警察廳官制中改正ノ件」(康徳4年9月30日勅令第282号)により、新京特別市のみを管轄とした。
  7. ^ 1支里は500mに相当。
  8. ^ 三井物産名義の買収:33万4196坪、中国側官憲経由の買収:108万9272坪、条約による無償収納:2万9997坪、ロシアからの引継ぎ:1万9608坪、未詳地3万383坪。
  9. ^ 長春仮停車場。長春駅開業に伴い西寛城子駅と改称したが、1909年(明治42年)2月23日に廃止されている。
  10. ^ 分流式は1939年当時の日本国内でも3ヵ所(東京市麹町区の一部、京都岐阜)のみで、部分的な採用だった。
  11. ^ 現在は中国共産党吉林省委員会。吉林省重点文物。
  12. ^ 現在は吉林省人民政府。吉林省重点文物。
  13. ^ 現在は長春市中心医院。長春市重点文物。
  14. ^ 現在は中国人民銀行長春中心支行。吉林省重点文物。
  15. ^ 現在は長春人民広播電台として使われている。長春市指定文物。
  16. ^ 爆破解体され、現在は中国共産党長春市委員会の建物が建つ。
  17. ^ 現在は長春市公安局として使われている。吉林省重点文物。
  18. ^ 1937年(康徳4年)に「治安部」に改組。
  19. ^ 1937年(康徳4年)に「経済部」に改組。
  20. ^ 最高法院、最高検察庁、新京高等法院及び高等検察庁の合同庁舎
  21. ^ 治安部(軍事部)、司法部、経済部、交通部、興農部、文教部、外交部、民生部の総称
  22. ^ 中国古来の都城が宮殿正面を南に面し、正門から南へ直線道路が延びて官庁街を形成した伝統による。日本の平城京平安京も同様。

出典

  1. ^ 『満洲国政府公報日譯』第53号、1932年(大同元年)10月7日、14頁
  2. ^ a b 大同元年4月1日国務院佈告第1号「満洲国国都ヲ長春ニ奠ム」(大同元年3月10日)
  3. ^ a b 大同元年4月1日国務院佈告第2号「国都長春ヲ新京ト命名ス」(大同元年3月14日)
  4. ^ 『満洲年鑑』389-406頁
  5. ^ 新京商工公会刊『新京の概況 建国十周年記念發刊』2頁
  6. ^ 新京特別市公署『新京市政概要』12-13頁、新京商工公会刊『新京の概況 建国十周年記念發刊』1-7頁、『満洲年鑑』昭和20年(康徳12年)版 389-390頁、他を参照。
  7. ^ a b 首都警察廳正式成立ノ件(大同元年10月18日民政部訓令第286号)
  8. ^ 「大同元年十一月一日ヨリ新京ノ各郵電局台ノ名称ヲ改ムル件」(大同元年10月22日交通部佈告第3号)
  9. ^ 「新京特別市区域ニ関スル件」(康徳4年9月30日勅令第280号)
  10. ^ a b c d 「新京特別市ノ区域ニ関スル件」(康徳4年12月1日勅令第401号)
  11. ^ a b 「新京特別市竝ニ吉林省長春縣及通陽縣ノ区域変更ノ件」(康徳10年6月1日勅令第172号)
  12. ^ 『満洲国史 総論』 773頁
  13. ^ 国務院国都建設局『國都大新京』5頁
  14. ^ 新京特別市公署『新京市政概要』7頁
  15. ^ a b 新京特別市公署『新京案内』9-10頁
  16. ^ a b 新京特別市公署『新京市政概要』7-11頁
  17. ^ 満洲日日新聞、1937年1月16日
  18. ^ 新京商工公会刊『新京の概況 建国十周年記念發刊』18-19頁
  19. ^ 『満洲年鑑』昭和20年(康徳12年)版、1944年、389頁
  20. ^ 特別市制(大同元年8月17日教令第77号)第1条「特別市ハ法人トシテ直接国ノ監督ヲ承ケ省ノ行政範囲ニ入ラス(後略)」
  21. ^ 自治縣制(大同元年7月5日教令第55号)第2条「縣ハ特別市ヲ包含セス」。
  22. ^ 「特別市指定ニ関スル件」(大同2年6月21日教令第51号)
  23. ^ 「特別市指定ニ関スル件廃止ニ関スル件」(康徳4年6月27日勅令第142号)
  24. ^ 新京特別市公署『新京市政概要』6頁
  25. ^ 『満洲年鑑』昭和20年(康徳12年)版(1944年、390頁)による。『満洲年鑑』昭和19年(康徳11年)版(1943年、408頁)では772.44km2と記されている。
  26. ^ 新京商工公会刊『新京の概況 建国十周年記念發刊』16-17頁
  27. ^ 「首都警察廳官制」(大同元年6月11日教令第29号)第2条及び第4条
  28. ^ 『満洲年鑑』昭和20年(康徳12年)版、1944年、390頁
  29. ^ 橋本敬之氏の新京地下鉄調査談」『土木建築工事画報』第15巻第10号、1939年10月、141頁
  30. ^ 『満洲国史 各論』 1021頁
  31. ^ 旧満洲国の「満鉄附属地神社」跡地調査からみた神社の様相 (PDF)神奈川大学 21世紀COEプログラム人類文化研究のための非文字資料の体系化」)
  32. ^ 「満洲ニ於ケル日露鐵道接續業務ニ關スル假條約」(日露鉄道接続仮条約:1907年(明治40年)6月13日調印)附属議定書第一條による。
  33. ^ 新京商工公会刊『新京の概況 建国十周年記念發刊』8頁
  34. ^ 1932年(大同元年)11月1日に長春駅から改称。
  35. ^ 「国都建設計画区域内ノ新設公園広場等ノ名称」(大同2年国都建設局佈告第3号)、『満洲國政府広報日譯』第127号、1933年5月3日、13-14頁
  36. ^ a b 国務院国都建設局『國都大新京』(日譯)26頁
  37. ^ 国務院国都建設局『國都大新京』(日譯)25-26頁
  38. ^ 長春浄月潭人民網日本語版、2010年3月26日
  39. ^ 国務院国都建設局『國都大新京』(日譯)17頁
  40. ^ 康徳9年7月15日国務院佈告第13号・康徳9年7月15日祭祀府佈告第1号による。





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